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リタイアーのよもやま話

「手に職があれば安心」も今は昔

2011-11-30 23:38:10 | 経済

ヤフーのニュースである。


「手に職があれば安心」も今は昔。技術職の
仕事単価は10年前の約半額に

週プレNEWS 11月30日(水)12時51分配信


 現在、就職市場では「正社員志向」が高まっている。

だが、たとえ正社員で採用されたとしても、この不況の
ご時世だとリストラに遭ったり、または会社がいつ倒産
してもおかしくない。

そんなときに心強いのが「手に職」を持っている技術系
労働者だ。だが彼らの仕事も、軒並み単価が下がる傾向
にあるという。

 かつては安定の代名詞だった「国家資格」保持者の建築
設計士の42歳男性は、こう憤(いきどお)る。

「こんなギャラじゃ、とてもじゃないけどやってらんねえ!
 工務店の依頼を受けて戸建住宅の設計図面を作ってるん
だけど、10年前じゃ売出し価格の10%が取り分だった
のに、今じゃたったの3%だぞ。1000万円の戸建てなら、
ギャラが100万円から30万円に減ったってことになる。

生活苦で辞めていった同業者もたくさん見てきたよ。

俺たちの技術を安く見んじゃねえ!! 理由? そりゃ仕事
が減って競争がきつくなったから……。

いや、違うな。俺たちが苦しんでる分、間違いなく誰か
が甘い汁吸ってんだろ!」

 また、テレビカメラマンの36歳男性も「仕事量は減少
傾向」と苦しい現状をこう明かす。

「僕らの仕事は1回のロケをワンチェーンと言って、かつて
はカメラマン、音声、アシスタントの3名体制で平均受注金
額が13万円ぐらいだった。それが、今じゃカメラマンと
音声の2名になり、受注金額も8~10万円。

これだけ聞くと『ひとり当たりのギャラは変わんないじゃん』
と思うかもしれないけど、実は、以前はワンチェーンで1本
撮りだったのが、今は3本撮りも当たり前。

しかもカメラの性能が良くなっちゃったから、制作会社のディ
レクターがハンディカメラでロケに行くことも多く、仕事の
本数自体もかなり減っちゃった。もうやってらんない!」

 スチールカメラマンの37歳男性は、「全仕事平均で単価が
4割減」だと話す。高収入が期待できた広告写真のギャラで
さえ「10年前と比べたら、今の単価は50~70%減。

リーマン・ショック後に1段下がり、最近もう一段下がった」
とのこと。

 一方で、仕事の単価が減少したのは、「景気がいいときに
ボッタクリ過ぎたから」という声もある。WEBデザイナーの
38歳男性は2000年代前半の「ITバブル」に、さまざま
な企業がクライアントの無知を逆手にとって法外な料金を請求
してたとして、事情を次のように話す。

「昔は発注する企業側がネットのことをよくわかっていなくて、

こちらの言い値でけっこう通った。ひどい制作会社だと、バナー
をちょっと右にズラすだけで『5万円です』とか(笑)。

確かに、単価は下がったけど、それは一般の人たちもどんどん
ネットに詳しくなって、ボッタクリの実態がバレたということ
だと思う。

本当に大変なのに『このぐらい簡単でしょ?』って言ってくる
クライアントが増えたのは困ったもんですが……。」

 技術職の仕事単価が減少した理由はさまざまな背景がある
ようだが、少なくとも現在は「手に職」があっても安心できる
時代ではないようだ。

(取材/頓所直人、興山英雄、小山田裕哉、河合桃子)


以上。

この記事を読んで思うのだが、同業者が増えたことは、
想定されているだろうか。

また、素人でも、できるような人が増えてきた。という
ことは、想定しているだろうか。

技術が進歩すればするほど、たいていのことは、素人でも
こなせるようになってきた。

なんとも、皮肉な話しだ。


「手に職があれば安心」という言葉は、私たちの若いころ
は、十分に生きていた。

今や、その言葉が、死語にならんとしているということだが、
若者の就職率が下がる一方、なんとも憂鬱なニュースだ。


GhibliOriginals Bonus Track ~ To the Adriatic (紅の豚)

2011-11-30 12:27:28 | 音楽

昨日は、どういう訳か。

You  Tube で遊んでいるうちに、「紅の豚」に辿り着いた。

わたしは、宮 駿の作品は、好きである。

全部観たわけでないので、言い切ることはできないが、だいたい
少年、少女が主人公だったような気がする。

その中で、この「紅の豚」は、もしかすると、間違っている
かもしれないが、唯一の大人が主人公の作品かも知れない。

ウィキペディアによると、

本作の主人公。通称ポルコ・ロッソ(Porco Rosso)。黒眼鏡、
口ひげをたくわえている豚人間。1892年 - 1893年生まれの36歳。

となっている。

1893年生まれの36歳。とあり、良い年齢設定だと思う。

わたしは、このビデオをツタヤからレンタルして二度観た。

レンタルではなくて、そのビデオそのものを購入したいと
いう思いが止まない。

何度みても、しみじみとした思いにかられる。

己の正義感が、通用しない中で、若干、クールにひねくれて
生き延びる様は、何かしら切ないものがあるが、魅惑して
止まない。

ところで、You Tubeで、下の投稿作品を聴いた。

GhibliOriginals Bonus Track ~ To the Adriatic
(Cello Version) ~ by Kaoru Kukita

紹介しようと思ったのだが、埋め込みができないように
なっていて、大変残念だった。

http://www.youtube.com/watch?v=S20Om-Ql9fE&feature=
results_main&playnext=1&list=PLE9FA22C3643106B3

 by Kaoru Kukita とあるから、もしかして、誰か個人の
編曲で、投稿しているかもしれない。

もし、気が向く方がいたら、そこを訪ねてほしい。

この酒場のシーンで流れるチェロをメインにした弦楽四重奏
で奏される優雅な3拍子の曲は、聴く者をワルツを踊るように
誘うようで、堪らない。

このようなシーンにいたら、踊れないはずのワルツを、誰か
誘って踊りだしたくなるだろう。

流れ者のたまり場がその舞台となっているので、なんとも、
そのギャップが、大人の雰囲気を醸しだしている。

いい作品だ、エレガンス。

塩野七生氏は、とある本で、エレガンス(優雅)について、
こう述べた。

何よりもまず、優雅であることの意味がよくわかった。

大胆で官能的であると同時に絶対に下品であってはならない
のが、エレガンスの必要不可欠な条件であることだ。

言い換えれば、大胆と官能的と品位は、虚実皮膜の関係に
あるということか。

優雅と静かな緊張感は、表裏一体にあるのかもしれない。
大胆で官能的でいながら下品ではまったくないという意味での
エレガンス(優雅)ならば、二千年昔でも今でも変わりないと
いうことだろう。

以上。


どこか、この「エレガンス」という言葉が似合う。

「官能」と「品位」が両立できる存在は、希有だと思う。

おうおうにして、ただたんなる「卑猥」や「下ネタ話し」の
下卑たやりとりは、見かけるが。

勝手な解釈だが、かなりの教養と知性で、オブラートできる
能力がなくては、官能は、エレガンスを纏うことはできない
のではと思うのだが。

だから、いくら、若い子が、着飾って、色気をふりまき、
セクシーには、なれても、エレガンスを纏うことはできない
のでは。

紅の豚の投稿作品のコメントにこういうのがあった。

-Japanese-この映画の公開当時、30歳になろうとしていた友に、
「この映画に共感したら、君はオヤジになったということさ!」
と言ったら、未だにこの映画を観な-いのです。

脅かしすぎました。宮崎はソ連崩壊をうけて、この映画を創り
ました。

これである。


「この映画に共感したら、君はオヤジになったということさ!」
と言ったら、未だにこの映画を観な-いのです。

という文章があるが、オヤジが観れる作品がないのは、悲劇
ではなかろうか。

漫画喫茶で、いくつになっても、子どもの読む漫画を見入る
姿は、美しくは見えない。


30歳になろうとして、オヤジになりたがらないのは、子どもの
ままで居たがることであり、いつまでも、抵抗するのも、それは、
美しいことではないと思う。

いつかは、腹を括ることの覚悟ができなくては、人生に腹を括る
ことからも、逃げていることになるからだ。

かつて、ネオテニーを持ち上げた時代があったが、それは、ある
意味で、幼児虐待やネグレクトへと、連なったようだ。

今になって思う。


だから、「オヤジ」という言葉を遺棄することは、社会の不幸に
もつながる。なんて、勝手に思っている。


大事なのは、「オヤジ」を「エレガンス」で纏うことだろう。

それは、それで、一朝一夕では辿り着かないことだから、心
しなければならない。


「この映画に共感したら、君はオヤジになったということさ!」
と言ったら、未だにこの映画を観な-いのです。

ということだが、人生という言葉が使えるに値するだけの時を
経ることが、オヤジになれることの必要条件だ。

勿論、それ相応の内容を伴わなければならない。

ある意味で、「オヤジ」は、「真摯」な言葉なのだ。ということ
に、思い当たるようになるまでには、相当に時間を要する。

と、これまた、勝手に思う。

ある意味で、神聖な言葉なのだ。

マルコ(ポルコ)とジーナ、いいキャラクターではなかろうか。


追伸。

by Kaoru Kukitaという名前があるので、もしやと、ネットに
検索をいれたら、れっきとしたチェリストであった。
勿論、女性である。

久木田薫 ネットでいろいろと調べたら、

1979年東京都日野市生まれ。2歳でヴァイオリン、3歳で
ピアノ、7歳でチェロを始める。
 1991年(12歳)、1993年(14歳)2回に渡り
ヤーノシュ・シュタルケル教授の公開レッスン・オーディシ
ョンに合格、受講し、同年札幌ジュニア・チェロ・コンクー
ル第1位、優秀賞受賞。

とあった。

とんでもないプロが演奏していたもんだ。

これでは、容易に「埋め込み」を、して貰えないと、納得
した。

こうとなっては、CDを手に入れるしかないな。


肉を多く食べると大腸がん

2011-11-29 21:05:31 | 健康

ヤフーのニュースである。


肉を多く食べると大腸がん…調査で裏付けられる
読売新聞 11月28日(月)12時1分配信

 肉を多く食べる日本人は大腸がんになるリスクが高い
ことが、約8万人を対象にした約10年におよぶ国立
がん研究センターの追跡調査でわかった。

 同センターが28日、発表した。牛や豚などの赤肉を
食べると大腸がんのリスクが上がることは、世界がん研究
基金と米がん研究協会が報告していたが、今回の大規模
調査で日本についても裏付けられた。

 岩手や長野、茨城、沖縄など9県在住の45~74歳の
男女約8万人を対象に、1995年から2006年まで
追跡調査した。

このうち大腸がんになった1145人(結腸がん788人、
直腸がん357人)について肉類の摂取量との関連を調べた
ところ、摂取量と結腸がんに関係がみられた。

 男性は、肉類全体の摂取量が最も多いグループ(1日当
たり約100グラム以上)のリスクが、最も少ないグルー
プ(同約35グラム未満)の1・44倍だった。

女性でも、赤肉(牛と豚肉)の摂取量最大のグループ(同
約80グラム以上)が、最少グループ(同約25グラム
未満)の1・48倍に上った。


以上。

なんとも、ショックな数値だ。

アメリカ人(?)だったかな。肉の取りすぎで、大腸ガンに
なりやすいとか聞いた。

日本人は、アメリカ人(?)に比較すると、食べる量は、少ない
んだから、心配する必要がない。

かえって、もっと食べるべきだとか。ということも聞いた。

が、今回の数値はなんでしょう。

もっとも、日本人の腸は、草食用で、肉食用ではないから、
少なくても、リスクは高いのか?

魚の食べ過ぎのリスクはないのか。

水銀中毒の心配はないのか。

タンパク質はとらないといけない。

どうしたら、いいんだろう。

それにしても、ビビンバに拘る人は、どうこのニュースを
読むんだろう。

わたしの、もと同僚で、牛肉の刺身を毎日でも、食べたいと
いうのがいたが、このような人って、どうなるんだろう?


ストレス経費

2011-11-28 22:12:13 | 読書

とある本にあった話しである。
文章は、かなりカットして、著者の言いたいとこを
焦点化してみた。

 

ストレス経費

「絶対に収入は減ったのに、なんであまり苦しく
ないんだろう?」

不思議だったので考えてみました。それでわかった
のですが、嫌なことを仕事にしていたときに比べ、
無駄遣いが圧倒的に減ったのです。

僕が20代前半で、すごく仕事が嫌だったとき。当時は
意識していませんでしたが、実は衝動買いや、無駄遣い
ばかりしていました。

好きなことで独立してからは、ストレス経費はほとんど
なくなりました。

衝動買いはめったにないし、タバコ、お酒代もほぼゼロ
です。
高いランチやスイーツも、必要以上に求めなくなりました。

独立して多少収入は減っても、ストレス経費がゼロに近く
なったので、生活は思ったほど苦しくありません。

むしろ、それどころか、前と同じようなちょっとした贅沢
が、前よりずっと楽しくなったのです。

「仕事ってのはな、嫌なことを我慢する代わりに、お金を
もらってるんだよ」

一見これは、説得力があるように感じます。

でも、嫌なことを我慢して得たお金がストレス発散で消えて
いっているのでは、なんのための我慢なのかわかりません。

ただ生活のために我慢してお金を稼ぎ、そのお金を何か
大切なことに使うのではなく、ストレス発散に消えていく。

そんなことで、幸せになれるはずがありません。

だから、働くことが、むなしいのです。

あなたの一カ月のストレス経費。いくらくらいになって
いますか?


以上。


著者とまったく同じでなくても、何かと思いあたるような
ことはないだろうか?

ストレス経費としての無駄遣い。

わたしも振り返れば、この話し、自分のことのような
気もしてならない。

それは、わたしの人生そのものがそうだったのか、仕事が
そうだったのか。

それとも、両方だったのか?


時折、若い人が、好きな仕事をなんて言っているうちに、
フリーターから抜けられなくなってしまう人がいるよう
だ。

好きな仕事をするためには、それなりの才能も必要だし、
努力も必要だ。そして、その努力を可能とする環境も
必須である。

そうはいっても、競争相手が多すぎては、才能の供給
過剰となり、効率が悪くなってしまう。

 

テレビで、韓国のゴルフの英才教育の様子が放映された。

おそらく、その施設は、世界一だ。

授業料が、月25万円ほど、かかるということで、お
金持ちや自営業の子息しか、通えないということだ。

わたしには、信じられないが、学校も行かずに、一日中
ゴルフの練習をしているようで、学校でも公認のようだ。

そのような極端な英才教育に、大きな違和感が生じてなら
ない。

そして、である。

この英才教育の中から、プロになれるのは、1%と報じら
れていた。

そのあまりにも狭き門に、それなら、自分の父親の事業の
後継者として資質を養うことに専念したほうが、費用対効果
のほどは、ずっと高くなるはずだのにと、このゴルフブーム
のエキサイトぶりに、大いなる疑問がわいてしまった。

1%しか、プロになれないのなら、残りの99%とは、とんでも
ないリスクを背負うことになる。

学校もほったらかしていては、学業は身につかないし、友人
関係も育たず、どれほど歪な人間ができるのだろう。

それに、落ちこぼれのエリート意識が、加われば、その子
たちの人生は、あまりにも悲惨だ。そして、残酷な話しだ。

極端な英才教育の落ちこぼれでは、家業を継ぐなどの人生の
軌道修正のはかりようもないのではないか。

あまりにも歪な人生が桎梏となる。

とにもかくにも、1%の人しか、その努力に見合う結果を
享受できないとなると、残りの99%の人間の人生や暗澹
たるものだ。


好きなことが、遠い過去の時代か、まだ見ぬ将来にしか
享受できない内容になれば、それは、最悪だ。

だから、都合よく、自分の好きなことで、生きていくこと
は容易ではないのかも。

好きでない人生、好きでない仕事、そして、毎日の
生活に好きな事が見つからないとなると、それこそ
人生は最悪だ。

それでも、自分の生活を何とかしなければならない
と律儀な気持ちが勝れば、不条理と思いながらも、
そして、自分を偽りながらも、生きていかねばなら
ない。

もしかし、そのような存在の有り様を多くの人は、
強いられて生きているのかも。

自分のプライドに見合う才能と勇気とを持ち合わせ
ていなければ、人生は最悪だ。

だから、「仕事ってのはな、嫌なことを我慢する代わ
りに、お金をもらってるんだよ」という人生を選択せ
ざるを得ない

自分を偽った人生のストレスを解消するために、CMが
その疑似達成感を満たすべく、これでもか、これでもか
と、誘惑の手を差しのべる。

それで、経済がまわっていたりすることもあるのだから、
ことは、やっかいだ。

 

著者は、

ただ生活のために我慢してお金を稼ぎ、そのお金を何か
大切なことに使うのではなく、ストレス発散に消えていく。

そんなことで、幸せになれるはずがありません。

だから、働くことが、むなしいのです。

あなたの一カ月のストレス経費。いくらくらいになって
いますか?

と問いかけるのだが、

わたしの偽りの人生のストレス経費は、いったい全体、どれ
ほどのものになっているのだろう。

もしかして、わたしの人生、赤字決算になってはしないか。

取り返しもつかないほどに。

と、この本を読んで、いくぱくか、うろたえてしまった。

 


はじめの一歩

2011-11-27 23:59:38 | 音楽

 

You Tubeで、遊んでたら、この「はじめの一歩」が
見つかった。


わたしは、唱歌が好きだから、この手の曲も好きである。

いい歳をして、時折隠れて歌っていた。

 

新沢としひこ作詞・中川ひろたか作曲


小さな鳥が 歌っているよ
ぼくらに朝が おとずれたよと
きのうとちがう 朝日がのぼる
川の流れも かがやいている
はじめの一歩(いっぽ) あしたに一歩
今日から
何もかもが 新しい
はじめの一歩 あしたに一歩
勇気を持って大きく 一歩 歩き出せ

信じることを 忘れちゃいけない
必ず朝は おとずれるから
ぼくらの夢を なくしちゃいけない
きっといつかは かなうはずだよ
はじめの一歩 あしたに一歩
今日から
何もかもが 新しい
はじめの一歩 あしたに一歩
生まれ変わって大きく 一歩 歩き出せ

 


仕事は、不条理に不条理がからまる。どこまでが
真実で、どこまでが虚構だろう。

それを、もっともらしく、理屈付けをして、
自分を強引に騙し騙し、もしかして、周囲も
騙して。

行き詰まりを感じながも、日々は、仕事に追い立
てられて過ぎていく。

何事かができたことにしようと、自分に無理強い
をする。

そう、できたことにして、虚構の毎日が不本意に
も、積み重なっていく。

自分のどこかで、誰かが叫んでいる。いや、
悲鳴をあげている。

人生が終わってしまう。人生が終わってしまう。

どこからか、吹き出してくる焦る心で、どうにか
なりそうだ。

そんな苦しい時、時折、この歌を歌って、悲鳴を
あげる我が心をなだめる。

 

苦しいわたしは、

信じることを 忘れちゃいけない
必ず朝は おとずれるから

と、自分に向かって歌っていた。

 

苦しいわたしは、

ぼくらの夢を なくしちゃいけない
きっといつかは かなうはずだよ

と、自分に向かって歌っていた。

 

苦しいわたしは

はじめの一歩 あしたに一歩
勇気を持って大きく 一歩 歩き出せ

と自分に向かって歌っていた。


そんな日々が、忘却の彼方に少しずつ遠ざかって
いく。


近くで聴いていた同僚は、わたしの声をどう聞いた
のだろう?

そう、苦しいわたしは、いつも、自分に向かって
歌っていたのだが。

口外すると、ちょっと恥ずかしくもあるが、大切な
一曲である。

どんなにか、救われたろう。