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リタイアーのよもやま話

1417年、その一冊がすべてを変えた

2013-01-12 22:31:03 | 書評紹介

新聞にあった興味深い書評である。

 

ルネサンスの引き金の書

1417年、その一冊がすべてを変えた

スティーブン・グリーンブラット著

河野純治訳

 

 時は15世紀のイタリア。

先のローマ法王に秘書官として仕えていたポッジョ・ブラ
ッチョリーニは、ヨーロッパ各地を巡って、失われた古代本
を探すブックハンターになった。

 

当時、古代ローマやギリシャ時代に書かれた本の再発見が
ブームになっていたのだが、有名な図書館などは渉猟し尽く
され、地方の小さな修道院の奥深くに眠っている本を探して
いたのである。

 

 1417年、ドイツの修道院でポッジョによって見つけられた
本は、紀元前1世紀に生を受けた詩人、ルクレティウスが著
した「物の本質について」という7400行にわたる長編詩の
写本である。

本書の内容は、他の人の作品で触れられていたが、存在が
確認されたのはなんと千年ぶりのことであった。

「宇宙は神々の助けなどなしに動いている」「人間を含む万物
はたえず動き回る極小の粒子でできている」「人間を他のあら
ゆる動物から区別する理由もない」と美しい言葉で説くこの本
は、当時のキリスト教教条主義からすれば許されざる内容で
ある。

 しかし救世主が生まれる以前に書かれた本を多神教時代の
文書の中で偶然見つけたというだけなら問題はない。

 

そう自分に言い聞かせたであろうポッジョは、写本を親友の
ニッコロ・ニッコリに送る。

 

新しい考え方に飢えていた知識人たちは、写本を繰り返し、
やがてこれがルネサンスの大きなうねりとなっていく。

 著者は、米ハーバード大のシェークスピアの研究者である。
学生時代に「物の本質について」を初めて読み、内容に驚嘆し
魅せられた著者は、シェークスピアを含むルネサンス期の芸術
と「物の本質について」の再発見の逸話を物語ることにしたと
いう。

 

 本書は2012年ピュリツァー賞ノンフィクション部門の受賞作
である。
2千年前の知識が600年前に見いだされ、そして現代まで続く
壮大な物語に酔いしれてほしい。

(東えりか・書評家)

 

以上。

 

大変、興味深い内容なので、資料としてストックしておくこと
にした。

 唯物論の考え方が、こんな昔にあったなんて、驚きである。

店頭に並ぶようなことがあれば、覗いてみたいものだ。

 


愛について

2012-06-02 21:44:44 | 書評紹介

新聞にあった書評である。

 

愛について

白岩 玄著

河出書房新社

への吉田伸子の書評があった。興味深いものが
あったので、一部抜粋した。


 収録されている6編に共通しているのは、人が人を
愛する、その心の底にあるものを見定めようとする作
者の視線だ。

愛すれば愛するほど、求めれば求めるほど、微妙にズレ
ていく男女の距離感。

もしかしたら、その距離こそが、実は恋愛の本質なの
ではないか。

行間の向こうから、作者はそんなふうに問いかけている
ように思える。

 けれど、本書にあるのは、その距離に対する気だるい
諦めではない。

むしろ、分からないからこそ、人は人を求めるのだし、
距離は距離でめいめいが了見すればいいのだということ
を、同時にささやきかけてくる。

「好きが先にあるわけじゃない。

それは単なるベクトルで、本当は寂しいとか満たされ
ないとか、そういうわがままな感情が先にあるのよ。

誰かのことを好きなときはそれが見えにくくなるけど
ね、ほとんどの好きは自分の感情を正当化するための
免罪符に過ぎないの。

好きはあとづけ、寂しいが先」

 本書に出て来る登場人物の一人が言うこの言葉が、
読み終わってからも、静かに胸にしみる。

 

以上。

書評の内容に、興味深いものがあった。


愛すれば愛するほど、求めれば求めるほど、微妙に
ズレていく男女の距離感。

もしかしたら、その距離こそが、実は恋愛の本質なの
ではないか。

行間の向こうから、作者はそんなふうに問いかけている
ように思える。

 けれど、本書にあるのは、その距離に対する気だるい
諦めではない。

むしろ、分からないからこそ、人は人を求めるのだし、
距離は距離でめいめいが了見すればいいのだということ
を、同時にささやきかけてくる。

このような文章が綴られている。

なかで、


愛すれば愛するほど、求めれば求めるほど、微妙にズレて
いく男女の距離感。

もしかしたら、その距離こそが、実は恋愛の本質なのでは
ないか。


距離は距離でめいめいが了見すればいいのだということを、
同時にささやきかけてくる。

これらの文章に感ずるものがあった。

このような微妙な距離感に耐えうることが、恋愛の本質かと
いう気になった。

が、どうだろう?


それから、次の文章も、感ずるものがあった。


「好きが先にあるわけじゃない。

それは単なるベクトルで、本当は寂しいとか満たされない
とか、そういうわがままな感情が先にあるのよ。

誰かのことを好きなときはそれが見えにくくなるけどね、
ほとんどの好きは自分の感情を正当化するための免罪符に
過ぎないの。

好きはあとづけ、寂しいが先」

以上。

人は、それぞれに、寂しさを共有できる人を求めて
いるのかもしれない。そして、共有できる変え難い
人だから、好きになるかもしれない。

書評の方が、もしかして、本のについて、うまく
語っているような気が時折、することがあるのだが。


「上から目線」の構造 榎本 博明著

2011-12-28 23:35:31 | 書評紹介

新聞にあった書評である。
読んでいるうちに、興味深く思った。

 

「上から目線」の構造  榎本 博明著


現代人の心の問題分析


 何げなく使われている言葉の中に現代を理解する鍵が
ある。

最近よく耳にする「上から目線」もその一つ。

本書は、この言葉を手がかりに、身近なエピソードをふんだん
に交えて、現代人の心の問題を分析している。

「上から目線」とは、年長者や経験を積んだ人が自分より下の
立場の人を見る目線のこと。

だから、年下や対等の立場の人に「上から目線」でものを言わ
れたら、しやくに障るのも仕方ない。

 だが近ごろでは、職場などで中高年世代の人が親切心から若
い世代の人にアドバイスし、かえって反発を買って「上から
目線だ」と非難される例が増えているらしい。

 出版元によると、この言葉に注目して本を作りたいと考えて
いたとき、心理学が専門の著者と雑談する機会があり、こうした
傾向に気づき、テーマが固まったのだという。

 10月中旬に発売、発行部数は7万部と売れ行き好調だ。

 「上から目線」が気になる人と、ついつい「上から目線」で
ものを言ってしまう人の双方の心理構造に迫っている点が人気の
秘密かも。

 若者の間で他者の視線を気にする傾向が強まっている理由と
して、子ども時代に年上の子や年下の子と遊んだ体験の希薄さ、
日本社会の「父性」の喪失などを挙げているが、中高年世代の
想像力が全く及ばない話でもなかろう。

時代が急にがらりと変わったわけではないのだから。

世代間コミュニケーションの難しさは、いつの時代にも関心を
持たれるテーマだ。

 しかし本書を読むと、若者が抱いている生きづらさは考えて
いる以上に深刻で、世代間のコミュニケーションギャップも大き
くなっているのではと心配になる。

本書でも終盤に書かれているが、世代間交流の場を持ち、互いの
理解を深めることがギャップの解消につながると信じたい。

以上。


「上から目線」という言葉、テレビを見ていて、よく聞くよう
になった。

なんとなく気になっていた言葉である。


この書評の中で、

若者の間で他者の視線を気にする傾向が強まっている理由と
して、子ども時代に年上の子や年下の子と遊んだ体験の希薄さ、
日本社会の「父性」の喪失などを挙げているが、中高年世代の
想像力が全く及ばない話でもなかろう。

ということだが。


適菜氏は、

民主主義」においては、自由、平等、人権といった諸価値が
絶対化されています。

と語った。

が、その結果、。

子どもと大人の壁が消失し、保護者と被保護者の区別も
なく、対等でないもの同士でも、平等ということになって
しまった

また、子どもが消費者としてターゲットにされるや、子ども
はお客様として優遇されるようになり、心理的に増長させる
社会風潮ができあがってしまった。

子どもは、褒めて育てるという「褒め殺し」で、とんでも
ない自己肥大化した人格を生み出してきている。

そのような結果、目線はいつでも対等でなければならない
なんて、とんでもない勘違いをさせてしまったのでは
ないか。

自由、平等、人権という言葉が叫ばれた時代は、これまで対等で
なかった者が、時代の変化によって実質が伴ったことによって
対等を要求するために使われてきたと思っているが、わたし
たちは、西欧文化のステレオタイプの移入に大きな陥穽が待ち
受けいることを見落としていたのではないか。


適菜氏は、

民主主義」においては、自由、平等、人権といった諸価値が
絶対化されています。

と語った。

社会集団の構成員が、自由、平等、人権といった諸価値を
希求する状況が、その社会を活性化させ、その社会集団が
発展していくことにもなるが、その諸価値がその社会に
浸透すればするほど、その諸価値の享受に向けた、激しい
競争も生み出す。

その競争が続けば続くほど、その競争はヒートし、その
競争を勝ち抜く争いも高度化し、その諸価値の享受から
脱落していく者が、出現していく。

資本主義が発展すればするほど、その競争の中から、独占
資本が出現するように、社会が発展すればするほど、その
諸価値を独占する者が出現する。


自由、平等、人権といった諸価値の希求が、その社会の
構成員において、エスカレートすればするほど、いつの
日か、とある時期に、その希求を享受できる敷居が、
高くなり過ぎたことに気づく。

肥大化した自己意識は、ヒートアップした時代に、
時代に悲鳴をあげる。

若者が抱いている生きづらさは考えている以上に深刻で、
世代間のコミュニケーションギャップも大きくなって
いるのではと心配になる。

とあるが、この前提として若者が、誰とでも「対等」で
あるという幻想が存在している。


職場などで中高年世代の人が親切心から若い世代の人に
アドバイスし、かえって反発を買って「上から目線だ」と
非難される例が増えているらしい。

ようであるが、

根拠のない優越感を抱かされた不幸な人格を戦後精神、
戦後教育は、生み出しのではなかろうか?

それにしても、問題は、昨今の政治家がだらしないように
「上から目線」を行使するだけの権威が、見当たらなく
なったのも、現実であり、なかなか難しい問題かもしれ
ない。

 


まともな家の子供はいない

2011-10-02 22:27:35 | 書評紹介


新聞にあった書評である。

 

まともな家の子供はいない

津村記久子著(つむら・きくこ 1987年大阪市生まれ、
作家)


大人への幻想と現実


 人は大人にならないのだな、ということに大人に
なって気づいた。

自分が家庭を持つような年代になって、家というものが
案外いいかげんにつくられていいかげんに営まれている
ものだとわかった。

しっかりしていると思っていたものが、実ははりぼて
だった。

そう思った人は私だけではないはず。幻想が打ち砕かれ
ていく過程を経て、ようやく大人になっていったように
思う。

 2作収録の本書。表題作の主人公セキコは14歳。

幻想に亀裂が入りだしてはいるが、幻想自体はまだきちん
と保持している年ごろでもある。

セキコは常に怒っている。なぜ周りはこんなろくでもない
人間ばかりなのか。

ちゃんとした大人はいないのか。どこを見回してもまとも
な家がない。

 セキコの怒る姿は私の中学時代と生き写しで、遠ざけた
過去に引きずりこまれる感じがして「あぁ、もう私はそこ
に戻りたくないぞ」と必死で逃げるけれども、記憶に染み
付いた地底をはうような感覚がよみがえる。

 大人にまともであることを望むというよりは、大人がまと
もでないことへの不快感がどうしようもない。

ある意味でそれは、まともさへの過度な意識が根底にあって
「あるべき姿」を自分にも他人にもあてはめてしまう、この
時期特有の一種の潔癖さだったりもする。

 ただセキコはそれが私よりずっと強い。幻想と現実の差異
を誰より緻密にはかっていく。目がいいことは、より気づい
てしまうことである。

働かずゲームばかりの父、父に迎合しているような母。

大人のどうしようもなさが大量に押し寄せてきて圧迫される
セキコは、怒ることで自分を守る。

でも何より彼女を苦しめるのは、自分の不快感を共有できる
相手がいないことだ。

なぜみんな平気なのかという、自分と周囲の落差が切実に
迫る。

 あるべき姿と比べたら現実は奈落のような場所だ。

奈落であることがつらいのではない。

ここが奈落だということを感じているのが、自分ひとりと
いう孤絶感がつらいのだ。

(藤代泉・作家)


以上。


内容が興味深く、取り上げてみた。

 

自分が家庭を持つような年代になって、家というものが
案外いいかげんにつくられていいかげんに営まれている
ものだとわかった。

というのがあるが、同様な感想を持っている。

わたしは、家庭をもつことに、いろいろと躊躇することが
あって、結局、結婚することはなかった。

しかし、歳をとるにつれ、いろいろな家庭を知るにつれ、
けっこういい加減な家庭もあったりして、それで家庭が
成り立っているのかと思うと、自分が結婚を遺棄したことに
戸惑いを感じたりする。

特に、最近は、幼児虐待や保護遺棄などのニュースを知ると
彼氏・彼女ができ、結婚もでき、子どももできたのに、なぜ。

なんて、声が出そうになる。

結婚さへもできなかったわたしとしては。

 

そういうことだから、「モンスターペアンレント」なんて
のが出現しても致し方ないかも知れない。

が、その場に立ち会わないといけない人は、堪らないだろう。

それにしても、これらの家庭も含めて、経世済民に努める
人は面倒をみないといけないし大変なことだ。そして、この
現実の上で、国家が成り立ちうることも、不思議と言えば
不思議なことだ。

さて、

ある意味でそれは、まともさへの過度な意識が根底にあって
「あるべき姿」を自分にも他人にもあてはめてしまう、この
時期特有の一種の潔癖さだったりもする。

大人のどうしようもなさが大量に押し寄せてきて圧迫される
セキコは、怒ることで自分を守る。

等々あるが、

これは、ある意味で、教育の成果である。教育は、後続世代
を育成するための不可欠な機能である。

大人のどうしようもなさが大量に押し寄せてきて圧迫される
セキコは、怒ることで自分を守る。

このような状況も、この機能の成果であり、不条理なことで
もある。

この不条理さを避けては、国家は維持できないのであり、
なんとも複雑な思いが過る。

現実は、ほどよいいい加減さで成り立っているのかも
知れないが、いい加減さの心地よさに淫しては、この
世の中に、生き残れない。そこが、問題なのだが。

 


父親再生

2010-09-06 11:06:45 | 書評紹介

書評紹介

新聞の書評に興味深い文章があった。

父親再生 信田さよ子著 NTT出版の書評を杉山由美子・
フリーライターが書いている。

その中で、「始末が悪いのは、能力、経済力、あらゆる面で
息子より優れた父だった。挫折し続ける息子を助け、理解
しようとする父には、息子を抑圧している自覚がないのだ。」

このような文章があったのだが、なんとも皮肉な話である。
父親が人間として、より理想に近づくにつれて、父親は、
後続の世代の成長の桎梏となる。




そして、「無関心な父も、完全な父も、支配的な父もいけない
となると、どんな父がいいのか。

著者は、『妻や息子を抑えつけず、時にケアしてくれる。家族
に愛されようとする父が合格』と言う。」としている。

このようなことができる程、男は強いのだろうか。「時にケア
してくれる」なんて言っているが、このような厳しい時代に
あって、いつも背伸びせざるを得ない男にとって、かえって
男の方がケアされたいのだ。

今の時代に「男を務める」なんて、難儀なことなんだから。

泣きながら男を務めざるを得ない男に、家族に愛されよう
なんて、ゆとりがあるのだろうか。

かえって、男の方が誰か俺を「かまってくれ」なんて、
泣いて暮らしていると思うのだが。


それは、ともかくとして、彼女の提言するような男像を務める
ために、男の方が心労で、倒れそうだ。

しかし、彼女の提言するような男であっても、やはり、それ
なりに、問題を引き起こすと思うのだが。

まだ、彼女のいうような男が一般的でないから、解決策の
ように見えているだけだと思うのだが。


そして、著者は提案している。

「まずは青春時代に学生運動を経験し、その後は企業戦士として
働いてきた自分のことを、自身の言葉で語ってはどうだろうか、
と。
そうしてさび付いた感情を解きほぐすことが、家族にとって望ま
しい存在になる一歩なのだ」

これは、厳しいね。そう簡単にできるものではない。

わたし自身も団塊の世代だから、何十年も振り返りながら、
生きてきた。

70年代半ばから、学生運動が急激に下火になるのに、
戸惑いながら。

時を経るにつれて、次から次へと新しい情報が開示され
過去を振り返る書物が出版される。

その都度、過去の評価をやり直す。そして、そのたび、
自分たちが考えていた見え方とは、全く違ったものが見えて
きて、戸惑いっぱなしだ。

その都度、わたしたちが思っていたことは、ただたんに、
時代的制約を伴いながら、思い込んでいただけなのでは
と悲しい結論が出てきそうだ。


信田さよ子氏は、プロフィールを調べてみた。

1946年(昭和21年)生まれ。臨床心理士。

1946年、岐阜県生。69年、お茶の水女子大学文教育学部
哲学科卒業、73年、同大学院修士課程(児童学)修了。
95年より原宿カウンセリングセンター所長。臨床心理士。


彼女が学生運動の経験があるのか、民間企業の経験があるのかと
知りたかったが、この履歴からすると可能性は薄いとみた。

「まずは青春時代に学生運動を経験し、その後は企業戦士として
働いてきた自分のことを、自身の言葉で語ってはどうだろうか、
と。
そうしてさび付いた感情を解きほぐすことが、家族にとって望ま
しい存在になる一歩なのだ」と言っているが、

このようなことが、どのような根拠で言えるのか、知りたいものだ。


「そうしてさび付いた感情を解きほぐすことが、家族にとって望ま
しい存在になる一歩なのだ」と言っているが、わたしには、その
ことが理解できない。

まったく、的外れな見解である。

そのようなことを誰もしてないから、彼女は、解答になると、
思い込んでいるように思えるのだが。

だから、余計に問題は解決されないのである。