島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

49-2光仁天皇父志貴皇子

2019-06-17 | 天皇陵巡り
 
 国道に面した拝所入り口から、長い直線の参道が続きます。
 
 切通のような、両側に石垣のある部分も通り抜けます。
 
 木々の間も抜けて下がって行くと、御陵が見えてきました。
 
 息子の第49代光仁天皇陵とよく似た感じの陵ですが、それもそのはず、両陵共に奈良の東、若草山の向こう側の田原地区にあります。
 
 志貴皇子(施基親王)(シキノミコ)(~716年)、母は越道君伊羅都売(コシノミチノキミイラツメ)で、父は第38代天智天皇ですが、母の身分も低く第7皇子でもあるので、壬申の乱(672年)後も皇位を狙うこともなく、天武朝の中でひっそりと生きていたようです。
 吉野の盟約《第40代天武天皇が、皇后(後の第41代持統天皇)との間にもうけた草壁皇子が次期天皇であることを他の皇子達に誓わせ、異母兄弟同士や従兄弟同士が争わないようにさせた会議》にも末席ですが出席し、大津皇子のように皇位争いに巻き込まれて殺されることもなく過ごせたのは、志貴皇子に能力がなかったのか、若すぎたのか、権力争いが好きでなかったのか・・・・。
 
  石走る 垂水(タルミ)の上の さわらびの
     萌え出づる春に なりにけるかも
 なんとなく授業で習ったようなこの万葉和歌、リズム感が良いので憶えやすく、私のような素人の心も捕えますね。
この作者が志貴皇子ですので、主に文化人として過ごしていたのと違いますかね。
 
 志貴皇子の死後50年以上経って、紀橡姫との間の息子白壁王(6男)が突然第49代光仁天皇として即位したので(770年)、あわてて春日宮天皇(カスガノミヤ)の追尊を受け、この田原西陵(タハラノニシノミササギ)(奈良市矢田原町)に葬られています。
 父親が天皇でない天皇は、皆少なからずコンプレックスを持っていたのかもしれません、光仁天皇は自分の陵と同じくらいの同じ感じに、父の陵をしています(本当に息子光仁が作ったのかは不明ですが)

      返事
大雪男さん:阪神まだまだ実力不足です。
    パのチームが交流戦でもっともっと巨人を叩いてほしいのですが。
花水木さん:図にはしたいのですが、
    パソコンで図や系図を作れない私です。
     先週は同級生と四国に帰った同級生を訪ねましたが、
    私含め参加4人とも、年とって頑迷になっています。

コメント (1)
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