島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

38≠Q天智天皇皇后倭姫王

2018-09-12 | 天皇陵巡り
    
 そもそも蘇我家の血が入ってない第34代舒明天皇が天皇に成れたのは、蘇我蝦夷の妹法提郎媛と結婚していて、古人大兄皇子という第1皇子が二人の間にいたためのようです。
蘇我一族はこの古人大兄皇子を次の天皇に出来ると思ったので、舒明天皇を天皇にしたようです。
 滋賀県大津市北部の坂本にある、滋賀県を中心に多数の店舗を持つスーパー平和堂に車を停めて、積んでる自転車で、坂本の丘の上にある住宅地を目指しました。
   
    
 しかしながら舒明天皇の皇后になったのは皇族の宝皇女で、二人の間には第2皇子として中大兄皇子(天智天皇)も産まれ、宝皇女自身も舒明天皇死後第35代皇極天皇になりました。
 そうしてる間に、乙巳の変で後見人である蘇我入鹿を目の前で殺された古人大兄皇子は、次の天皇になる道も閉ざされたと思い、出家してしまいました。
 木の岡丘陵のてっぺん近くに、やっと下坂本陵墓参考地(シモサカモトリョウボサンコウチ)の石柱を見つけました。
     
 政権の中枢を牛耳った第2皇子の中大兄皇子は、出家してもやっぱり浮ゥったのか、謀反の疑いで、異母兄の第1皇子古人大兄皇子と一族を皆殺しにしますが、この時唯一幼い古人大兄皇子の娘倭姫王(ヤマトヒメノオオキミ)は生かされました。
  そもそも倭姫王の墓ははっきりしません、宮内庁がこの陵墓参考地がそうだと言ってるだけで、木の岡古墳群の中の一番高い所にある丸山古墳、帆立貝式古墳がそれです。
    
 そして何故か、倭姫王は自分の実家を滅ぼした叔父にあたる第38代天智天皇の皇后になりますが、子供は出来ていません。
 あまり整備されていない細い道を少し行って、やっと下坂本陵墓参考地の前に出てきましたが、あの有名な天智天皇の皇后の墓としては、ややみすぼらしかったです。
    
 夫の天智天皇が娶った唯一の皇族出身者は、この倭姫王のみで、残る8人は皆臣下の娘であるのも不思議ですし、ここにも天智天皇と同母妹の間人皇女との禁断の恋が影を落としていた、と考えるのは思いすぎですかね。
 倭姫王との間に子がなかったのは、皇后であっても肉体関係はなく、倭姫王は巫女的な存在として皇后になり、それ故に天智天皇死後、次の第39代は弘文天皇ではなく、倭姫王が即位したという説が産まれてるのかもしれません。
  周囲には下坂本陵墓参考地の飛地として、宮内庁管理の円墳状の丘が何個かありました。
帰りは自転車で坂をかけ下り、平和堂での買い物が終わった家内と合流しました。

     返事
花水木さん:この頃数代の天皇陵は八角形の八角墳、
    中国思想の影響らしいです。
     権力は長く続くと絶対に腐敗します。
全共闘世代私の座右の銘;権力の座にある者、
             時として己の非を忘れ、
             相手のみ礼を求むるは、
             失政の因をなす!
        漫画’子連れ狼’からですが。
     次期天皇、つなぎなら愛子さまでいいですが、
    その次は男系で繋がるために、悠仁さんということに成るでしょうね

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38≠P天智天皇

2018-09-08 | 天皇陵巡り
   
 夫婦共に天皇になった舒明と皇極・斉明天皇の息子葛城皇子(カズラキノミコ)(中大兄皇子の名の方が有名)は、異母兄で乙巳の変後出家していた古人大兄皇子一家を謀反のかどで皆殺しにし、その時に唯一年端のいかなかった古人大兄皇子の娘倭姫王(ヤマトヒメノオオキミ)だけ生かし、後に皇后としましたが、二人の間に子供は生れていません。
  写真は東海道沿いに建ってる天智天皇陵への石柱です。
    
 その頃は皇女に適当な人がいなかったのか、中大兄皇子は倭姫王以外は臣下の娘とばかり結婚しています。
 蘇我入鹿を唐オた乙巳の変(大化の改新)を起こす為、蘇我家の中に仲間を作る為もあってか、蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘(オチノイラツメ)との間に建王(タケルノミコ)(夭折)・大田皇女(オオタノヒメミコ)(後の天武妃)・鸕野讃良皇女(ウノノサララノヒメミコ)(後の天武皇后で持統天皇に)をもうけ、同じく蘇我倉山田石川麻呂のもう一人の娘姪娘(メイノイラツメ)との間には御名部皇女(ミナベノヒメミコ)と阿閉皇女(アヘノヒメミコ)(後の元明天皇)をもうけています。
   
 中大兄皇子はこの3人以外にも、他に6人の女性に11人の子をもうけていますが、めんどくさくややこしいので後に繋がる重要な2人だけを紹介すると、後に第39代弘文天皇になった大友皇子の母宅子娘(ヤカコノイラツメ)と言う采女で伊賀の田舎娘と、最後なんとか今の天皇家に繋がった志(施)貴皇子(シキノミコ)(第39代光仁天皇の父)の母で女官の道君伊羅都売(ミチノキミイラツメ)です。
 計16人(娘12人)の中大兄皇子の子供のうち、4人が何故か一応叔父にあたる天武天皇に嫁いでいます。
  
 小学生の時に、少年向きの天智天皇の冒険小説仕立てを読んでますので、中大兄皇子は藤原鎌足と蹴鞠を通じて知り合い、専横をほしいままにしていた蘇我入鹿を大化の改新で唐オて、その後は庚午年籍(コウゴネンジャク)(670年)を作成したり、唐と戦ったりした後近江宮を開き、日本の発展に尽くしたと信じていました。
しかし、意外と政敵をだまし討ちしたり、醜い面も見せた人物だったようですね。
   写真の山科陵の参道は、立派でかなり長いです。
    
 参道の最後には門まで見えてきました。
夜には閉まるようです。
    
 父第34代舒明天皇が亡くなった時は、中大兄皇子はまだ16歳でしたので、母が第35代皇極天皇となり、乙巳の変の時は20才で、叔父が第36代孝徳天皇に成りました。
その次はもう他に有力候補もいなかったので、中大兄皇子で当然だったようですが、何故か母がもう一度天皇になってしまい第37代斉明天皇です。
 皆で九州に遠征中に、その斉明天皇が亡くなったのにもかかわらず、すぐには天皇に成らず、称制と称して7年間を過ごした後、やっと近江宮(滋賀県大津市)で即位し第38代天智天皇(テンジ)(626~671)(在位668~671)と成りました。
  写真は知名度で言うとトップクラスの天皇にふさわしい拝所の手前、実際に水が出ている手水鉢もありました。
   
 天智天皇は30年近く政治の中枢にいたのですが、実際天皇の名で働いたのは3年間程です。
その間に忠臣の鎌足にも死なれ、やっぱり最後は息子を天皇にしようとしたのか、やや弱気を見せつつ亡くなり、この山科陵(ヤマシナノミササギ)(京都市山科区)に葬られました。
     
 奈良でもなく、近江宮からも少し離れたこの京都山科に何故天智天皇陵は有るのか(山科の山の中で命を落としたという説有り)不明ですが、この八角墳である御廟山古墳(ゴビョウヤマコフン)に天智天皇が葬られてることはまず間違いないようです。
    
 京都の町中にあった私の小学校は山科に校外学舎を持っていて、ここにはよく遠足で行くため、天智天皇陵の横はよく通っていました。
小さい時からよく知っていた天智天皇陵には、大きな石の日時計があったはずなのですが、今回京都市営地下鉄東西線の御陵駅(ミササギエキ)から歩いて5分ほどの山科陵に行ったのですが、どこにも日時計を見つけられませんでした?。

      返事
花水木さん:20世紀は戦争の世紀、
    21世紀は天災の世紀と言うそうですが、
    もう死ぬ世代の私でも、なんか不安ですね。
     結局東海大地震だけが起こらなかった、
    になれば良いのですが。

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37-1斉明天皇

2018-09-04 | 天皇陵巡り
  風が強い台風が過ぎ去りましたが、仕事もなんとか行って帰れましたし、家も大丈夫です。
 2Kmぐらいしか離れてない息子の家は昼からずっと停電らしいですが。

     
 弟の第36代孝徳天皇が、皇太子の中大兄皇子などの仲間に離反されて寂しく亡くなった時、有馬皇子という孝徳天皇の息子は対立候補としていましたが、もう年齢的にも30歳になり、誰が考えても次の天皇は中大兄皇子(天智天皇)だと思う状況でした。
しかしながら、噂の?道ならぬ同母兄妹恋を世間が許さなかったかどうかは別にして、次の天皇はあっと驚く、以前譲位した天皇がもう一度天皇位に返り咲くという重祚(チョウソ)と言う手を使って、前第35代皇極天皇が第37代斉明天皇(サイメイ)(在位655~661)として飛鳥板蓋宮(イタブキノミヤ)で即位しました。
    
 2回目の天皇時代、斉明天皇は石造りの大規模造営を好んだようで、運河を掘ったり、大きな石を運んだりして、写真の飛鳥の酒船石遺跡(サカフネイシイセキ)も作っています。
 有馬皇子にこのような事業を批判するように仕向けた蘇我赤兄(ソガノアカエ)でしたが、彼の裏切りに依って、孝徳天皇の息子悲劇の有馬皇子(アリマノミコ)の謀反は失敗に終わり、殺されました。  
      
 660年百済が滅亡すると、わずかに残った臣下が日本に救援を求めてきたので、661年斉明天皇(その時61歳?68歳?)自らが指揮をとり、子や孫の中大兄皇子・大海人皇子・大田皇女・鸕野讃良皇女などと共に九州へ進軍しました。(女性も含めて一家中で進軍したのは、飛鳥に残ってるのも危険だったのでしょうか?)
 しかし斉明天皇は九州の朝倉橘広庭宮(アサクラノタチバナノヒロニワノミヤ)(福岡県朝倉市)で崩御してしまったので、全軍は引き上げ、斉明天皇は越智崗上陵(オチノオカノエノミササギ)(奈良県高取町)に、同母兄妹恋で苦しんだ?娘の間人皇女と、禁断の恋で産まれたのかもしれない?最愛の孫の建王と共に葬られました。(前回36≠Q間人皇女参照)
 重祚してるので、陵印はてっきり皇極天皇・斉明天皇と彫ってあると思っていましたが、よく見ると斉明天皇・孝徳天皇皇后(間人皇女)でした。
     
 この御陵には途中大田皇女の墓もあって、石段200段以上登ってたどり着きました。
御陵は車木ケンノウ古墳と言う円墳ですが、1周ぐるっと石柵で囲まれていて、1周回れるはずですが、このビニールシートに阻まれてしまいました。
土木工事の好きな女帝の陵なので、早く治してあげて下さい。

    返事
花水木さん:私の若い時は、
    世間でのイギリスの地位はもっと高かったように思いますが。
     久本さんの福江島は観ました。
    五島の海や湧水とか、行ったところばかりなので、
    私は本当に懐かしかったですよ。
    日村さんの夕方の食番組も観ました。
    奈留からも良く食べに行った望月のステーキも懐かしかったですが、
    私はあんなに高いのを食べず、もっと安いのを食べていましたが。

コメント (1)
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