第15代応神天皇から色々あって(15-1・15≠Q・15≠R・15≠S参照)、結局第16代天皇になったのは、仲姫命の産んだ大雀命(古事記)・大鷦鷯尊(日本書紀)の仁徳天皇(ニントク)です。
鳥の名前のせいか、仁徳天皇陵の外濠に鳥を見ました。
古事記は神話の上巻、神武天皇からの中巻、そしてこの16代仁徳天皇からの下巻の3巻から出来ています。
これは仁徳天皇の頃から始まる河内王朝が、今までの天皇家の系統から少し離れてることを、古事記の編者も示唆しようとしてるのかもしれません。
写真によると、仁徳天皇陵1周は2850ⅿもあるということです。
暑かったです!
仁徳天皇は最初の妻で大后(オオキサキ)のイワノヒメノミコトとの間に4人の子をもうけていますが、その内オホエノイザホワケノミコト(履中)・タヂヒノミヅハワケノミコト(反正)・ヲワサヅマノワクゴノスクネノミコト(允恭)と3人の子供が次々と天皇になりました。
弟の菟道稚郎子が夭折か自殺かしたために第16代天皇になった仁徳は、宮の高殿(タカドノ)から国見をした時、民のかまどから煙が立ち上ってないので、「これは民が貧しいためなので、3年間租税や賦役を免除する」と命じました。
この為宮殿は傷みましたが、3年後には民のかまどから煙も上がり、民が豊かになったと又税などを取りだしたそうです。
これが、戦前の道徳教育で有名な「民の竈」の話です。
今は宇治墓のそばに住む昭和1桁生まれの叔父は、昔は大阪人ですので、大阪市歌を憶えていて、
高津の宮の昔より
よよの栄を重ねきて
民のかまどにたつ煙
にぎわいまさる 大阪市 ~
と歌ってくれました。(大正10年作)
仁徳天皇の世は、その名の如く善政をしいたので、聖の御世(ヒジリノミヨ)と呼ばれるようになりましたが、反面、大后のイワノヒメノミコトの嫉妬に苦しめられたようです。(身から出た錆なのですが)
仁徳天皇は都を難波高津宮(ナニワタカツノミヤ)(大阪市中央区)に構え、83歳で亡くなりました。(書紀では143歳)
ここ百舌鳥耳原中陵(モズノミミハラノナカツノミササギ)(堺市)に葬られています。
立派な三重の濠に囲まれ(写真は一番外側の濠で、一番内側の大きな濠はまったく見えません)、墳丘の全長486ⅿ(周濠も含むと840ⅿ)と日本一の前方後円墳で、公式には大山古墳(ダイセンコフン)と言うことです。
今回世界遺産候補地に選ばれた百舌鳥古市古墳群の目玉なのですが、地上から見る限りその大きさを実感できませんし、内部の様子がまったく判らないという欠点はあります。
拝所の向かい、大きな公園の中にある堺市博物館には、大山古墳から出土したがアメリカに渡ってしまったという、大きな石棺のレプリカが飾ってありました。
返事
花水木さん:松茸は鱧と一緒に炊いてあったと思います。
コメントが入って、やっと一人前のブログになりました。
和さん:和さんともバトルしたいですよ、またお願いします。
そして、その当時の民はどんな物を食べていたのでしょうか?
近頃の真夏、暑さに弱い主婦は、何とかして火を使う調理を避けたいところですが、昔は冷蔵庫もレンジもコンビニも無い時代。一食作るのも大変だったでしょうね。
古墳から出土した石棺・・・アメリカ人はそれをどうするつもりで持ち出したのですか?
現在はどうなっているんでしょう。
夫婦もブログもマンネリは禁物。
夫婦は諦めてますが、せめてブログはねえ。。。
画像が地味な場合は、私が飛びつく美味しい物とか
地域限定の食など、変化が無いと。
トッピングと言うのか、おまけをつけてください。
以上、よろしくお願いします。
そういう私も、興味ない方からは理解できない山菜とかきのこの画像ばかりですけどね。