島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

49-6光仁天皇夫人高野新笠

2019-07-10 | 天皇陵巡り
 
 第49代光仁天皇は、突然なるはずもなかった天皇になった天皇で、その理由として、皇后になった井上内親王が聖武天皇の皇女であることや、他戸皇太子もいたことが挙げられます。
 今の9号線老ノ坂峠を越える道より1本ずれて、京都から丹波に抜ける昔の山陰街道が走っていますが、その沓?クツカケ)の信号を見ながらもう少し進みます。
 
 前回探し歩いて来た時は、こんな大きな石柱と山へ登って行く道を見落として、陵にたどり着けずに帰ったんですよ、信じられないですね。
この先にあるラブホテル群のことばかりが、頭の中を占めていたからでしょうか?
 
 近づくと、桓武天皇御母御陵参道とはっきり彫られていました。
井上・他戸が廃された為、光仁天皇の宮人(キュウジン)にすぎなかった百済からの渡来系氏族の娘が産んだ山部親王(ヤマベシンノウ)(後の第50代桓武天皇)が立太子したので、高野新笠(タカノノニイガサ)(~790)と高野姓となり、夫人ともなりました。
 
 ここからまずまず整備された山道を登ります。
 高野新笠は山部親王以外にも、光仁天皇との間に、先ずは第1皇女の能登内親王を、また弟の早良親王(サワラシンノウ)も産んでいますが、皇后にはなっていません。(この頃皇后になれるのは内親王だけです、藤原一族の例外はありますが)
 
 少し息が切れた頃に拝所が見えてきました。
ここは京都の西の端、ここを越えると丹波の亀岡に至ります。
 
 光仁天皇皇后高野新笠大枝陵(オオエノミササギ)と書かれた石柱も立っていますが、皇后とはなっていないと思います。
明治になってやっとこの陵を高野新笠の陵と治定したので、この時に無理矢理皇后と付けたのかもしれません。
 
 高野新笠は息子が天皇になったので、薨去後に贈皇太后を、孫も天皇になったので贈太皇太后(タイコウタイゴウ)を贈られ、諡号も天高知日之子姫尊(アマタカシラスヒノヒメノミコト)となりました。
 制札を読むと、光仁天皇夫人贈太皇太后天高知日之子姫尊 大枝陵(京都市西京区大枝沓樺ャ)。
 
 夫の第49代光仁天皇陵は奈良の山奥に有りますが、息子の第50代桓武天皇が都を平安京に移したので、その母親高野新笠陵は夫とは遥かに離れた京都の西北になってしまいました。
 ここで明らかに、今の天皇家に繋がる家系に朝鮮半島の民族の血が入ったことに成ります。
今の世の中、もっともっと日韓友好に、このことを活用した方が良いと思うのですが。

       返事
和さん:ありがとうございます。
    今年はインフルエンザにも罹患しましたし、
    自転車で転唐オた肘はまだ痛く、傷も変色して残ってます。
    そして71歳の誕生日には、
    左目周囲や眉間・鼻尖に帯状疱疹が出来て、
    唯一自慢の顔が、ミニお岩さん状態です。
    そろそろ私の免疫力も低下してきて、
    誕生日は冥土の旅の一里塚になってきたようです。
花水木さん:ありがとうございます。
    私より若い女性二人から誕生日を祝福してもらったので、ブログもし甲斐があります。
     大阪の御陵の周囲には、洗濯物がひるがえってる所もたくさん有ります。
大雪男さん1:ありがとうございます。
    男の人の祝福も、それなりにうれしいです。
    拓郎さんは心配ですが、陽水さんが逝ったら、いよいよ自分の番と思うでしょうね。
     もう今年は完全に終わりましたね。
    広島と最下位争いをしましょう。
    でもこれでのんびりと勝敗にこだわらずに野球観戦が出来ますよ。
    (毎年そうですが)

大雪男さん:下の画面までスクロールして押したら、
    元のPC画面になりました、さすが!ありがとうございます。
    でも今度は、元のスマホ画面は出なくなりました。
    まあいいか。
コメント (2)
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