「この道」、
私たちの世代でしたら、誰でも
知っている曲だろう。
歌詞はこうであった。
この道はいつか来た道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてる
あの丘はいつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよ
この道はいつか来た道
ああ そうだよ
お母さまと馬車で行ったよ
あの雲もいつか見た雲
ああ そうだよ
山査子の枝も垂れてる
以上。
今の教科書に、載っているだろうか。
私は、よく歌った気がする。
このような歌詞が作れ、このようなメロ
ディーが作れた時代があったのだ。
感嘆する。
子どもの時には、考えたこともなかっ
たが、この年になって、聴いていると、
こんな感性があったのだと、驚いて
いる。
北原白秋は、1885年(明治18年)1月
25日、福岡県南関町の母の実家で生
まれ、
山田 耕筰、1886年(明治19年)6月9日
と、ネットにはあった。
100年以上前の人たちが作った歌詞、メロ
ディーが、上品な情趣をかもしだしている。
今の時代に、このような情趣を、感じ入る
ことは、皆無かもしれない。
今の時代、高度情報化社会とも言われて
いる。
しかし、このような「この道」のような感性
は、忘れ去られた感性だ。
1996年、インターネット元年と言われた。
その当時、ネットにはホームページも少な
く、その世界は善男善女の住む性善説
の仮想空間だったような気がする。
しかし、今や、「パンドラの箱」をひっくり
返して(?)、これまでの時代だったら、
知りようもないおぞましい情報が飛び
交う時代となった。
現実の世界では知りようもないおぞま
しい情報が、ネット空間を飛び交い。
現実の世界へと、溢れだす。
ネット空間も現実の空間も魑魅魍魎
の住む時代となった。
情報は暴走し、われわれの感性も
理性も破壊し始めている。
とはいうものの、まだ我々の世代は
この曲のような感性を、心の中に
抱くことができたのは、幸運だと
いえるのではないか。
市井の喧騒を遥か彼方にして、
高貴な感性に浸り、おぞましく
汚らわしい情報に溺れそうな
我が心に、平安を。
我が心を、美しい時間で
埋めつくそう。
我が心よ、甦れ。