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リタイアーのよもやま話

塩野七生氏の「ローマ人物語 最後の努力(上下)

2011-09-30 22:38:20 | 若い時に読みたかった本


塩野七生氏の「ローマ人物語 最後の努力(上下)」
を読んだ。

何故かというと、ローマ帝国の崩壊した理由が分かるの
ではと期待したからだ。

いろいろと、学ぶものがあった。少しずつ、理解が深まる
ようで嬉しいものである。


その中で、面白い内容にめぐり合った。

それは、わたしが昔から気にしていたキリスト教のローマ
での国教化という話しである。

どうして?ということである。

意外とわたしたちは、キリスト教の側にたった考え方を
していたことに気づいた。

つまりキリスト教徒の信仰の努力が実ったという理解の
仕方である。

このことについては、まったく考えたことない考え方が
示された。

ある意味で、驚愕な内容であった。

それは、「最後の努力」の下巻に、書かれている。


この中で、このような文章があった。

以下、抜粋し、文章を前後入れ換えたりして私なりの
理解しやすい形にしてみた。


 「王権神授説」とは、絶対王政華やかなりし時代の
17世紀に、イギリスのジェームズ1世やフランスの
ルイ14世が主張した説として知られている。

(これは、世界史の授業で習った記憶がある)


だがそれを、「現世の支配権の神授説」と言い換える
ならば、17世紀の時点からでも1300年も昔に
すでに、皇帝コンスタンティヌスによって種がまかれ
ていた「考え」であったのだ。

 ただしそれが、自分の血をひく子への継承に限るな
らば、これほどまでしてコンスタンティヌスが定着させ
ようと努めた支配権の神授説も、息子の代を最後に断絶
してしまう。

しかし、「アイデア」 のほうは、その後も長く、考え
ようによってはフランス大革命までつづいたのだから長命
を享受したのである。

長く命を保てたのは、決めるのは人間ではなく神とした
この「考え」が、支配する側にとってはまことに好都合
であったからだった。

 

 

                      
 ローマ人は、王政・共和政・帝政と政体ならば変移させて
きたにかかわらず、世襲という一言に関しては一貫して、
釈然としない、俗な言い方なら胡散臭い、感じをいだいて
きた民族であった。

王政とて選挙制であったのだし、共和政となればもちろんの
こと、現代の首相にあたる執政官は市民集会の選挙で決まっ
た。

このローマでは、帝政でさえも、公式の主権者は皇帝ではなく、
主権者であるローマ市民権所有者とローマの元老院が権力の
行使を託した存在が、皇帝であったのだ。

それゆえに、権力の行使を託すに値しないと判断された皇帝は
殺されたのである。一年任期の執政官とちがって皇帝の任期は
終身であったので、その皇帝をリコールしたければ、肉体その
ものを抹殺するしかなかったからであった。

 三世紀のローマ帝国が直面した危機の要因の第一は、現代風
に言えば、皇帝へのリコールが次々と起こったがために政局
不安定がつづいてしまったことにあった。

それを改善しようとしてディオクレティアヌスが考え実施した
のが、「四頭政」のシステムである。だがこれも、短い生命で
終わった。

それを短命で終わらせた一人がコンスタンティヌスだったが、
それだけに披には、「四頭政」では政局不安定は解消できない
ことを見抜いていたにちがいない。

また、ローマ帝国を一人で統治してきた「元首政」時代の皇帝
たのように、自分も一人で統治したいという野望もあったろう。

 しかし、帝国を一人で統治したければ、それを可能にする、
しかも長期にわたって可能にする、何か別のシステムを考え出す
必要がある。
それも、機能しないことがはっきりした「四頭政」型のシステム
ではなく、かと言って、殺害というリコール方式の危険を常に
内包している「元首政」システムでもなく。  

 

 


 現実世界における、つまりは俗界における、統治ないし支配の
権利を君主に与えるのが、「人間」ではなく「神」である、と
する考え方の有効性に気づいたとは、コンスタンティヌスの驚嘆
すべき政治センスの冴えであった。

委託でも、また一転してリコールでも、それを決める権利は「可
知」である人間にはなく、「不可知」である唯一神にあるとしたの
だから。

 だがこれは、実際上には何も意思表示をしない、神が決めると
いうことになる。となれば、その神の意を受ける資格をもつとされ
誰かが、それを人間に伝達しなければならない。

キリスト教では、神意は聖職者を通して伝えられるということに
なっていた。

それも、権威ある神意伝達のコースとなると、信者と日常的に接
する司祭や孤独な環境で信仰を極める修道士よりも、教理の解釈を
整理し統合する公会議に出席する資格をもつ、司教ということにな
る。

つまり、世俗君主に統治の権利を与えるか否かの「神意」を人間に
伝えるのは、キリスト教会の制度上では、司教ということになるの
だ。

ならば、司教たちを〝味方〟にしさえすれば、「神意」も〝味方〟
にできるということになる。

そうとわかれば話は簡単だ。どうやれば司教たちを懐柔できるかに、
問題は集約されるからであった。

 「司教」という、後期ラテン語では「episcopus」、後期ギリシア
語では「episkopos」と呼ばれた存在くらい、キリスト教が浸透しつ
つあったローマ帝国後期にあって、注目に値する階層もない。

 高度に官僚制度が発達した現代のカトリック教会とちがっていまだ
組織化が進んでいなかった時代のキリスト教会の司教は、実に大きな
存在であったのだ。

 司教とは、十二使徒の後継者と考えられており、イエス・キリスト
とその十二人の使徒から、神意を伝える権利、信徒を教え導く権利、
信徒を統合する権利を託された存在とされていたのである。しかも
これらの諸権利に加えて、キリスト教の教えの拡大に役立つことや
それを行った人に対して、神聖な正統性を授ける権利まで有していた
のだった。

 


 要するに、司教区内の信者を統轄するのが司教なのだが、
それは司教が、神意を伝える人、であるからだった。

キリスト教会では、すべては神の意を汲んで成されると決まって
いたので、現実世界の統治も、神の意を得た人によって成される
のも、彼らの教えからすれば当然なのである。

そして、神の意を汲んでそれを人間に伝えるのが、司教であった
のだった。

 では、この司教たちを味方にするのにコンスタンティヌスは、
具体的にはどのような策をとったのか。

 組織の長となれば必ず、自分がトップに坐っている組織の確立と
存続を何よりも重視する。司教にとってのそれは、管轄下にある
司教区での宗教上の諸々の活動からはじまって、福祉事業や教育
事業に必要な、人とカネの確保になる。コンスタンティヌスはこれ
を、保証しかつ増やしてやればよかった。

 教会を建てて贈ること。
 教会活動の財源になる、資産を寄贈すること。

 教会の諸活動を第一線に立って実際に行う聖織者たちへの、公務
と納税の免除。

 聖職界には入らない俗人の身分のままでも、奉仕活動には積極的
に参加する人であることで教会にとっては重要な人的資源でもある、
独身者への法律上の不利の解消。

 ここまではすでに述べたことだが、コンスタンティヌスは司教に、
これらの優遇策に加えてさらに、司教区内での司法権まで認めた
のである。

もはやローマ帝国は、法治国家ではなくなった。司法は宗教とは
無関係なところで実施されねばならないはずだが、その司法の世界
でさえも、キリスト教徒であることが有利になったのである。

 しかも、これに加えて司教は、重税に耐えかねた納税者が、皇帝
の徴税官に手加減してもらうための仲介を、願い出る唯一の訴え先
にさえもなったのだ。

ただしこれだけは、コンスタンティヌスの決めたことではない。

しかし、司教に与えられた権力がかくも大きなものになれば、
ならば税金をまけてくれることもやってくれるかもしれないとは、
誰であっても思うことではなかったか。

 キリスト教の浸透が最も遅れたのは、人間よりは自然を相手に
することの多い農村地帯を別にすれば、軍隊ではなかったかと思
う。

もともとからしてローマ軍の兵士の間では、個人的には太陽神や
ミトラ神を信仰する者が少なくなく、軍団としてまとまって行動
するときはそれら個人の信仰は脇に置いて、ローマ帝国全体の守
護神であるローマ伝来の神々に犠牲式をあげることに、慣れ親しん
できた集団であった。

 キリスト教を公認した「ミラノ勅令」が発布された年から十一年
が過ぎた紀元三二四年、コンスタンティヌスとリキニウスの両帝の
間で闘われた内戦で前者が勝つのだが、その戦闘に敗れて降伏した
リキニウス側の将兵たちが、勝者コンスタンティヌスに向って
次のように叫んでいる。

「皇帝コンスタンティヌス、あなたに神々の御加護があらんことを!」
 神々となれば、ローマ伝来の神々のことである。キリスト教の公認
後でも、兵士たちにとっては「神々」のほうが、慣れ親しんだ存在で
あったことを示していた。

 この兵士たちに対しては、コンスタンティヌスはいっさい、親キリ
スト教的な態度もとらず、策も講じていない。皇帝としての彼の権力
の基盤が、軍にあることは知っていたからだ。彼らの支持を減ずる
ような行動は、最高司令官でもある皇帝には命取りになるのだった。

 ただし、小さなことならば実行している。それは、キリスト教徒の
兵士には、神に祈りを捧げるという理由で日曜を休日にすることを認
めたが、異教徒の兵士たちには、日曜も他の日同様の訓練を課したこ
であった。

 くり返すが、コンスタンティヌスはキリスト教を宗教として
公認したのであって、ローマ帝国の国教にしたのでもなければ、
キリスト教以外の他の宗教を排除したのでもない。だが、それゆえ
にかえって、四世紀当時のローマ人にとってのキリスト教は、
多くの宗教のうちの一つでしかなかったのである。

ということは、日曜は休めるというだけのつまらない理由で改宗
したとしても、精神上の負担は、後世の人々が考えるよりはずっと
軽かったということでもあった。


 はじめての『キリスト教会史』の著者として有名なカエ
サリアの司教エウセビウスは、当時のキリスト教への改宗
者の多くは、信仰心からではなく利益からであった、と苦
々しい口調で書いている。

しかし、個々人のキリストヘの信仰心が自然に高まるのを
待っていたのでは、「少数」を「多数」にするには、途方も
なく長い歳月を要したにちがいない。

イエス・キリストが十字架上で死んでからその教えが公認
されるまででも、三百年もの歳月を要したのである。それを、
個人や職種によって別々ではあったにせよ「利益」を介在
させることによって、「少数」はより短い期間で「多数」に
なっていったのではなかろうか。

それならば、司教階級を懐柔したことと並んでこれもまた、
人間性の現実を冷徹に洞察したうえでの、実に巧妙な戦術で
あったとするしかない。見事なまでに政治的であり、政治家
であることの最重要条件である、政治感覚の冴えを示してい
たのだから。

 なぜなら、統治ないし支配の権利は、「人間」が与えるの
ではなく「神」が与えるとしたことによって、歴代のローマ
皇帝たちを良きにつけ悪しきにつけ悩ませてきた事柄を、一挙
に解消することになったからである。

 皇帝権力のチェック機関を任じてきた元老院も、その最重要
の存在理由を失った。

チェック機能を持つか持たないかは、権力者に権力を与える
資格を有するからこそ持てるのである。

 市民という有権者の意思表示の場でもあった円形闘技場や
大競技場も、これ以降は単なる娯楽の場に変わるのだ。

 ローマ人が常に胡散臭い想いで見てきた皇帝位の世襲も、
それがいかに能力のない息子に継承されようと、その理由
づけに苦労する必要はもはやない。

 すべては、次の一句、「お前たちをわたしやわたしの息子が
統治するのは、お前たの意志によるのではなく、お前たちの信
仰する至高の神の御意志によるのだ」と言いさえすればよいの
だから。

つまり、「神がそれを望んでおられる」と言えばそれで済むので
あった。

 

途中、カット。

 


だが、死を前にしての洗礼には、別の解釈もある。1964年
にオックスフォーードで出版された『The Later Roman Empire』
の著者であり、ゆえにローマ帝国後期の世界的権威でもあるA・
H・M・ジョーンズ教授は、次のように書いている。

 コンスタンティヌスは、ただ単に、多くのまじめなキリスト
教徒たちの例に従ったまでなのであった。

つまり、現世では、キリスト教の教えでは大罪に値すること
確実な悪しき行為でもやらざるをえない以上、キリスト教徒に
なるための洗礼を、そのような行為はやろうにもやれないとき
にまで先延ばししたのである」

 これを読んだとたんに私は、実に愉快な気分になった。

なぜなら、古代のキリスト教のもっていた、時代への順応性も
ローマ的な考え方への柔軟性も充分に理解し、それにことあ
ごとに言及してきたつもりだったが、このような愉しい面ま
あるとは知らなかったからである。

だがこうなると、処女作以来一貫して非宗教的な視点に立って
歴史を書いてきた私にも、キリスト教的に救済されるには、死
の直前に洗礼を受けるという道が残されていることになる。


とは言っても、一生をキリストの教えに忠実に生きていた人と、
そうでない直前駆け込み組は、最後の審判に際してもやはり
平等なのであろうか。

 いかに直前駆け込み組の一人でも、生前のコンスタンティヌス
が熱心に取り組んだキリスト教の振興の成果は、「大帝」の尊称
を贈るぐらいでは済まないものであった。

シャルルマーニュなど、はるかに及ぶところではない。


研究者の一人は言う。

 「もしもコンスタンティヌスが存在しなかったとしたら、キリスト
教会は、教理の解釈をめぐってのたび重なる論争とその結果である
分裂に次ぐ分裂によって、古代の他の多くの宗教同様に消え失せて
いただろう」

 しかし、別の研究者は、コンスタンティヌスのみでなく、ディオ
クレティアヌスからコンスタンティヌスまでという私がこの巻で取り
あげた時代全般について、こうも言っているのである。

 「これほどまでして、ローマ帝国は生き延びねばならなかった
のであろうか」

ディオクレティアヌスとコンスタンティヌスの二人の皇帝によって、
ローマ帝国は再生したとする研究者は多い。

だがこの二人は、ローマ帝国をまったく別の帝国に変えることに
よって、ローマ帝国を起たせておくことには成功したのである。

もしもこの二人がいなかったならば、帝国の終末は早くも三世紀
末に訪れていたかもしれない。

 しかし、帝国をひとまずにしても起たせておけた歳月は、百年
足らずにすぎないのである。

それもその百年が、五賢帝時代の百年のような百年であるならば
多大な代償を払う価値はあったかもしれない。帝国の国境である
「防衛線」は鉄壁で蛮族の侵入はなく、ゆえに庶民でも安全に仕
ができるか否かのリトマス試験紙でもある、農作も盛ん。街道を
行き交う人も車も、盗賊を怖れる必要のない治安の良さ。

ために広大な帝国中を人と物が流通し、職業の選択の自由もあった
ところから、社会の階層間の流動性と、その結果である人材の活用
のメカニズムも機能し、税も広く浅く課される百年ならば、話は別
だということである。


言い換えれば、「パクス・ロマーナ」の百年ならば、ということだ。

 だが、これ以後の百年は、そのようにはならなかった。「パクス・
ロマーナ」は、再びもどってはこなかったのである。ゆえに、「これ
ほどまでして、ローマ帝国は生き延びねばならなかったのか」とは、
ローマの誕生から死までの歴史を学び知る人の多くの胸中に、自然に
わきあがってくる想いでもあるのである。しかも、その後に訪れる
中世が、どのような時代になったかを知ればなおのこと。


以上。


けっこう長い抜粋だったが、ディオクレティアヌスの皇帝の地位
への執着が、キリスト教が歴史に残る大きな原因であった。という
のが、てっとり早い〝まとめ〟と言えるのではないか。


ところで、この本を読んで、わたしとしては、とんでもない文章を
見つけてしまった。

 

以下、抜粋。


この役割には、ローマ伝来の神々は適切ではなかった。

なぜなら、多神教の神は人間を護り助ける神々であって、人間
に向って、どう生きよと命ずる神ではなかったからである。

多神教と一神教では、神の性質からしてちがうのだ。

つまり、コンスタンティヌスにとっての必要を満足させる神は、
一神教の神しかいなかった。

そして、四世紀当時のローマ帝国でこの需要を満足させることの
できる一神教は、ユダヤ教がユダヤ民族の宗教に留まっている以上
は、民族のちがいを超越することを布教の基本方針にしていたキリ
スト教しかなかったのである。

それに、いまだキリスト教が微々たる勢力でしかなかった頃の二百
七十年も昔に、キリスト教をユダヤ人の民族宗教から世界宗教への
道に進ませることになる聖パウロが、すでに次のように説いていたの
である。

 「各人は皆、上に立つ者に従わねばならない。なぜなら、われわれ
の信ずる教えでは、神以外には何であろうと他に権威を認めないが、
それゆえに現実の世界に存在する諸々の権威も、神の指示があった
からこそ権威になっているのである。

だからそれに従うことは、結局はこれら現世の権威の上に君臨する、
至高の神に従うことになるのである」

以上。

 

ここで、興味深い文章がいくつかあった。


なぜなら、多神教の神は人間を護り助ける神々であって、人間
に向って、どう生きよと命ずる神ではなかったからである。

多神教と一神教では、神の性質からしてちがうのだ。

これである。


「人間に向って、どう生きよと命ずる神」、ここにキリスト教が
時代のニーズにあう要素があったと指摘しているあたりが面白い
と思われた。

その点は、ある意味で中国の文化に大きな影響を受けた日本人に
は見落とす視点かも知れないと思った。

そう、日本人には、孔子を含む諸子百家の思想、そして、仏教が
あったからだ。

なぜヨーロッパにおいて、キリスト教が流行ったか、その原因の
一つを知り得たような気がした。


先に、塩野七生氏は、


現実世界における、つまりは俗界における、統治ないし支配の
権利を君主に与えるのが、「人間」ではなく「神」である、と
する考え方の有効性に気づいたとは、コンスタンティヌスの驚嘆
すべき政治センスの冴えであった。

と書いたが、


ところで、パウロに関して、非常に気になった文章がある。

 「各人は皆、上に立つ者に従わねばならない。なぜなら、われ
われの信ずる教えでは、神以外には何であろうと他に権威を認め
ないが、それゆえに現実の世界に存在する諸々の権威も、神の指示
があったからこそ権威になっているのである。

だからそれに従うことは、結局はこれら現世の権威の上に君臨する、
至高の神に従うことになるのである」

これである。

これでは、イエスに対する裏切りではないか。まさに、「ユダ」では
ないか。

ユダが密告したことによって、イエスは捕まり死んだことになり、
ユダは裏切り者になっているが、パウロの言葉は、イスラエルを
帝国として間接的に支配してきたローマを非難し、死んだイエスに
対する裏切りである。

そう、彼は、イエスを死に追いやったローマの権力を肯定している
からである。

イエスの死後、イスラエルは、ローマによって、世界に流浪する民と
しての運命を強いられることになったからである。

なんとも可哀相なイエスであろうことか。

彼の明言した、ハルマゲドンは訪れず、その裏切りにおいては、ユダの
比ではないパウロの裏切りによって世界宗教になったとは。

そういう意味で、本質的にキリスト教の原罪は、ここにあると言えよう。

権力との癒着である。

皇帝の野望のために、王権神授という洗脳に加担することによって、
膨大な特権を与えられたという事実に注目する必要がある。


話しは変わって、


織田信長のマネー革命 

経済戦争としての戦国時代

竹田智弘著

ソフトバンク社

に関する内容で、興味深い文章があった。


以下、抜粋。


 キリスト教容認に隠された信長の海外戦略

 信長は、キリスト教の布教を認めたことでも知られている。

信長はイエズス会の宣教師フロイスに引見し、布教や教会建設の
許可を与えている。また教会建設のための場所や資材の提供にも
便宜を図っている。

フロイスは、その著書『日本史』で、信長のことを好意的に書い
ており、信長に対して良い印象を持っていたようである。

 信長がキリスト教の布教を認めたのは、「仏教と敵対していた
から」「南蛮文化に興味があったから」などと言われることが多
い。

確かにそれもあるだろう。

 しかし、最大の理由は、南蛮貿易における利権を手にしたかった
からではないだろうか? 

というのも南蛮貿易とキリスト教布教というのは表裏一体のものだっ
たからだ。

 当時、ポルトガルやスペインは、キリスト教の布教を交易の条件と
していた。大航海時代、ポルトガルやスペインは、世界各地に乗り
出し交易をしていた。

その際には、戦争をしたり、都市を占領することも多々あった。

 中世といえども、ただ金儲けのためだけに戦争をしたり、他国を
占領することは道義的に許されるものではなかった。そのため、彼
らは「キリスト教の布教」という大義名分を掲げていたのである。


 1494年に、ローマ教皇にも承認されたトルデシリャス条約
では、キリスト教を布教することを条件にして、「ポルトガルと
スペインで世界を二分してよい」ということになっている。

つまりは、「未開の人々にキリスト教の福音をもたらすために世界
を占領しなさい」ということである。

 もちろん、それはローマ教皇とポルトガル、スペインが勝手に
決めているだけであって、現実問題として世界をその二国で占有
できたわけではない。

ただ、彼らの交易や侵攻には、「必ずキリスト教の布教が伴わな
ければならない」という縛りは確実にあったのだ。

 たとえば、戦国時代に日本を訪れ布教を開始したイエズス会に
しても、その活動費はポルトガル王室から出ている。

ポルトガル王室は交易活動を支援しながら、その収入の一部をキリ
スト教布教に充てていたのだ。

 そしてイエズス会の宣教師たちも、布教活動と交易をセットで
行っていたのだ。彼らは、布教活動をしながら、交易への助言を行い、
時には自分で物品取引を行うこともあった。

そして取引を行うときに、相手への条件として必ずキリスト教の
布教許可を求めたのである。

「私たちと貿易すれば儲かりますよ。でもその代わり、キリスト教
の布教を許可してください」ということである。


以上、抜粋。


次の文章に、驚いてしまった。

1494年に、ローマ教皇にも承認されたトルデシリャス条約
では、キリスト教を布教することを条件にして、「ポルトガルと
スペインで世界を二分してよい」ということになっている。

これである。

結局、コンスタンティヌス帝の王権神授という発想が、ローマ
帝国の内政問題を超えて、世界史を大きく動かしてしまったよう
だ。

もしかして、西欧は今でも世界をこのように考え続けているの
ではないのか。

「禍福は糾える縄の如し」という言葉もあったが、まさに「歴史は
糾える縄の如し」である。


「ポルトガルとスペインで世界を二分してよい」という発想は、
ヨーロッパの植民地主義への道であり、アフリカ、アジア等からの
収奪の歴史の始まりである。

イエスは、このことに、驚愕するのでは。

ただ、悲しいかな、収奪した富みによって、ヨーロッパは近代化
を押し進め、資本主義を生み出した。

わたしたちの快適な今日の生活を生み出している。

とは言うものの、金融資本主義という悪魔も生み出し、先進国は
かつての植民地から追い詰められて、青息吐息の様だ。


本の中に、

現実世界における、つまりは俗界における、統治ないし支配の
権利を君主に与えるのが、「人間」ではなく「神」である、と
する考え方の有効性に気づいたとは、コンスタンティヌスの
驚嘆すべき政治センスの冴えであった。

とあったが、コンスタンティヌスの皇帝の地位への執着が、今日
の混乱した世界を生み出したとも思えたりしてきて、これも
バタフライ効果なんではなんて、妙に関心してしまった。

つまりは、支配の道具としての「キリスト教」、支配からの
脱却を希求し、ハルマゲドンの到来を予言して、十字架で
磔にされたイエスは、地下、それとも天国でどう思うのだろ
う。


わたしは、これまで、

キリスト教の成立の謎を解く
改竄された新約聖書

バート・D・アーマン=著
津守京子=訳

 柏書房

 

捏造された聖書

バート・D・アーマン=著
松田和也=訳

柏書房

 

破綻した神キリスト

バート・D・バートン=著
松田和也=訳

柏書房


の3冊をできれば、わかい世代に読んでもらえたら、と思って
やまない。と述べたが塩野七生氏の「ローマ人物語 最後の努力
(下)」も、含めてもらえたらと思われてならない。

 


宇宙で発電し地上に 京大、伝送実験施設を公開

2011-09-30 21:25:38 | 技術

ヤフーのニュースである。

 

宇宙で発電し地上に 京大、伝送実験施設を公開

京都大は28日、宇治キャンパス(宇治市)に新設したマイクロ
波によるエネルギー伝送実験施設を関係者に公開した。世界最大
規模の施設で、宇宙空間で太陽光発電し地上に送電する「宇宙太陽
光発電所」の実現をめざす。
 施設は電波を遮断する電波暗室(約18メートル四方)や計測室
を備えており、昨年11月に施設が完成、本年度から利用を始めた。

照射方向を自由に変えられる世界最先端のマイクロ波エネルギー
出力機器「フェーズドアレー」(1・5キロワット)や受電機器を
備え、この日は発射したマイクロ波を解析するデモンストレーショ
ンなどを行った。

 宇宙での太陽光発電は、人工衛星に取り付けた大型の太陽電池
パネルで発電し、マイクロ波で地上に送電する。

電気からマイクロ波への変換効率の改善などが課題で、生存圏
研究所の篠原真毅教授(マイクロ波工学)は「人工衛星による実証
実験に使用する高性能の機器開発につなげたい」と話している。


以上。


大変、驚いてしまったこのニュース。

実は、わたしもこのようなことを考えていた。

宇宙空間で発電することができれば、地球上のように、天候に影響
されることなく、太陽のエネルギーを収集することができる。

しかし、素人は、

宇宙での太陽光発電は、人工衛星に取り付けた大型の太陽電池
パネルで発電し、マイクロ波で地上に送電する。

ということが、つまり、宇宙空間から地球へ送電する過程で、人間へ
の安全上の問題で、可能かどうかと疑問をもってしまった。

今回、このようなことが可能なようで、液晶も先頃、効率的な新技術
が開発されたことだし、楽しみしようがない。


うどん好きが糖尿病になりやすいって本当?

2011-09-30 21:14:19 | 健康

ヤフーのニュースである。

 

うどん好きが糖尿病になりやすいって本当?
女性自身 9月30日(金)11時49分配信

■うどん好きが糖尿病になりやすいって本当?

いまや現代病といわれる糖尿病で、香川県が初めて受療率
ワースト1になってしまった。香川県といえば讃岐うどん。

糖尿病は食生活が大きく関係しているというのだから、
うどん好きには、その影響が気になるところだ。

「うどんそのものに罪はありません」と語るのは、日本糖尿病
協会理事もつとめる『菅原医院』の菅原正弘院長。菅原先生に、
うどんと糖尿病の関係について解説してもらった。

そもそも糖尿病の発症のメカニズムとは?「血糖値を抑える
インスリンの働きが悪くなることによって起こる病気です。

ほとんどは生活習慣が原因。香川県も同様でしょう」

国民健康栄養調査によると、香川県は1日あたりの野菜摂取量
が全国で最も少ない。

野菜を食べず、車移動の多い地方で運動不足、そこに具なし
ぶっかけうどん……これがよくないのか?

「食後の血糖値が高すぎると、膵臓に負担をかけ、インスリンを
作る細胞が減ってしまう。

うどんは過血糖を引き起こしやすい栄養素が多く含まれています」

とはいえ、糖質は人間に必要だ。逆にこれを抜いておかずだけの
食事にすると、今度は脂質過多になり、中性脂肪や内臓脂肪を
増やす原因になるという。つまり、バランスが大切だということ。

では、うどんの正しい食べ方とは?

【炭水化物の重ね食いはNG】
「うどんに稲荷ずしや、ラーメンライス、パスタにパンなど炭水
化物の重ね食いはご法度。カレー粉も小麦なので、具材が十分に
はいっていないカレーにも気をつけましょう」

【繊維質で血糖値を制御】
「うどんと一緒に野菜、海藻、きのこをたっぷり食べれば、血糖値
の上昇は抑えられます」とのこと。かけうどんより、山菜うどんや
わかめうどんなどがおすすめだ。ただし野菜ジュースだと、繊維質
はあまり摂取できないのでご注意を。

【酒の後、深夜のうどんは厳禁】
お酒自体にも糖質が高いものが多く、その食欲増進効果にも気をつけ
たい。「人間の体は夜になると栄養を消費するよりため込むように
働くので、夜22時以降、または寝る3時間前は何も食べないように」

菅原先生のアドバイスを参考に、うどんのように太く長~く人生を
楽しみましょう!


以上。

なるほど、こういうニュースもあるんだと思った。

実は、炭水化物の取りすぎが問題だといわれ、炭水化物を減らす
ように努めてきた。

だから、ソバ、ラーメンなどを食べることも少なくなってきた。
勿論、うどんを食べることも激減してきた。ごはんの量も減って
きた。

ただ、時折、イタリアンで、スパゲティとピザをたっぷり食べて
しまっては、考え込んでしまうが。

それにしても、なるほどというか、びっくりというか、興味深い
ニュースである。

やはり、炭水化物の取りすぎは、要注意なのだ。


ところで、昨日のテレビで、ラーメンが外国で大変人気のようで
特集をしていた。

テレビで映し出されるのを見ていると、わたしとしては、信じられ
ないくらいの大盛況である。

あれだけ、ラーメンにどっぷり浸かった生活をすると、危ないのでは。

何しろ、スープが美味しいと、一滴も残さず飲み干すさまは、驚きの
一言である。

確かに、ラーメンのスープ、美味しいのは分かるが。どうなることやら。


蛇足かな?

その時のテレビで、日本の刺身が美味しい理由はと、検証していたが
大変興味深く視聴した。

日本の刺身に対する思い入れは、江戸時代よりの伝統文化というに値
するものであることを知った。

その時、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」に描かれている波間の船を取り
上げて話しが展開されたのは、びっくりであった。

この船、刺身用の魚を急送する専用の船だということで、説明があり
驚いた。

魚を捕る漁師、流通の関係者、そして、調理師のトータルな魚の
新鮮さへの真摯な思いがあって成り立っていることが、あらためて
理解できて、それが、他国のおいて、一朝一夕では真似られないもの
であることを知って、驚きを感じた。

蛇足かな?


津波予測「不作為」の大罪

2011-09-22 22:59:02 | 放射能

アエラ 2011.9.19号の記事である。

 


東電の勝俣会長は「関係ない!」とアッカンペー

津波予測「不作為」の大罪


東京電力は3年も前から原発に巨大津波が来襲することを
知っていた。

なのに有効な対策を講じなかった。

その不作為は万死に値する。

東京電力の武藤栄は3年も前から知っていた。いつか巨大津
波が福島の原発を襲うことかありうることを。それなのに何も
手を打たなかった。

 武藤はこのとき、原子力部門のナンバー2である原子力・立
地本部の副本部長だった。

この年、2008年の6月、彼は副本部長を兼ねたまま、執行
役員から常務取締役に昇格している。

 東電は同年4月、マグニチュード8クラスの明治三陸地震
(1896年)をもとに津波の規模を想定し直し、福島第一
原発には遡上高で最大15・7メートルもの巨大津波が襲うという
試算を弾き出していた。

同年12月には、平安時代にあった貞観地震(869年)をもとに、
第一原発の取水□付近で高さ8・7~9・2メートルの津波が
来る、との試算も出している。

東電の同原発の想定津波は最大で5・7メートルだったから、彼
らの予想の2、3倍の規模の津波が襲うという試算値である。

早急に抜本的な対策が講じられてしかるべきだった。武藤は08年
6月、部下から報告を受けると、彼らが津波対策を依拠してきた
土木学会に対し、津波対策の指針を見直してもらうよう指示して
いる。

これら一連の経緯は、土木学会に見直しを要請した後、当時の
原子刀・立地本部長である武黒一郎副社長にも伝えられた。

 

原子力村で内々に処理


東電のスポークスマンである松本純一原子力・立地本部長代理
によれば、この年の6月、傍流から抜擢されたばかりの清水正孝
社長には伝えられていない。

清水を引き立て、院政をしきはじめた勝俣恒久会長にも報告さ
れなかった。

松本は「原子力・立地本部として動いていました」と言った。

だが、公表されることはなく、具体的な改善策は図られなかった。

 お役所体質の東電の中で、原子力・立地本部は際だって特異な
部門である。

修士や博士が少なくなく、高度の専門性ゆえに、外からくちばしを
挟みにくい。

しかも約3千人いる彼らの拠点は、原発のある福島や新潟で、東京
の本店から隔絶した地にある。エリート集団でありながら、社内から
「原子力村」と奇異にみられてきたのは、そんな異質性に由来して
いる。

 聖域化された「村」の風通しをよくすることを期待されて02
年に社長になったのが、勝俣だった。あのとき、原発トラブル
隠しが発覚し、東電は荒木浩会長や南直裁社長らが総退陣する
大がかりな体制刷新を強いられた。

それなのに松本の言が正しいとすれば、巨大津波の想定は会長と
社長に伝えられず、「原子力村」で内々に処理されてきたことに
なる。

 経済産業省の原手力安全・保安院で、原発の耐震審査を所管
する小林勝耐震安全審査室長が、東電から報告を受けたのは、そ
れから3年後の今年3月7日のことだった。

文部科学省が事務局を務める地震調査研究推進本部が、どの
くらの規模の地震がどこで起きそうかという「長期評価」を
4月にもまとめる予定で、その中には、学界で話題になって
きた貞観地震の分析が新たに加えられそうだった。

すでに貞観津波に関する論文や研究報告がいくつも発表されてい
る。それなのに東電は無反応だ。
それで小林が呼び出した。


保安院には知らされず


「いったいどうするんですか、早く対応をしないと大変なこと
になりますよ。どう考えているか、お示しください」

小林が2月末にそう求めると、東電は3月7日夕刻、3人で
現れ、シミュレーション結果を打ち明けた。

といっても10メートルを超える津波が来るという想定結果だけ
で、計算式や対策はない。これではダメですよ、きちんとした
ものを出してください-そう小林が言った4日後、本当に津波
がやってきたのだ。

 保安院を驚かせたのは、東電が8月24日、3年前の08年に巨
大津波の想定をしていたと明らかにしたことだった。保安院の
森山善範原子力災害対策監は9月8日の会見で、珍しく撫然と
した面もちで、「速やかに公表して、専門家の間で議論をすべ
きでした」と、東電を批判した。

 保安院は3月7日以前は、何も知らされていなかったという。
今回の原発事故では東電とともに「被告席」に立つ保安院だが、
この件に関しては保安院の言い分に分がありそうだ。

 保安院の幹部は、匿名を条件にこう打ち明ける。「08年と
いうのは重要です。あのとき何があったかご存じですか。

東電の柏崎刈羽原発のF-B断層をですね、東電が実質的に
活断層であると評価しておきながら、隠していたんです」
 07年の新潟県中越沖地震で、東電の柏崎刈羽原発は想定を
上回る揺れに見舞われ、火災や放射能漏れの事故を起こした。

そのときまで東電はFーB断層が「長さ7、8キロで、活断
層ではない」と公言してきたが、実は秘かに03年の時点で再
評価をおこない、F-B断層が「長さ20キロを超える活断層」
だと知り(実際は30キロだった)、ほかにも6本の活断層を
見つけていた。

それなのに東電の原子力村だけで秘匿され、首脳陣には報告
されなかった。当然、公表はおろか対策も講じられない。

だが、地震の震源断層は、彼らが隠し続けてきたF-B断層ら
しかった。

「プルサーマルのため」


今回明らかになった隠匿された巨大津波の想定と、うり二つで
ある。

福島原発を襲う巨大津波の想定を東電が08年の時点で明らかに
しなかったのは、柏崎刈羽の活断層と同様、彼らの当初の地震
対策が「甘すぎる」と露見するのを恐れたからだろう。

 09年には、経産省の総合資源エネルギー調査会の地震・津波
対策の部会で、地震の専門家が「まったく比べものにならない
非常にでかいものがくるのに、貞観津波に触れられていないの
はなぜか」と、東電の無為無策ぶりを難詰している。

そこには東電の2人の地震の専門家も同席していたが、彼らは
前年の解析結果に言及しなかった。

東電は09年、保安院の担当職員に口頭で「大きな津波が来る」
と報告したというが、保安院幹部はこのときのことを「津波の
高さを想定したであろう資料をチラツと見せられただけで、
すぐに引っ込められてしまった」と言う。

「説明した」と強弁する東電だが、相手に伝わる説明ではない。

 保安院幹部は、東電の隠蔽理由をこう推理する。

 「すべては福島第一原発3号機のプルサーマルですよ。
あれを円滑に進めるため、来電は津波の解析結果を隠してきた
んだ。
津波の想定を出せば、地元は不安を抱く。プルサーマルをおじ
ゃんにしたくなかったんです」激高する勝俣会長この見立て
通りなら、たいへんな大罪である。

人災を通り越して犯罪である。東電はなるほど昨年10月、悲願
だった同社初のプルサーマルを3号機で実施した。

保安院に津波の想定を持参したのは、その5ヵ月後の今年3月
だった。

 想定していたのに、震災後、東電の清水や武藤は国会や記者
会見で「想定外の津波」と、「想定外」を繰り返した。武藤に
取材を申し込むと、6月末に顧問に退いた身だから、と広報部員
を通じて断ってきた。


 勝俣会長の自宅を8月30日に訪ね、問いただしてみた。

 ー08年の津波の想定を聞いていなかったのですか。

 「聞いてないよ」

 彼が改革を掲げた原子力材の閉鎖性打破が、改善されずにき
たのではないか。9月1日に再訪して聞くと、披は激高した。

 「そんなん……問係ないっ!」

 彼は振り向きざま私にアッカンベーをして、1億2千万円を
借りて建てた豪邸に消えた。


以上。


アエラの記事である。その内容があまりにも、酷い話しなので、
とりあげてみた。

津波予測「不作為」の大罪 まさに、そのとおりである。


ところで、次の文章は、新聞にシリーズで掲載された記事の
抜粋である。

 東電の元副社長は「政治が流動化し、派閥の領袖
クラスを抑えれば済んだ時代は終わった」と指摘。

 「来電はこのままだと賠償債務を返済するだけの
会社になる。若い人たちにとって、本当にこれで良い
のか」と話す。

 40代のある社員は正直お先真っ暗だ。同僚と飲む
と転職の話ばかりになる」と顔を曇らせる。国策の行
方は首相の交代で見えず、事態を打開する力を失った
東電の漂流が始まった。
   
以上。


エリート集団の原子力村の面々の大罪は、誰が裁く。


首都圏避難も想定

2011-09-19 23:04:04 | 政治

原発事故

菅前首相インタビュー

首都圏避難も想定

 菅直人前首相は18日までに共同通信のインタビュー
に応じ、3月11日の東京電力福島第1原発事故発生を
受け、事故がどう進行するか予測するよう複数の機関
に求め、最悪のケースでは東京を含む首都圏の3千万
人も避難対象になるとの結果を得ていたことを明らか
にした。 


 発生直後には、現場の第1原発の担当者と意思疎通
できないなど対応が困難を極めたことを強調。

原因究明を進める第三者機関「事故調査・検証委員会」
(畑村洋太郎委員長)は菅氏から事情を聴く方針で、事故
対応をめぐる発言は、再発防止の鍵になりそうだ。

 菅氏は複数の関係機関にシミュレーションを依頼。

最悪の場合は半径200~250キロは住民の避難が必
との結果になった。東京のかなりの地域も含まれ、対象
3千万人。

大混乱が起きるとの思いが頭をよぎり「国が国として成り
立つのかという瀬戸際だった」と述べた。

被害拡大については「地震と津波と原発事故が同時に
起きることを全く想定していなかった」と、用意され
ていた危機対応シナリオが役に立たなかったことを明
らかにした。

以上。

とんでもない裏話が語られたが、当時、首相が官邸で
パニックになっているという情報あったり、また、
首相が、マスコミの前にほとんど出てこないという話しが
あったが、これでは、だれも精神的に正常な状態でいること
は不可能だ。

東京から多くの外国人が逃げ出したが、知る人は知って
いたのかもしれない。

ところで、当時このようなことが、ネットで話題に
なった。


総理が壇上に立つシーンで、フジテレビまたはマスコミ
関係者と思われる男女の声が入っていたのです。

単なる雑談や業務上の連絡などの声ならばいいのですが、
その声の内容はあまりにもナンセンスなものだったのです。

「ふざけんなよぉ~。また原発の話なんだろぉ~!? どう
せ~」という男性の声と、 「だから、こっからあげられる
情報はないっつってんでしょう!」、
「アハハッ、笑えてきた」という女性の声が入っていたの
です。

これである。

これをしゃべった人間が誰か、おおいに話題になった。

わたしも、この手の話しに激怒したものだが。

今になって見れば、やはり、このしゃべった人たちの
方がもしかして、真実を知っていたのかもしれない。


ところで、菅前首相は、インタビューで、

「国が国として成り立つのかという瀬戸際だった」と述べ
た。

最近、気になるニュースがヤフーにあった。


1498年の東海地震、津波遡上36mの可能性


室町時代の明応東海地震(1498年)で、静岡県沼津市
では津波が約36メートルまで遡上(そじょう)した可能性が
あることが、東京大学地震研究所の都司嘉宣准教授らによる
調査で明らかになった。

 新潟市で開催中の歴史地震研究会で17日、発表した。

 国の地震調査研究推進本部によると、明応東海地震はマグ
ニチュード8・2~8・4。

静岡地方の津波による死者は約2万6000人と推測されている。

 都司准教授らは、同地震の津波でヒラメがあがったという伝承が、
沼津市戸田地区の平目平に残っていることに着目。

現地で測量を行い、海抜36・4メートルまで津波がさかのぼった
と考えられると結論づけた。

 静岡県の津波対策はこれまで、1854年の安政東海地震を
もとに行われてきたが、都司准教授は「明応の津波は、安政の
3倍程度高い。

1000年に1度の津波でも人命を守るには、明応の津波を考慮
して避難所を設定すべきだ」と、見直しを求めている。

以上。


このニュースだが、千年に一度の東日本大震災が起きたとあっては、
充分にこの津波も、いずれ起きるとなると、その被害の規模につ
いては、絶望的な規模になりそうだ。

「国が国として成り立つのか」という不安が過ってならない。

これでは、日本のどこに済んでいても、絶望的である。