島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

86-1後堀河天皇

2021-04-23 | 天皇陵巡り
 
 承久の乱直後、鎌倉幕府は討幕計画に加わった後鳥羽上皇(1180~1239)の系統を嫌がって、第80代高倉天皇(1161~1181)の孫にあたる茂仁親王(ユタヒトシンノウ)(母は藤原基家の娘陳子(チンシ))をなんとか探し出して、わずか10歳でしたが第86代後堀河天皇(ゴホリカワ)(1212~1234)(在位1221~1232)として即位させました。
  写真の石碑の立つ泉涌寺横の参道を登って行きます
 
 茂仁親王の父守貞親王(モリサダ)(1179~1223)は、異母兄第81代安徳天皇と共に壇ノ浦まで連れて行かれ、なんとか京に戻った時には、同母弟第82代後鳥羽天皇が皇位に付いていたので、1221年には出家し行助入道親王(ギョウジョニュウドウ)と名乗っていました。
 
 後堀河天皇が誕生したので、皇位に付いていなかった父守貞親王(行助入道親王)は高倉院として院政を敷きましたが、2年で亡くなったので、後堀河天皇の一応院政が始まりました。
  参道途中左の脇道が、後堀河天皇陵の参道になっていました
 
 後堀河天皇のもとには、前太政大臣三条公房(キンフサ)の娘や関白近衛家実(イエザネ)の娘が入内しましたが、皇子は産まれず、前摂政九条道家の娘竴子(シュンシ・ヨシコ)(1209~1233)が入内し、やっと皇子秀仁親王(ミツヒト)(1231~1242)が産まれました。
  少し石段を上がって曲がると御陵です
 
 後堀河天皇の治世中は、もっぱら鎌倉幕府による承久の乱の戦後処理が行われ、道家の外祖父に早くなりたい意向と、病弱なために早く退位したい後堀河天皇の願いが一致して、鎌倉幕府の反対はあったようですが、強引にまだ2歳の秀仁親王に譲位し、四条天皇の下院政を開始しました。
 
 愛する美人妻竴子が三度目のお産で亡くなったこともあってか、譲位後2年にして23歳で後堀河は亡くなり、泉涌寺が見下ろせるこの観音寺陵(カンオンジノミササギ)(東山区今熊野泉山町)に葬られています。

       返事
じょんのびかあさんさん:お久しぶりです
    高校の時は可愛いだけの女の子と思っていましたが、
    小学校で習ったことをまだはっきりと覚えてる才女だったんですね。
    ト音記号の書き方なんか、全く記憶にない私です。
Toitenlabeeさん:ハニホヘトイロハがドレミファソラシドなんですね。
    病院の頃は単におもろいおばはんと思っていましたが、
    なかなか賢いおばはんだったんですね。
    文書プロ級だったですよね。

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