今日も、「遺愛集」と島秋人について書く。
「遺愛集」の歌が幾首あるのか数えてはいないが、歌集の中に父母や肉親のことを詠った歌が、かなりある。
中でも、亡き母を偲ぶ歌には特別な思いがこめられている。ひとりでに、作者の心にやさしさがより添う感じだ。母という存在の、子に及ぼす力の大きさを感じる。
甘ゆべき母のなき獄青布の夜具をかぶりて悲しみに耐ふ
母のなきわれは亡母(はは)恋ひ夜を更かし獄(ひとや)に遠き汽笛ききたり
亡母と居る不思議に気付き初夢は覚めて死刑の己れのみあり
秋立つ日につくつくぼふしの鳴きつづく亡母のたまひし玩具(おもちゃ)かも知れぬ
きらはるるしうちを受けし夢なれどめづらしく亡母の夢をみたりき
亡き母に叱られたくてまみつむりひくく飯皿ならしてみたり
ふと獄に亡母にそむきし事などを憶ひつつをり陽に黙すとき
生れ来しいのち愛しむ夜の更けを亡母は添ふごとうつぶせに眠る
母在らば死ぬ罪犯す事なきと知るに尊き母殺めたり
こそばゆく風浴み亡母に幾たびとほめられし肌さすりつつ更く
いのちあればかくも愛(かな)しく亡母に似て笑む唇(くち)写る水鏡あり
処刑の日の朝、中村覚(島秋人)は、吉田絢子(恩師の妻)に宛てて手紙を書いている。その中に、<被害者の鈴木様へのお詫び状を同封致しますからおとどけしてくださいね。僕の父や弟などのことはなるべく知れないように守って下さいね。父達も可愛そうな被害者なのです。>と書いている。
自分の犯した罪による親族の苦しみは、分かりすぎるほど分かっているのだ。わが子の犯した罪に苦しみつつも、父は、父なりの愛情を獄中の子に注ぐ。そうした老父の姿を詠った歌が多い。
わが罪に貧しく父は老いたまひ久しき文の切手さかさなる
図書館に時をり行きて老いし父死刑囚われの短歌(うた)見るといふ
わが罪を証人台に泣きたまひ泣きたまひつつ詫びくれし老父(ちち)
父よりは背丈伸びたり送り来し古ジャンパーをまとひてみれば
独り身の老父のジャンパー袖口に繕ひしあとありて切なし
独り身の老父が洗ひて繕ひし古ジャンパーを獄にまとひぬ
過ぎし日の老父の姿まねてゐぬ冬の日向に死囚となりて
死刑囚われある故に慎みのくらしすといふ老父のふみ読む
老い父の生活(たつき)は楽にならざれど窓ある家に移りしを知る
窓のある家に移りし老父おもひよろこびゐつつ眠り得ざりき
老父よりの手紙(ふみ)は余白が多かりき用件のみの字を読みて更く
来ると云ふ老父を待ち侘び夜通しを鳴く虫の音に聴き入りにけり
四年経て金網ごしにいたはられ老父の言葉の少きを聞く
父老いてくり返し同じことを云ひ言葉なきとき泣きたまひけり
老父が見する姉の写真の女の児をさなき頃の姉によく似る
いくたびか老父の手紙欲(ほ)りてゐき忘れむとする処刑日迫る
繕へば老父の過ぎし日憶ひ出づ縫ひ目そろはぬ針あとの似て
酒のみの父持ち貧しき姉弟(きょうだい)の誤字多き手紙(ふみ)を獄に愛しむ
老い父に罪なき日には為さざりし善き事ひとつ為し得て愛し
いささかの金も送りて老い父が家成りし事を獄によろこぶ
弟が戸主となりゐき新しき家に移りし老父の手紙に
(昭和39年の説明に「父に新しく家があたえられる。わが送りし賞金二万円が、
その基金と聞く。」とある。※賞金とは、昭和38年の上半期、窪田空穂選で「毎
日歌壇賞」を受賞、その賞金のことであろう。)
ステレオを購ひしと告ぐる老父(ちち)の笑み詫ぶべきわれを明るくしたり
手振りして生活(たつき)の楽になりし云ふ老父を金網(あみ)ごし眺(み)てはうれしき
老けたまふ父の言葉に知らされてわが知る故里(くに)は遠くなりたり
心に痛みを覚えつつ、多くの歌を書き写した。
島秋人は、自らの犯した罪によって、責め苦にさいなまれつつも、同時に、処刑の日まで、人の心に訴えかける多くの歌を詠んだ。
獄中の生活は自然との接触も限られている。それでも、身辺の虫や鳥、花など、五感で感じるすべてのものに、優しいまなざしを注いで、彼は生きた。そうして、歌という形に書き留めて、多くの読者にやさしさを送り届けた。
永久に悔悟のないまま、処刑の日を迎える人もたくさんあることを思うと、島秋人に改悛の日々のあったことで、心が和む。
それにしても、老父や肉親にとって、身内に犯罪者を出してしまった苦しみというのは、どんなにつらいことだったか、これは想像に余りある。
ただ、「遺愛集」の歌には、子の犯罪によって、容易に壊されなかった親子の深い絆を読み取ることができる。そこに救いがある。