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リタイアーのよもやま話

何をしてもいい自由

2013-08-09 21:45:33 | 老後

森村誠一氏は、とある本で、こう語って
いる。

定年後、第二の人生のスタートラインに
立って、「これから自由にしなさい」とい
われたとき、そこには、「何をしてもいい
自由」と、「何もしなくてもいい自由」が
ある。

「何をしてもいい自由」とは、自分の夢を
実現したり、新しいことに挑戦することで
ある。

会社、組織での人生のしがらみを捨てて、
未知の分野に進む覚悟である。

以上。

「何をしてもいい自由」と言われて、その気
になろうとしたものの、高度情報化社会は、
あらゆるものが概知のものになってしまった。

先日などは、テレビで、バツイチの女性が整
形手術で、バンパイアそっくりになり、子連れ
再婚して、幸せになった。なんて、あった。

まったく理解のできない価値観もあるものだ
と驚愕した。

ネットをこまめに、歩き回れば、どこにもタ
ブーは存在しない。とんでもない情報の暴発
である。

多すぎて選べないという話しがあったが、あ
まりもの多様さに、全てのものが矮小化して
その存在意義は、光速で無意味化している。

そのような状況にあって、人はどこに向かっ
て走るのか判断もしようもない。

はてさて、あと20年ほどの猶予があるので
はと、勝手に決め込んでいるが、何ができる
のか。

増えすぎて、大きくなりすぎたわたしたちは、
カタストロフィを引き起し、死の行進をはじ
めているのか。

絶望的なほどに、すべてがもうスピード
拡散している。

「何をしてもいい自由」、はてさて何ができる
のだろう?

 


定年後の生活の「不都合な真実」

2013-07-06 22:13:28 | 老後

鷲田小弥太の「定年と幸福」を少し読み返し
ていたら、次の文章があった。

 

以下、その文章である。

 高齢社会を生きる人間にとって厄介なのは、
別に大きな権力にあずかったわけでもなく、
望む自己愛を実現したわけでもない人間(男)
が、定年後、「何ものでもない」状態のまま20
年~30年も生きるということにある。

こういう状態で誇りをもって生きることができ
るか、という問題を突きつけられているのだ。

以上。

定年後の生活の「不都合な真実」である。

わたしの後輩(同級生の弟)が、参議院選挙に出
馬して頑張っている。

わたしの今の締まらない生活からすると、信じら
れない話しである。

自分の分をわきまえない発言かもしれないが、生き
るエネルギーが枯渇ぎみな己と比較して、ご苦労さ
んなことだ。敬服してしまう。

ポスターでみると、なんとも老成した面持ちだ。

 

定年後、「何ものでもない」状態のまま20年~30年、
なんとも恐ろしいことだ。

かといって、猛スピードで変転していく時代に、何
者になりうるのだろう。

新聞を目を皿のようにして見ても、わたしの心昂る
ものは皆無だ。

不本意なる第一の人生、挽回したいものだ。

しかし、どこを見渡しても、なりたいものがないの
だ。

定年後、「何ものでもない」状態のまま20年~30年、
恐ろしいことだ。

はてさて、どうしたものだろう。

 


高邁な幸せではなく、不純な幸せでいい。

2013-06-18 10:48:13 | 老後

 心底「やりたい」と直感したことを、あなたの
人生でいくつ実現させることができるかが、あな
たの幸せを決める。

綺麗事は一切抜きの本音勝負だ。
高邁な幸せではなく、不純な幸せでいい。

高邁になることができるのは、「やりたい」こと
を満たした後からなのだ。

どう見られたいかでなく、どうやりたいかを考える。

と、S氏は、彼の著書で語った。

彼は、「不純な幸せでいい。」とも語ったが、自分
自身の胸の内に、問いかけても、何も答えが返って
こない。

M氏は、

「何をしてもいい自由」とは、自分の夢を実現した
り、新しいことに挑戦することである。

と言っていて、感心して受止めたが、その何をやり
たいのかが、実は、なかなかどうして、思いあたら
ない。


新聞をどこを見ても、テレビのどこを見ても、心浮き
立つものが見つからないのは、どうしたことだろう。

若干の苛立ちを覚える。


ヤフーのニュースに、

歩幅狭いと認知症リスク増…70歳以上調査

読売新聞 6月17日(月)14時40分配信

 歩幅が狭い高齢者ほど認知症になりやすい
との調査結果を、東京都健康長寿医療センタ
ー研究所の谷口優研究員らがまとめた。

という訳の分からない研究があったが、本当の
ところは、「高邁な幸せではなく、不純な幸せで
いい。」なんて、幸せが見つからないから、結果
的に自堕落の生活の毎日で、「歩幅狭い」症候群
になるのだ。

研究員らは、嬉々としているが、なんてこと
はない。自分自身が若いから我々の世代から
すれば、当たり前のことが分からないらしい。

記事には、
その結果、年齢や一人暮らし、血液中の赤血球
数の少なさ、低コレステロールなどが、認知機
能の低下と関係していた。中でも、特に関連が
深かったのが、歩幅の狭さだった。

というのがあったが、この資料の意味するとこ
ろは、自分たちで資料は作ったものの、そのよう
な人たちを日常みない人にとっては、その本質が
なんなのか理解できないようだ。


話しは、逆なのだ。
認知症になるような生活が続くうちに、歩幅が
狭くなるのだ。

退職をしてしまうと、老いて衰えていくのが、
当たり前と観念している者たちにとっての心
情に理解が及ばなくては、根源的な原因は見
つからない。高齢者の生活の「質」、働き盛
り人たちの格段の差が、そのようなことに帰
結するのだ。

なぜ歩幅がせまい歩き方になっていくかが、
問題なのであって、そこに理解が及ばなけれ
ば本質からずれた話しが一人歩きする。そこで、
デイサービスあたりで、わけのわからないサー
ビスが意味なく行われる。

毎日寝たきり病院に通い、併設のデイサービスの
活動を見るにつけ、ちょっと違うのだがなと、
一人つぶやいているのだが。


ところで、養命酒のテレビのコマーシャルで、

東洋医学では、
女性は7の倍数の年に
男性は8の倍数の年に
疲れや冷えなどの症状はありませんか。

体に変化が訪れると言われています。

というのがあって、


男性は、56歳、64歳という場面があった。

以来、この64歳というのが、ひっかかっていた
のだが、実は、退職してから4年経ったという
ことでもあると理解した。

退職して、たいていの人は、悠々自適な生活到来
と、狂喜するのだが、しかし、そのうち、これま
での人生で積み上げたものを、「リセット」せざ
るを得ないというカルチャーショックに出会う。

そして、対象喪失、PTSD等に苛まれる生活が始ま
る。それが、男性64歳の体調の変化とみたが、ど
うだろう。

S氏は、
綺麗事は一切抜きの本音勝負だ。
高邁な幸せではなく、不純な幸せでいい。

高邁になることができるのは、「やりたい」こと
を満たした後からなのだ。

と、喝破した。

「不純な幸せでいい。」、なんて言っているが、
とりあえず、罪のない不純な幸せって何があるん
だろう。

そこが問題だ。


みっともない老い方

2011-10-07 22:53:35 | 老後

みっともない老い方

川北義則著

PHS新書


にあった話し。

 

「昔はよかった」と言うな

過去がしきりに思い出されるときは、不幸である
ことが多い。

 人間、絶好調のときは、現在に生き、過去なんて
思い出す暇もないものである。

どうせ生きるなら、いくつになっても、そういう
生き方をしたい。

年をとってくると愚痴が多くなるのは、現在が不満
で、過去を思い出すことでバランスをとろうとする
からだ。

 過去というのは都合よく粉飾されて現れる。思い出
が美しいのはそのせいだ。現在を充実させたいなら、
できるだけ過去は振り返らないにかざる。「昔はよかっ
た」という文句は言ってはいけないのである。


 誰でもよい思い出をもっているから、思い出すことが
あってもいい。

だが、現状否定の気持ちが強いときに思い出すことは、
「飾られている」ことを知っておいたほうがいい。

そうでないと、記憶がどんどん歪められていく。

 忘れることは、一般によくないことと考えられているが、
人間は忘れることのできる動物で、忘れることはよいこと
なのだ。

忘れるようにできているということは、忘れることに
意味がある。

人生を楽しく生きるには、忘れることも必要なのである。

 ところが、忘れようと思っても忘れられないことが
ある。嫌なこと、不愉快なことは忘れがたい。

どうやって忘れるか。そんなことは、なかったことに
するのが、いちばんいい。嫌なことに心の場所を与え
ないことだ。

そのためには、いまを充実させるにかざる。いまが
よければ過去なんて思い出さない。

 もし、いまがよくなかったら、よくなるよう努める。

そうすれば思い出している暇がない。

過去を思い出すことは、寝ている子を起こすようなも
のなのだ。

「昔はよかった」と感じるようになったら、心身とも
に弱っている証拠だ。

 定年後、何もすることがなくなって、家に閉じこ
もっているのがいちばんいけない。

これでは引きこもりと同じだ。体を鍛えるためにも、
まず外へ出て働く。

働き場所がなければ散歩でも何でもいい、くたくたに
なるまで歩いてみたらいい。


以上。

 

川北義則氏は、語った。

過去がしきりに思い出されるときは、不幸である
ことが多い。

 人間、絶好調のときは、現在に生き、過去なんて
思い出す暇もないものである。


?と。


心当たりのあることだ。


川北義則氏は、こうも語った。


 忘れることは、一般によくないことと考えられているが、
人間は忘れることのできる動物で、忘れることはよいこと
なのだ。

忘れるようにできているということは、忘れることに
意味がある。

人生を楽しく生きるには、忘れることも必要なのである。

 ところが、忘れようと思っても忘れられないことが
ある。嫌なこと、不愉快なことは忘れがたい。

どうやって忘れるか。そんなことは、なかったことに
するのが、いちばんいい。嫌なことに心の場所を与え
ないことだ。

そのためには、いまを充実させるにかざる。いまが
よければ過去なんて思い出さない。

 もし、いまがよくなかったら、よくなるよう努める。

そうすれば思い出している暇がない。


??と。


この中で、

どうやって忘れるか。そんなことは、なかったことに
するのが、いちばんいい。

と語ったが、

なかなかそういう具合にはいかない。

わたしたちは、「反省」とかいう言葉をずーっと口に
してきたし、何しろ、自分の罪に頬被りをすることに
は、罪悪感を抱くように育っている。

罪は、罰によって贖われる。

罪は、自己申告しなくてはならない。

神様は、お見通しだなんて。

ことで、生きてきたから、なかなかどうしてである。


しかし、第一の人生の成果が、第二人生に繰り越しでき
ないなら、自分に都合の悪い過去をリセットするのも
神様は咎めないかも知れない。

もう一度、人生をやり直す。

これが、高齢化社会に生きる者の身の施しかたか。

一生に二つの人生、二つの人格を生きる。

一つ目の人生を精一杯生きた者への
褒美として、二つ目の人生は、より自分
らしく生きる我が儘を享受する。

60を過ぎてからの夢が本当の夢なんだ。とか言って、
嬉々として、日々を過ごせたらいいのだが。


65歳以上、最多の23.3%=80歳以上は866万人―総務省推計

2011-09-19 00:05:21 | 老後

ヤフーのニュースである。


 65歳以上、最多の23.3%=80歳以上は866万人―総務省推計


「敬老の日」(19日)を前に総務省が16日発表した高齢者推計人口
(9月15日現在)によると、65歳以上の人口は前年より24万人増え
2980万人、総人口に占める割合は0.2ポイント増の23.3%と、
いずれも過去最高を更新した。

80歳以上の人口は前年比38万人増の866万人、割合も0.3ポイント
増の6.8%と、こちらも過去最高。

 2010年の国勢調査速報値などを基に推計した。65歳以上の男性は
1273万人で男性人口に占める割合は20.5%、女性は1707万人で女性
人口に占める割合は26.0%。

 家計の状況をみると、世帯主が無職高齢者である世帯の月平均実
収入は18万8406円、実支出は22万6533円で3万8127円の赤字。

世帯主が高齢者である2人以上世帯の平均貯蓄額は2275万円と、株価
下落などの影響を受け3年連続で減少した。

 世帯主が高齢者の世帯でインターネットを使って購入した商品や
サービスの年間支出は10年が1万7112円。02年の5748円から約3倍に
増え、ネット利用の進展がうかがえる。


以上。


65歳以上、最多の23.3%。

この数字への到達、意外と早いような気がする。

わたしたち団塊の世代及び昭和25年生が、65歳以上になったら、
どれだけのパーセンテージになるのか、気になるものだ。

なんともおぞましい気分になる┄┄。  自分のことだが。

定年後の生活について、いろいろと本も出版されるようになった。

 

老いる覚悟  森村誠一=著  ベスト新書

には、こういうのがあった。


定年後、第二の人生のスタートラインに立って、「これから
自由にしなさい」といわれたとき、そこには、「何をしても
いい自由」と、「何もしなくてもいい自由」がある。

「何をしてもいい自由」とは、自分の夢を実現したり、新しい
ことに挑戦することである。

会社、組織での人生のしがらみを捨てて、未知の分野に進む
覚悟である。

たとえば、学生時代に留学をしたかった人は留学をすれば
いい。

趣味の蕎麦打ちが高じて退職金を全部つぎ込んで自分の店を
持ち、世間の人に本当のうまい蕎麦を食べてもらうのもいい
だろう。

仏門に入り修行して僧侶になるのもいい。

要は現役時代にできなかったことを実現することが「何をしても
いい自由」なのである。

「何もしなくてもいい自由」とは「何をしてもいい自由」と
ちょうど正反対で、社会とかかわりを持たず一日中ひとりで
テレビを見て暮らすような、本当に何もしないことである。

夢を叶えるでもなく、新しいことにも挑戦しない。

日々をあるがままに過ごすことをいう。

どっちを選んでもいいよといわれると、「何もしなくてもいい
自由」を選ぶ人が多い。

会社、組織を退職した人、特に一流会社の、いい地位で定年を
迎えた人は、「何もしなくてもいい自由」を選びがちである。

 誰も計画を立てたり、命令をしてくれる人間がいなくなり、
ひとりでは何をしていいのかわからなくなってしまうのである。

昨日まで一緒に働いてきた上司や同僚あるいは部下がいなく
なる。

出勤してタイムレコーダーを押して自分の席に着けば、周りに
同じ組織の仲間がいたのに、それが退職すると誰もいなくなる。

何をするにしてもひとりでやらなければいけない。

組織を辞めれば孤独になるということが、現実的にわかって
いなかったのである。

何十年も会社という組織の中で一生懸命働いてきたのだから
無理もない。

それまでは、会社のポリシーの奴隷であった。会社に忠誠を誓い、
ポリシーに縛られている人を、わたしは[社奴」とよんでいる。

しかし「社奴」から放たれた人のほとんどが途方に暮れる。
何をしていいのかわからない、どこに出かけていくのかも
決められない。

長年放っておいたので、家庭にも居場所がない。

リタイアして年金生活をおくっているわたしの仲間も、
やはり、何もすることがない人のほうが、多い。

しかし、家にはいられないので、仕方なく、ひとりで街に出て
時間を潰している。

 本当に何もすることが見つけられない人は、電車の環状線に
乗っている。

環状線に一日中乗り続けて、本を読んでいる。

自分ひとりでは何もできずに、仕方なしに「何もしなくても
いい自由」を選ばざるを得ない悲劇。

「タイムイズマネー」を地でいっていたエリート社員が、時間を
潰すために、一日中電車に乗っているなどと、本人たちも想像
できなかったであろう。


以上。

こう語っていたが、

わたしが、日々、見かける高齢者は、

夢を叶えるでもなく、新しいことにも挑戦しない。

日々をあるがままに過ごす「何もしなくてもいい自由」を
選ぶ人を多く見かける。

もしかすると、「何をしてもいい自由」を享受している
人達は、わたしの視界にはいないということかもしれ
ないが。

高橋歩氏は、こう言った。

やりたくない事を日常的にやってると、
本当やりたいものが見えなくなっちゃう。

そのうちに、金をやりたい事に使う度胸も
なくなっちまうぜ。

以上。

と言ったが、

大概の人間は、出来そうなことで、生活の糧を得ようと、
つまり、食べるために、生きている。

長い職業生活にあって、本当にやりたいことを考えることが、
いつしか、できなくなってしまったのかも。


高橋歩氏は、

出来そうなことの中から探してるうちは、
きっと何も見つからないぜ。

と言ったが、

なんせ、できそうなことしかやらない癖が身について
しまっているので、いつも堂々巡りの人生ばっかし、
繰り返しているような気がする。

森村氏、これから、老人のサバイバルが始まる。
なんて言ったが、これから、膨大な高齢者が街に溢れる。

人生の評価において、人生の第二幕をいかに生きるか。

主体的に判断し行動できる資質や能力の有無を問われ、
自助努力を叱咤される厳しい時代になりそうだ。

何しろ、本当の意味で、自由に考えたことも、行動した
ことも大方の人間は、ないのもだから。

本当の自由を手にしても、どうしていいか分からない。

いや、本当の自由が何かも判断できない。勇気もない。

誰かに言われなければ、自分が自由であるということを
確信できない。

それは、パラドックスだ。それでは、自由ではない。

だから、自由は、やっかいだ。