島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

伊賀上野

2021-05-17 | 趣味
 
 緊急事態宣言下、不要不急の外出は控えなければならないのですが、土曜日、久しぶりの100km以上のドライブで他府県まで行ってきました。
 三重県伊賀市で開催されてる、「煌(KIRAMEKI)京都市工券?p作家協会展㏌伊賀」です。
 
 染色作家の友人が出品してるので、昨年も同じ伊賀まで行きましたが、それがなかなか良かったのと、新型コロナの時代でもなんとか開催されたので、励ます意味もあって、摧jりの観覧です。
 
 史跡旧崇広堂・赤井家住宅・入交家住宅の三つの会場で開催されていて、ブラブラと伊賀上野の町中を巡りながら鑑賞できます。
 
 美術館の壁などに陳列されてる作品を観るより、こんな藩校跡や武家屋敷跡の民家に飾られてる作品を観る方が、ずっと作品が良く見えるような気がしますし、幸か不幸か土曜日なのにあまり(ほとんど)入場者がいないので、ゆっくり観て廻れました。
 
 会場近くに「栄玉亭」という鰻屋さんを見つけたので、昼はそこに入りました。
鰻がびっしり入っていて、肉厚で焼き方もたれも美味しかったです。
 
 腹一杯になりましたが、完食です。
鰻が焼けるまでゆっくり待ってたので、隠居した老女主人(と言っても私と2歳しか違いませんが)が、明治末に開業した店の歴史とか、鶴瓶の家族に乾杯のロケに出た話とかをしてくれました。
 
 帰りは信楽を抜けてゆっくり帰りましたが、途中でトイレ休憩の為、客は誰もいない庭園風の喫茶店でコーヒータイム。
「そろそろ花の植え替えです」と主人が話してくれました。
 
 他府県への不要不急の外出ですので、顔をさらして報告しておかなければならないと思い、自画像もマスクで隠すことなく提示しておきます。
相変わらず写真映りは悪いですが。
 競馬は2週続けてZEROさん(ブログ;淡路島でマジックBARをしてた頃もあった)の予想に便乗して、それに私が加えた池添や8ランブリングアレーが奇跡的に来てくれて、GⅠ2週続けて三連複獲れましたが、楽しみに少し加えた三連単は、獲ったと思ったのに2回続けてハナ・クビと差されてて、中吉状態です。

       返事
Toitenlabeeさん:埋れながらも大きく育った、
    たくましい(厚かましい)女なんですね。
     そう、大きめの雪見だいふくサイズですね。
花水木さん:60過ぎにして総入れ歯になった私、
    若い時は柔らかいものしか食べられませんでしたが、
    総入れ歯になってからは、
    おこしも煎餅もバリバリいける、お菓子に関しては不死身の体になってます。

コメント (1)
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37.埋れ木

2021-05-15 | 菓子たくさん
 
 井伊直弼(イイナオスケ)(1815~1860)は彦根藩主の14男として生まれたので、花の咲くことのない埋れ木(木の幹が地中に埋もれ、長い年月ではんば炭化した物)に例え、侘住居「埋れ木の舎(ウモレギノヤ)」で、17歳から32歳まで過ごしました。
もちろんその間を無為には過ごさず、勉強も茶道も剣術も続けていたのと、上が次々と死んでしまったので、36歳で第15代彦根藩主にまでなれ、8年後には大老にまで登りつめて、結局46歳で桜田門外の変で暗殺されています。
 
 文化6年(1809)創業の「いと重菓舗」の代表銘菓「埋れ木」は、この埋れ木の舎」からその名を貰っています。
 
 比較的小さめのお菓子ですが、白あんを求肥で包み、抹茶がかかっています。
1個144円。
 
 上品で、お茶席にはよく合いそうですが、ややインパクトに欠けてはいます。

          返事
Toitenlabeeさん:子どもの楽園になってからしばらくは、
    競輪場のスタンドは残ってました。
     そう、落ちはしませんが、
    こんな所や高い所が、いやに浮ュなっています。
花水木さん:寺を観て大きくなるより、
    富士山を観ながら大きくなった人の方が、良い人間になれそうですね。
大雪男さん:パナソニックが今日後半は圧勝でした、
    多分サントリーとパナソニックの決勝で、サントリーが勝ちそうですが、
    阪神はまだまだ不安が一杯、
    今までがつきすぎですよ。

コメント (2)
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88-2後嵯峨天皇皇后西園寺姞子

2021-05-12 | 天皇陵巡り
 
 
 西園寺公経(キンツネ)の息子実氏(サネウジ)の長女西園寺姞子(サイオンジキツシ)(1225~1292)は、後嵯峨天皇(1220~1272)(在位1242~1246)の即位を受けて、変わり身の早い祖父公経の意向で、急いで後嵯峨の女御となりました。
 南禅寺の境内、サスペンス劇場では必ず犯行が行われたり犯人が告白する水路閣が奥に見える所に、制札だけが立っていました
 
 
 後嵯峨天皇と姞子の夫婦仲は良かったのか、4男2女をもうけ、その内二人が第89代後深草・第90代亀山天皇になっています。
  水路閣の下を一度くぐって、愛する息子亀山天皇分骨所の有る南禅院(非常事態宣言下で拝観中止中)の右横から水路閣の上に出ます
  小学校の頃には、友達とここまで遊びに来てましたが、よく水路に落ちなかったなあと思います
 
 
 後嵯峨に先立たれて出家し、比較的長生きをしましたが、鎌倉幕府が治天の君を誰にするか決めかねて尋ねたので、より可愛い息子の方の亀山を指名したので、これが両統迭立のきっかけともなりました。
  金網の向こうの南禅院の庭を左に見下ろしながら山道を進むと、昼なお薄暗い陵にたどり着きます
 
 正面からは陵に近寄れないので、少し右の山道から陵を見下ろしましたが、サスペンス劇場の犯人にやられないうちにと、急いで水路閣まで戻りました。

        返事
Toitenlabeeさん:競輪場跡の子どもの楽園ですね。
    子供連れでないと入れないので、
    二人で散歩中に王子様ごっこはしてません。
花水木さん:お涙だちょうだいではなく、
    スメ[ツだけのオリンピックに皆でしていきたいのですがね。

コメント (3)
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緊急事態宣言下

2021-05-09 | ノンジャンル
  
 松ヶ崎疎水の桜は、今年はあまり人に観られないうちに、すっかり緑に変わっています。
京都も緊急事態宣言は延長され、5月一杯は続いて気楽に外出できなくなりました。
 
 本日日曜日は孫が来てくれましたが、どこにも行けないので、近所を散歩。
土・日は子供の野球試合で歓声が響く宝ヶ池公園少年スメ[ツ広場は、人っ子一人いずに静まりかえっていました。
 
京都市こども体育館からも声は聞こえてきませんし、宝ヶ池公園テニスコートも市営ですから閉鎖されています。
周囲の市営駐車場も全て閉鎖されているのですが、ここまでしなくても良いような気がしますし、絶好の季節にもったいないです。
これでオリンピックはやろうとしているのですから、なんか矛盾を含んでますね。
 
 壁打ちテニスの場所も木の柵で閉鎖中、ご丁寧にも池に鳥よけで張り巡らしてあるロープと同じく、ロープがはってあって、柵を乗り越えても壁打ちがやり難いようになっていました。
そこまでしなくても良いのに感、満載です。
 
 遅咲き桜がまだ残ってるのかと、近づいた宝ヶ池公園フットサルコートにも誰もいず、桜でもなかったです。
この公園を散歩して、歓声が全く聞こえないのは、静かと言うよりなんか不気味です。
 
 柵の間から眺めた宝ヶ池公園運動施設球技場にも、もったいないぐらい誰もいません。
こんな場所で練習や試合をしたかった私ですが、実力がこの施設使用には届いていませんでしたね。
 
 最近出来た半地下構造の宝ヶ池公園運動施設体育館も、閉鎖されたままです。
 
 動いてるのは隣の宝池自動車教習所だけです。
 散歩を終わって観たNHKマイルC、ZEROさんの指導で3連複は獲れて、まあ嬉しいはずなんですが、2点だけおまけに勝った3連単、例によって池添さんで来た来た5万円馬券と喜んだのに、ハナでルメールさんに差されてしまい、無念です!
200円で5万円の夢破れ、悔しいです!なんて呑気なことを言うてる世の中ではないんですがね。

コメント (2)
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88-1後嵯峨天皇

2021-05-07 | 天皇陵巡り
 
 緊急事態宣言は延長になり、府外に出にくくなってきてますので、天皇陵巡りの順番在庫が減ってきてます。
あまり急いで天皇陵巡りも出来ませんが、遊びの外出もしにくい中、また在庫の天皇陵巡りです。
 
 邦仁王(クニヒトオウ)は第83代土御門天皇(1195~1231)(在位1198~1210)の第2皇子として産まれ、母は源通宗(ミチムネ)娘の通子(ツウシ)(?~1221)です。
承久の乱(1221)で父土御門上皇は土佐に流され、母は亡くなり、祖母源在子(ザイシ)(承明門院)の居る土御門殿にて養育されていました。
  嵐電嵐山駅の向かいにある天龍寺の中にある陵を訪れます
 
 先代四条天皇が突然の事故により、12歳で世継ぎも無く亡くなったので、公卿たちは第85代仲恭天皇の異母弟(父は順徳天皇)を推薦しましたが、鎌倉幕府は承久のを起こし武家社会に刃向かった後鳥羽ー順徳系を嫌い、自ら流されたが比較的中立を保ってた土御門系の邦仁王を第88代後嵯峨天皇(ゴサガ)(1220~1272)(在位1242~1246)としました。
 以後明治維新まで、何やかんや言っても武家社会が天皇を決める、公卿より武士が上位の制度になったと思います。
又後嵯峨天皇が生れたことが、以後の両統迭立や南北朝の争いの、そもそもの発端かもしれません。
  写真の日は、昨秋の第3波前だったので、嵐山にも日本人観光客が増えていました。
  天竜寺拝観入り口手前右に、柵の有る門があって、墓参以外立ち入り禁止でしたが、私は一応墓参ですので、窒フ下をくぐって入ります。
  参拝終わった後、沢山の宮内庁職員らしき人が入ってきましたが、おとがめなしでした
 
 こうして23歳にもなって貧しくまだ元服もしてなかった邦仁王が、天皇になれるという幸運に恵まれました。
 中宮藤原(西園寺)姞子(キツシ)(1225~1292)との間に6人の皇子女をもうけ、その内の二人が天皇(後深草・亀山)になりましたし、それ以外にも15人ほどの妃に17人ほどの子供をもうけ、その内の一人宗尊親王(ムネタカ)は鎌倉幕府第6代将軍になっています。
  ここは後嵯峨・亀山の親子の陵です
 
 後嵯峨天皇は在位4年で第2皇子後深草に譲位し、更にその後第3皇子亀山天皇の下でも院政を敷いて、26年間にわたって治天の君として君臨しました。
  天龍寺内の陵ですので、仏教形式の陵になってます
 
 しかしながら後嵯峨の治世は、西園寺公経や、その後劣勢を挽回し関東申次(モウシツギ)の職も手に入れた九条道家など公卿の支配も受けましたが、道家が失脚し摂関将軍から宮将軍(宗尊親王)への移行など、朝廷や将軍の地位は低下し、鎌倉幕府北条氏の得宗政治の下、天皇の選定なども武家が決める時代へと移行していきました。
 
 後嵯峨夫婦の三男亀山びいきや、治天の君の選定を幕府に委ねて崩御した後嵯峨天皇は、嵯峨南陵(サガノミナミノミササギ)(右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町)に葬られていますが、後に持明院統と大覚寺統が激しく争う両統迭立や南北朝の争いの火種を残しています。
 
 渡月橋の上流ボート乗り場の有る嵐山公園亀山地区は、丁度天龍寺の裏にあたりますが、そこに亀山・後伏見と共に、円丘の後嵯峨天皇火葬塚(右京区嵯峨亀ノ尾町)がありました。

       返事
花水木さん:いつもはGWに炬燵を片付けるのですが、
    今年は早く片づけたので、ストーブを点けてます。
Toitenlabeeさん:餡も大好きですが、
    みたらし・わらびもち・外郎・でっち羊羹なども好きですよ!
    そろそろ水無月の季節ですね。
     Toiさんの文章を読んで、いつも私の能力の限界を感じてます。
    障子貼り替えから、ジョージ・ハリソンを思いつく力に、
    私はそこから創造ではなく、連想で障子屋缶コーヒー(それでも気にいってますが)、
    を思いつくのが精一杯ですよ。
     褒めすぎですね、コロナ疲れでしょうか、そろそろ寿命が近づいてるのか、
    お元気でええぇぇぇ・・・。
   

コメント
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