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リタイアーのよもやま話

「戦争を熱望する「『愛国者』たち」

2011-02-26 10:10:07 | 政治

ヤフーのニュースである。


小さな核戦争でも大規模な気候変動
ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト
2月25日(金)15時10分配信

アメリカの政府機関が開発した最新のコンピューターモデルによると、
地域的な核戦争であっても、地球の寒冷化と降水量の減少が先例の
ないレベルで数年間は続くことが判明した。その後には、飢饉(きき
ん)や病気の流行が広い範囲に及ぶと推測されている。

 かつての冷戦時代には、超大国間の核の応酬が「核の冬」を招く
のではないかと懸念され、アメリカと旧ソ連の対立は長年にわたり
人々を不安にさせていた。

 当時のシナリオでは、数百単位の核爆発が巨大な炎を巻き起こし、
その煙やちり、灰が太陽を数週間覆い隠す。

地上には致死的なレベルの放射線が降り注ぐという状況が想定さ
れ、最終的に人類のほとんどは飢餓や病気で落命するという悲劇
的な結末が待っていた。

今日、アメリカが唯一の超大国としての地位を維持する中、核の冬は
“現実味のない悪夢”として片づけられるようになった。

しかし、核戦争は現在でも極めて現実的な脅威として存在している。

例えば、インドやパキスタンといった開発途上国の核大国間では常に
緊張が続いている。

地域限定の核戦争が気候に及ぼす影響を調査するため、NASAを
はじめアメリカの各機関から科学者が集まり、コンピューターモデル
を開発した。

TNT換算で1万5000トンの“ヒロシマ”レベルの核兵器を100回使用
する戦争が想定されている。

この規模は、世界全体の核兵器保有量からすればわずか0.03%に
すぎない。

気候モデルの予測では、爆発で生じる大火炎により、およそ500万
トンの黒色炭素(ブラックカーボン)が巻き上がり、地球大気の
最下層の対流圏上部にまで達する。

その後、炭素は太陽熱を吸収し、まもなく熱気球のように上層へと
移動を始める。

“すす”が高空に達すると、空から消えるまでにはるかに長い時間が
かかるようになる。

研究チームの一員でアメリカのメリーランド州グリーンベルトにある
NASAゴダード宇宙飛行センターに所属する物理学者ルーク・オマン
氏は、「上層の炭素の雲が引き起こす地球寒冷化は、超大国同士の
戦争で生じる核の冬ほど破局的な事態とはならないだろう。

しかしその影響は、計り知れないレベルの気候変動につながるはず
だ」と語る。

地球は現在、長期的な温暖化傾向にある。

しかし限定核戦争の後の2~3年は、平均気温が摂氏1.25度下がると
予測されている。

最も影響を受ける地域は熱帯地方、ヨーロッパ、アジア、アラスカで、
気温が3~4度下がるという。北極と南極の一部では、風向や海洋
循環パターンの変化により、わずかに温度が上昇する。

10年後でも、地球の平均気温は依然として摂氏0.5度低い状態が続く。

 しばらくの間、地球は気温が低く不毛な惑星と化す。「モデルが示す
結果によると、農業が深刻なダメージを受け、特に晩春や初秋の霜の
影響を受けやすい地域では壊滅的な状態となる」とオマン氏は話す。

「1815年、インドネシアのタンボラ山の大噴火により、世界規模で
不作と飢饉が発生した。

限定核戦争が起きると、似た状況が広い範囲で数年間続くことになる」。

大噴火の年は「夏のない年」として記憶され、飢饉と不安が世界中を
覆った。

その上、さまざまな気候変動に伴って熱帯大気の循環パターンも変化
し、1~4年の間、地球の降水量が10%減少すると予測されている。

7年後でも完全な回復は期待できず、5%少ない状態が続くという。

 また、研究チームの一員でアメリカのコロラド州にある国立大気
研究センター(NCAR)のマイケル・ミルズ氏は、「生命を保護する
オゾン層も大幅に減少する。

大量の紫外線放射が地球表面に到達し、自然環境と人類に大きな
被害をもたらすだろう」と述べる。

前述のオマン氏は次のように結んだ。「地域レベルの限定核戦争でも
その影響は地球レベルに及ぶ。これが今回の研究の結論だ」。

今回の研究成果は、2月18日にワシントンD.C.で開催されたアメリカ
科学振興協会(AAAS)の2011年度年次会合で発表された。


以上。




石平氏の著書にあった話である。


90年代以来、中国共産党政権が「反日教育」とセットで、
全力を挙げて推進してきたのは、「愛国主義精神高揚運動」
という教育運動である。一種の歪んだ自己肥大のウルトラ・
ナショナリズム的意識と感情が、この教育によって植え付け
られ、煽り立てられた結果、「愛国主義」という名の集団的
熱病は、「反日感情」の高まりとともに中国全土に蔓延して
いるのである。

以上。

テレビでもあったが、南京虐殺事件を執拗に取り上げ、反日
感情を醸成しているようだ。

もっとも、このことを疑問に思っている大学の職員もいたりして
なんで、日本だけかと、問題提起を洗脳された学生に行ったり
して、より客観的な資質を育成しようと努力している人もいる
ようだ。

中国からすれば、阿片戦争の方が、もっと重大な事件だった
はずである。

結局、このような愛国主義、じつは、天安門事件で示される
ように、中国の民主化の流れで、中国共産党の一党支配の
危機感から、国民の意識をそらすための策略であるようだ。

だから、尖閣列島の問題でも、あのような高飛車な態度を
政府高官は、せざるを得ない国内事情があるのだろう。

この石平氏の本で気になったのは、このような教育の結果
とんでもない鬼っ子も生み出しようだ。

すなわち「戦争を熱望する「『愛国者』たち」である。

その内容たるもの、「この地球全体の『主人』になるという、
まさに世界制覇の野望なのである」と紹介している。

2005年7月、中国人民解放軍国防大学幹部である朱成虎
教授(少将)は、米国との間で核戦争が起きた場合は、「中国
は西安以東のすべての都市が破壊されることを覚悟する。
もちろん、米国も数多くの都市が、中国によって破壊される
ことを覚悟しなければならない。」とも述べた。


中国の西安以東のすべての都市、すなわち、歴史的にも文化的
にも、そして、社会的資本、人的資本からしても、中国そのもの
である。

これを、失っても構わないと言っているのと同じことである。


「小さな核戦争でも大規模な気候変動」というニュースに接すると、
彼らにとっても、自殺行為だということになるのだが、彼らは、
このニュースを知ったときに、どう反応するのだろう。


「戦争を熱望する「『愛国者』たち」という鬼っ子を
生み出した中国共産党に、どういう未来があるのだろう。

中東が混乱している今、中国共産党の心境や如何に。

そして、人さらいの国、北朝鮮の心境や如何に。

である。



Long and Winding Road 訳詞付 - ビートルズ

2011-02-25 22:25:03 | 日記
Long and Winding Road 訳詞付 - ビートルズ


今宵は、なんとなく体調が思わしくない。

昼間、暖かくて、夜からちょっと冷え気味だ。

ちょっと寒い。だから、今マスクをして暖かくしている。

最近、寝た後、2時間くらいして、毎晩目が覚めている。

昨夜も、そうだった。どういうわけか、3時頃に、
再度目が覚めた。

若干、苛立ちがあって、もう、寝れなくても、いいやと
諦め気味で、ウトウトしているうちに、朝になった。

だから、自分でも、寝たのか寝なかったのか、
良く分からない。

それはそうとして、天気は、晴れていて、いい天気だった。

そこで、朝は、庭の桑の木の伸びた枝を切り落とす
作業をした。

ボッシュの電動のこぎり、剪定バサミ、長い柄のついた
のこぎり、脚立等持ち出して、作業をする。

ボッシュの電動のこぎりであるが、大変重宝している。

この道具の一つで、大人10人分の以上の仕事をしてくれる。

と、思っている。

ということで、今朝は、肉体作業日であった。

しかし、これで、疲れたのかもしれない。


(1時間もしたら、ギブアップである。筋力
トレーニングはしているのだが、この程度
しか、作業ができない。)



夜になって、体調芳しくなく、手にも寒けがしてきて、
ギブアップである。

そういうことで、気分が好転するかも、ということで、
しばらく音楽を聴くことにした。

「Aloha! 」を何度か、聴いているうちに、何か違う曲を
聴きたくなった。

すると、「Long and Winding Road」の事が、思い出されて
きた。

ということで、You Tubeに出かけた。

出てきましたね。

懐かしい時間が、やってきた。

昔、ビートルズを集中して聴いた時期がある。

就職した20代後半だ。

意識的に聴いていた。


ビートルズの演奏は、わたしには、モノラルに聞こえて
しようがない。

わたしに能力がないのか、理由はよく分からない。

30代半ばに、PA装置をワンセット買い込んだ。

それで、彼らの演奏をハイカラな雰囲気にしようと
エコーつけ、スレレオにして聴いてみたら、ビートルズ
らしさが消えたしまったのには、びっくりした記憶がある。

結局、これは、やめにした。



「Long and Winding Road」について、ウィキペディアの
記載にはこうあった。

レノン=マッカートニーの作品。実質的にはマッカートニーの
作った楽曲である。

リードヴォーカルはポール・マッカートニー。

末期の楽曲で、1970年に発表されたラスト・アルバム『レット・
イット・ビー』の収録曲である。

以上。


この記事をみて、わたしは、びっくりしてしまった。

1970年に発表されたことになっているからだ。


(わたしは、マニアではないので、しようがないが
録音 1969年1月26日 だそうで、懐かしい60年代)



1971年、わたしは、予備校の寮にいた。

同じ寮生で、「Let it be」を歌っているのがいて、
その時に、この歌の英語の響きの綺麗さにショックを
覚えたことがあった。

いまだに、記憶に残っていてあの時ほど、英語の
響きが美しいと思ったことはない。

(とは言うものの「Let it be」未だに、覚えることが
できない。)

ちょうど、その頃、この「Long and Winding Road」
も発表されていたなんて、びっくりである。

わたしは、この曲を、30代のどこかで、それも

ステレオ感たっぷりのオーケストラをバックにした
ポール・マッカートニーのソロで初めてきいた。

なんというタイムラグ。


この映像、小野洋子が映っている。彼女の若さが輝いて
いるが、この映像をみて、青春という言葉が想起されて
やまない。

みんな若かったのだ。

ああいう時代があったのだと。

わたしたちのロングヘアー、彼らが先駆者だったのだ。

36歳の当時、わたしも髪が肩まで、のびていた
ことが思い出されてきた。

ウィキペディアの受け売りだが。

この曲についてポールは「あの頃の僕は疲れきっていた。

どうしてもたどり着けないドア、達し難いものを歌った
悲しい曲だよね。

終点に行き着くことのない道について歌ったんだ」と語っている。


だそうである。

これでは、20代で聴ける音楽ではないね。

でも、心のどこかで、見果てぬ夢を追う歳になって
しみじみと聴ける曲があるのは、幸せなことかも
知れない。

いい曲を作ってくれたものだ。彼らに感謝したい。



神の見えざる手

2011-02-24 22:49:19 | 読書

SHARE(シェア)

〈共有〉からビジネスを生み出す新戦略

レイチェル・ボッツマン
ルー・ロジャース

小林引人=監修・解説
関美和=訳

NHK出版


最近、この本を読み出している。


SHARE(シェア)というタイトルになんとなく
つられて、買ってしまった。

読んでいるうちに、想定外のセレンディピティーに遭遇した。



いつの頃からか、「神の見えざる手」という言葉を聞くように
なったが、この言葉について、いろいろと考えさせられる箇所
があった。

この「神の見えざる手」について、ウィキペディアの記載に、
これまた、面白いことが書いてあった。

見えざる手(みえざるて、英: invisible hand)は、アダム・スミスの
『国富論』の第4編第2章に現れる言葉。

古典的自由主義経済における市場仮説を指す。

『国富論』には1度しか出てこない言葉であるが、非常に有名となっている。

また、神の見えざる手(invisible hand of God)ともいわれるが、
『国富論』には「神の(of God)」という部分はない。

以上。




さて、SHARE(シェア)という本の中で、興味深い部分を
抜き出して見た。


以下、抜粋、引用。


第三章「私」世代から「みんな」世代ヘ

一度でもアフリカの農村部を訪れたことがあれば、その経済を
表すのにぴったりな言葉がすぐ頭に浮かぶだろう。

それは、「モア」。

何もかもが、「もっと」必要だ。

水、食べ物、インフラ、教育、健康、そして安定した政治。

このもっとも基本的なリソースの欠如と、その結果生まれる貧困
こそ、300年余り前にアダム・スミスが見たものだった。

スコットランド生まれの偉大な経済学者スミスは、18世紀の農民が
貧困から抜け出せる社会を目指した。

生産性の向上が豊かな社会につながるというのが彼の信念だった。

『国富論』の中でスミスは、利己的本能と[自己愛]こそが人間を
動かすと論じ、だからその特質を利用することで社会全体が豊かに
なり、労働力が効率的に分配されると説いた。

当時を振り返れば、アダム・スミスが生産性の向上を説いたことは
もっともなことだった。

1700年代のイギリスは決して往みやすい場所ではなかった。

平均寿命は35歳。

死んだ犬や描、ネズミ、馬までもが砂利の道ばたで腐り果て、
生ゴミがあらゆるところに散乱し、疫病や肺炎、天然痘が
蔓延していた。

医学は未発達で、1775年の死亡白書によると、虫歯だけで、
800人が死亡したとされる。

ほとんどの人は、崩れそうなレンガの建物の一室で暮らしていた。

建物が崩壊することもめずらしくなかった。

今、際限のない消費社会の中で、「モア]はその意味を失った。

生産性の向上と市場の効率化というアダム・スミスのわかりやすい
目標が、現代の経済や社会、そして地球を脅かす思想になるとは、
彼自身思いもしなかったに違いない。

『グローバル経済という怪物ー人間不在の世界から市民社会の
復権へ』の中で、デヴィッド・C・コーテンはこう言う。

「スミスは節度のない欲望に導かれた市場システムを説いたので
はない。

彼は、小作農や職人が家族を養うために、産品を最適な値段で
売る仕組みを説いた。

それは自己の利益だー欲望ではない」

アダム・スミス、そしてのちにミルトン・フリードマンの二人は、
自己利益の追求が社会全休の利益につながると信じた。

第二章では、この信念がわずか数世代の間に、技術的な創意工夫
というどちらかといえば健全な話から、ブランドや製品やサービスを
とおした自己のアイデンティティのあくなき追求へと形を変え、
ついにはとどまるところを知らない究極の消費主義のシステムに
なってゆく過程を振り返った。

1950年代、つまりハイパー消費主義の幕が上がる頃には、人々は
まず何より第一に、消費者として自分を意識し、市民としての意識は
二の次になっていた。

お互いに助け合うより企業に頼る方が身のためだと思うようになった
のだ。

集団やコミュニティの価値観よりも、消費者としての自立や「何を
おいてもまず私」という心理が先だった。

「自分のものは自分のもの」として、完全に自己完結していることが
究極のゴールだという誤ったコンセプトが、あたかも個性と自立の尊重
のように唱えられた。

ダグラス・ラシュコフは、著書『ライフ・インク』に、こう書いている。

「家はその持ち主の王国だとみなされた。

自分で成功を勝ち取り家を建てることが自立した人間の証明だと
され、地域の共有資源や共同駐車場、それになんであれ、人と
共有することは郊外の暮らしではよしとされず、忌み嫌われた」
フェンスの向こうに往んでいるお隣さんとは、もはやはしごを
借りるような親しい間柄ではない。

悲しいかな、この頃では隣人が「赤の他人」という方がふつうだ。

最近の調査によると、アメリカ人の四分の三は隣人がだれだか
知らないいう。

イギリスでは六割が隣人の名前を知らない。

「モア」の消費文化は企業の拡大には役立ったが、人間同士を引き離
してしまったようだ。

50年代と60年代をとおして、製造者とマーケッターは、労働者が
趣味や自由時間を犠牲にして、より大きな車やより広い家、またより
新しいテクノロジーを手に入れるよう誘導した。

その結果、[社会資本」は劇的に減った。

ハーヴァード大学で公共政策を研究するロバート・D・パットナム教授
は、社会資本を「協調的な行動を促して社会の効率を上げる信頼、規
律、そしてネットワーク]と定義し、社会資本のコンセプトを広めた人物
だ。

著書『孤独なボウリングー 米国コミュニティの崩壊と再生』で、パット
ナム教授はアメリカのボウリング人口の研究から、社会資本の減少を
たどった。

1980年から1993年の間に、アメリカのボウリング人口は10
パーセント増えたのに、ボウリング・リーグの数は四割も減っている
ことを彼は発見する。

そして、こう言っている。[これを些細なことと思うかもしれないが、
実は1993年には、800万人のアメリカ人が少なくとも一度は
ボウリングに行っている。

これは1994年の下院選挙で投票した人の数より三割も多いのだ」
独りでボウリングする人が増えたということは、多くの人がビールと
ピザを黙々と食べていること、人間同士の関わりが薄れたことを意味
する。

社交の時問が減れば、仕事や買い物の時間が増える。

1980年から2000年の間に、アメリカ人の購買力は三倍になった
が、皮肉なことに労働によって得たその果実を楽しむ時問はほとんど
なくなった。

クリントン元大統領が1993年にスピーチしたように、「ほとんどの
アメリカ人はムダに長時間働いている」

アイルランド出身の偉人な政治家、哲学者-そして今なら未来予言者
と呼ぶ人もいるかも知れない-のエドマンドパークは、1757年
にはすでに先を読んでいた。

「人間の本質的な欠陥は、とどまるところを知らないことだ。

そこそこでは満足できず、貪欲に求めるあまりすべてを失ってしまう……]
今どうにかしなければならないのは、この「貪欲に求めすぎること]だ。

アダム・スミスは、パークが「経済について自分とまったく同じ考えを
もつただひとりの人物」だと評した。

二人とも、競争をとおしてよりよい社会をつくりたいと思っていたが、
そこでは個人の利益と社会全休の利益をバランスよく追求することに
なっていた。

それから三世紀たった今、彼らの理想が実現されるかもしれない。

私たちはこの50年ほど続いた消費の「トランス」状態から今ようやく
目覚めつつある。

この変化の根底にあるのは、相互に結びついた二つの現象だ。

ひとつは価値観の転換。

経済成長は頭打ちなのに、リソースは無限であるかのように消費し
つづけていてはうまくいくはずがないという消費者意識の広がりだ。

だからこそ、人々は「買ったもの」をより有効に活用し、さらに重要な
ことに、「買わないもの」からも何かを得ようとしている。

また同時に、ものを追い求めつづけることで、友人や家族、隣人、
さらに地球との関係を犠牲にしていることに人々は気づきはじめて
いる。

それが、コミュニティを再生させたいという強い思いにつながっている。

今、私たちは「自分にどんな得かあるか]を追い求めることから
「みんなにとってどんな得になるか」を考えようとするその大きな
転換点にいる。

それ以上に、個人の利益と社会の利益が、お互いの肩にかかって
いることもわかりはじめた。

温暖化を止めるのは、それが自分の利益になるからだ。

選挙に行くのも、それが自分にかえってくるからだ。

ウィキペディアの記載を訂正するのも、それが自分のためだからだ。

以上。


この文章を読んで、今わたしたちの日常において、使われている
「神の見えざる手」という言葉って、何かしら可笑しいのでは
と思ったのである。

つまり、彼が、この言葉を考えた時代が、わたしたちが、想像も
したことのない状況下にあったという事実である。

ウィキペディアの資料を取り混ぜながら。

「スミスの仮説は、新自由主義やマネタリストのイデオロギーと
なった」とされている。

こういうことも書かれていた
「スミスが生きた18世紀の価値観であった「餓死してしまう貧困」に
照らし合わせれば、それを防げるという意味で彼の説は正しかったと
言える。」全く同感である。

また、下記のようなことも書かれていた。

「誤解されやすいがスミスはグローバル経済には批判的な論を展開
している点には注意が必要である」

なんとも、新自由主義者の「方便」のために、アダム・スミスの意志
とは、関係なく「神の見えざる手」という言葉が使われたなんて。


アダム・スミスにとっては、思いもよらない「合成の誤謬」・
「限定合理性」の出現となったようだ。


それにしても、戦後の世紀末的な状況は、戦後第一世代のわたし
たちに大きな責任があるのではと、自責の念にかられていたが、
今回のこの本を読んで、この世紀末が、一体どこからやってきた
のかという答えが見つかったようだ。


先程の引用の文章である。

50年代と60年代をとおして、製造者とマーケッターは、労働者が
趣味や自由時間を犠牲にして、より大きな車やより広い家、またより
新しいテクノロジーを手に入れるよう誘導した。


1950年代、つまりハイパー消費主義の幕が上がる頃には、人々は
まず何より第一に、消費者として自分を意識し、市民としての意識は
二の次になっていた。

お互いに助け合うより企業に頼る方が身のためだと思うようになった
のだ。

集団やコミュニティの価値観よりも、消費者としての自立や「何を
おいてもまず私」という心理が先だった。

「自分のものは自分のもの」として、完全に自己完結していることが
究極のゴールだという誤ったコンセプトが、あたかも個性と自立の尊重
のように唱えられた。

結局、これらの行き着いた所が、今わたしたちが、生きている時代
なのだ。


企業が拡大し成長するために、わたしたちは、「モア」の消費文化
をあてがわれ続けきたのだ、そして、わたしたちは、

ブランドや製品やサービスをとおした自己のアイデンティティのあく
なき追求、とどまるところを知らない究極の消費主義に洗脳されて
しまっているようだ。

いい本に出逢えたと喜んでいる。

久しぶりのセレンディピティーであった。



需要不足20兆円に拡大

2011-02-22 06:41:28 | 社会
ヤフーのニュースである。



需要不足20兆円に拡大=内閣府
時事通信 2月21日(月)16時29分配信

内閣府は21日、日本経済全体の需要と供給の差を示す需給
ギャップが、2010年10~12月期国内総生産(GDP)速報値
から推計するとマイナス3.8%になったと発表した。

金額換算で年20兆円程度の需要不足を意味する。


もしかして、今春卒業生の内定率の低さの原因は、
このことにあったのか?

少子化といって、大きな問題となっているのに、これ以上
人間は必要ないというメッセージも出ているということだ。

どうしたものだろう。



2050年には人口25%減

2011-02-22 06:28:16 | 社会
ヤフーのニュースである。

人口に関する情報が2件あった。


2050年には人口25%減、約6割の地点で人口が半減に 
国交省長期展望

産経新聞 2月21日(月)18時54分配信

国土交通省は21日、過疎化や人口減少がこのまま続いた場合、
2050年に、日本の総人口が05年より25%超減り、人口が
半分以下になる地点が全国の6割以上にのぼるとの長期展望を
取りまとめた。

三大都市圏に人口が集中する一方、少子化で人口1万人以下の
市町村の人口が激減すると予想した。

生産人口が減れば、国力の低下につながるだけに、政府には早急
の少子化対策が求められる。

推計は、国交省の国土審議会長期展望委員会が同日取りまとめた
「国土の長期展望」の中で盛り込んだ。

展望では、50年の総人口は05年より25・5%減少し9515
万人になると試算した。

うち、15~64歳の生産年齢人口は4930万人(05年比
41・6%減)となり、人口に占める比率は14・3ポイント減の
4930万人に減る見通し。

一方、65歳以上は3764万人と全体の4割を占めると予想した。

また、国交省では、50年時点で、人口が現在より半減する地点が
全国の66・4%に達すると予測。

現在も過疎化が進む地域や、首都圏でも、通勤圏から遠い地域では
約2割の地点で、人口が半減すると見ている。

ただ、三大都市圏は、総人口が減る中でも、人口集中が進み、50年
時点の全体に占めるシェアは05年より6・5ポイント増の56・7
%になると推計した。




居住地域の2割が過疎で無人化 国土審2050年推計

国土交通省の国土審議会長期展望委員会は21日、2050年の
日本の国土の姿について、過疎化や少子高齢化の傾向が継続した
場合、05年に人が住んでいた国土の約20%で、住民がいなく
なるとの推計を盛り込んだ中間報告をまとめた。過疎化が進む
地域では人口減少率が61%と、全国平均(26%)を大幅に
上回っており、大都市と地方の人口格差が過度に進むことになる。

推計は国土の将来的な課題を探るのが狙いで、国勢調査などを基
に、国土を約1平方キロずつに分けて、人の居住する地域や無居住
となる区域数を算出するなどした。

推計では、全国の人口は05年の約1億2800万人から50年は
9515万人と約26%減少。人口が50年には半数以上減っている
と見込む区域は、無居住化のケースを含め全体の約3分の2に達する。

一方、人口増の区域は三大都市圏の東京圏、名古屋圏を中心に
わずか2%止まりだ。

広域ブロック別で最も無人の地域が拡大するのは、人口が563
万人から319万人に減る北海道で、居住者がいる約2万1800
区域のうち、52%の約1万1400区域で人がいなくなる。

無人化する区域の割合が20%を超えるのは、ほかに四国圏26%、
中国圏24%。逆に最も割合が低いのは首都圏の9%。さらに離島
振興法で定めた全国258の有人離島のうち、約10%で無人となる
可能性があるとした。


以上。


とんでもないニュースである。


しかし、この数字には、現実的には、ちょっとした嘘が入って
いる。

このことである。

うち、15~64歳の生産年齢人口は4930万人(05年比
41・6%減)となり、人口に占める比率は14・3ポイント減の
4930万人に減る見通し。

一方、65歳以上は3764万人と全体の4割を占めると予想した。

ここである。


生産年齢人口を15~64歳としている点だ。この統計の基準
の15~18歳は、中3・高校生である。

そして、18歳から22歳の専門学校・短大生・大学生も入って
いる。

この年代の人口を生産年齢人口に入れたのは、現実から遊離
している。

また、61歳から65歳の大多数は、退職している。
この年代を生産年齢人口に入れたのも現実的ではない。

実際には、退職して働かない人間は、もっとも増えるはずだ。

だから、生産年齢人口を4930万人としたのは、実態と
違うことになる。

この統計のだし方は、現実を隠蔽している。



退職して、午前中に、ぶらっとスーパーに、コーヒー
などを飲みに出かける。

自分のことでもあるが、高齢者が、目について、びっくり
である。

異様な感じがしてならない。

不気味な感じだ。

自分のことでもあるが。


こんなにも人口が減っていくということは、今冬の豪雪
地帯の雪下ろし等のニュースで、びっくりしたが、高齢者
の残酷な状況が日常茶飯事となるということだ。

もしかして、社会・国家のインフラを維持する要員でさえ、
確保できなくなるのではないか。

行政の人員、病院、鉄道網、航空、消防、役所、水道、
通信等et cetera

これで、大地震、洪水等の災害に見舞われたら、それこそ、
地域が崩壊し、国家が衰弱していくということになる。

そのうち、国家も維持できなくなって、日本の国から、人間
が逃げ出すことになるのかも知れない。

時折、思うのだ。

すべての文明は、最終的に、少子高齢化で、維持できなく
なって、滅亡するのではないのかと。

人間が細胞分裂をしなくてなって、老いて死んでいくように。