ぶらぶら人生

心の呟き

猛暑の8月去る

2020-08-31 | 身辺雑記

 8月、最後の日となった。

 どうぞ猛暑も、8月とともに去ってくれ! と念じるばかり。

 かなり体にこたえる8月の日々であった。

 思考停止の毎日。

 

 

 シロシキブの実。つややかな黒紫色に実って。

 

 

 シロシキブの実。まだ若緑色。

 

 

 ムラサキシキブの実。

 この時期のシロシキブとムラサキシキブの実は、まだ区別がつかない。

 秋の深まりとともに、実色の変化を眺めるのが楽しみである。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の庭

2020-08-28 | 小庭の四季

 熱暑のおさまらない庭。 

 

 

 サルスベリとノボタンの花。晩夏の陽を浴びて。

 

 

 隣家の黒ちゃん。

 私の気配に身を起こしたが、立ち上がろうとはしなかった。

 

 

 宙に浮くクモ。目を凝らしても、クモの糸(巣)は見えず…。

 

 安倍総理辞任のニュース。

 持病の再発は気の毒だが、ほっとした気分もある。

 功罪半ばというところか?

 

  

   今晩の月。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『穏やかな死に医療はいらない』

2020-08-27 | 身辺雑記

   萬田緑平著 

  『穏やかな死に

   医療はいらない』


  


 2020年8月22(土)の朝日新聞・読書欄に、映画作家・想田和弘さんの文章「健康第一主義に傷ついたなら」が載っていた。さらに、関連の3冊の本が紹介されていた。

 その3冊をAmazonへ注文、そのうち2冊はすでに届いた。

 最初に届いたのが、上掲の朝日新書『穏やかな死に医療はいらない』であった。

 <医療はいらない>という表現だけをみると、極端な主張に思えるけれど、この本の紹介者(想田和弘さん)は、

<「萬田は末期がん患者が「自宅で最後まで目いっぱい生きるためのお手伝い」をする医師だ。死を忌避するあまり延命治療を続け、生をも遠ざけてしまいがちな病院文化に異を唱える。萬田がネットでコロナについて盛んに発信するのも、終末期医療とコロナ禍の問題の根底に「死を怖れ受容できない現代人」という共通点があるからであろう。「死なないための医療」の意味を考えさせられる。

 無論死を怖れるのは、生き物にとって自然だ。しかし怖れを放置していると、肥大化して暴走し、自分自身を苦しめ傷つけかねない。>

 と、書いておられる。

 私自身、萬田緑平さんの考え方については、大いに納得する。

 目次は、次のようになっている。

 プロローグ 僕が外科医をやめたわけ

 第一章 上手に枯れて穏やかに死ぬ

 第二章 自宅はホーム、病院はアウエイ

 第三章 自分の最期は自分で作る

 第四章 これまでの死の光景、これからの死の光景 


 各章は、さらに小見出しの項のもと、作者の考え方が、細やかに記されてゆく。

 具体的には、癌治療や抗がん剤治療を例に挙げながら。

 病まないで、一生涯を終えられる生涯はまず望めないであろう。が、病いや老いとどう向き合ってゆくかの心構えは大事なことだと思っている。

 私自身は、こんなに長く存命するとは思っていなかったので、比較的早く尊厳死教会に加入し、最期に備えての意思を示している。が、この先に、どういう末路が用意されているのかは、全く無明の闇である。


 この本を読みつつ、6、7年前に読んだ本を思い出し、書棚を探した。

 思いのほか、簡単に見つかった。石飛幸三著『「平穏死」のすすめ』

 <口から食べられなくなったらどうしますか>という一文が追えてあるように、老人の末期について書かれたものであるが、考え方の根底にあるものは、今日読んだ本と同じである。

 『「平穏死」のすすめ』を読んだとき、脱水症により入院した母の死について考えさせられた。食を受け付けなくなってきた母の命を点滴でつなぐことは、母に苦痛を与えるだけの延命処置であったことを初めて知ったのだ。(その気づきと無知の恐ろしさについては、当時のブログに書いた記憶がある。)

 母の入院は、かかりつけ医の病院だった。

 先生は三月(みつき)近くたったとき、自宅に帰られてもいい、と言われた。食べられない母を家に連れ帰るのは、治療放棄で死を招くことだと私は考え、入院を続けさせてくださいと、先生にお願いした。

 この本を読んで、先生は、母の末期をご存知だったのだと、初めて知った。ただ、先生は、最期が遠くないことを私に伝え難かったのであろう。

 思い出すと、点滴を受け入れることを拒否するかのように、母の体(特に足)はむくみを生じていた。そして、先生に退院を促された10日後に、母は89歳でこの世を去ったのであった。無知故に、母に過分の苦しみを与えてしまったのだと知ったのは、この本を読んでからであった。


  


 今日、改めて、ページを繰ってみた。

 最後に、故・日野原重明先生の解説が載っていて、読み直した。

 <これまでの医療はいのちの量と長さだけを目標としてきましたが、本来私たち誰もが求めているものは、いのちの長さよりも深さ、量よりも質ではないでしょうか。>

 と書いておられる。然りである。


 父は、勧められる入院をことごとく断り、96歳で最期を迎えた。

 毎夜、入浴後、体重計に乗る。白内障が進み、体重計の数字が見えないので、私が読み役であった。

 「35キロですね」と私が言う。

 「そうか、いつもと変わらないな」と父が言う。

 本当は、27キロであった。もともと痩せ型ではあったが、27キロは哀しすぎる。今日読んだ本で、「羸痩(るいそう)」という語を知った。父の痩せ方にはこのことばが当たる。入院を拒んだ父は多病を抱えたまま、亡くなる日の朝まで自分の足で歩いていた。96歳の生涯であった。(母も父も、一週間に一度の往診は受けていた。)


 できれば、父の晩年に肖(あやか)りたいが、さてどうなることか?

 自分の最期は自分で作る、との志を心に留め、かかりつけ医の先生にはお世話になりながら、残生の日々を豊かに……というのが、今の気持ちである。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜の庭

2020-08-25 | 身辺雑記

  夜になっても暑熱が治らない。

 それでも、草むらでは、秋の虫が鳴いている。

 もう一息の辛抱! と思いつつお月さまを眺める。


 

 

 

 夜の桔梗。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『三木俊治展』

2020-08-24 | 草花舎の四季

 草花舎へ出かけたのは一昨日であった。

 当日は、折よく、日差しの中に初秋めく爽やかさが潜んでいた。

 それなのに、今日は何という暑さであろう!

 異常な暑さに息苦しさを感じる午後であった。エアコンを25度まで下げても、なお息苦しさを感じた。

 夕方のニュースによると、日本で3位の暑さ、38度まであがったらしい。

 この暑さ体験は、人生初めての、猛烈な暑さ。

 長く生きれば、初体験の内容もいろいろ。

 

 昨日、草花舎から三木俊治展の案内状が届いた。

  「涼しくなりましたら、お話にいらしてくださいね。」とYさんのことばが、書き添えてあった。

 この暑さでは、私が出かけるのをためらっているだろうと、Yさんも察してくださっていたようだ。(案内状が届く前日に出かけたのであったが……。)

 『三木俊治展』が、20日から始まることは、草花舎のfacebookで知っていた。

 が、案内状を見て、展覧会名に気づいた。(下・案内状から)

 

 

 

 即座に展覧会の意を解することができなかった。

 私には予備知識がなかったのである。

 今年の3月30日に81歳で永眠の、ソウル歌手・<ビル・ウィザース>のことを、私は全く知らなかった。

 案内状の写真(下)の下端に、極小の活字で印刷された一行を読むことで、初めてこの歌手の存在を知ったのである。そして、インターネットでいろいろ調べ、早速、『Lean on me』(1972年)をYouTubeで聴いた。その歌声もだが、その歌詞に心打たれた。表現は、私にも理解できる平易な英文で記されているが、そこに描かれた意味は深い。こんないい歌が存在したのかと、改めて、繰り返して幾度も聴いた。

 三木俊治展の、思いがけないプレゼントであった。

 その背景を知って、この度の作品展の意味をも理解できたのであった。

 

 

 

 芸術作品を、私の下手な写真で紹介するのはいつも失礼なことだと思いつつ、このたびも、雰囲気を紹介しておくことにする。

 作品に接する人が、[Lean on 美]の気持ちで、ひとときの悦楽に浸ればいいのだと思う。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 私が暑さにまいっていると話したところ、Tちゃんが「元気が出るから……」と作ってくださったのが、ミネラルウオーター。

 色も美しいし、とても爽やかな深みのあるお味であった。口福であり、急に元気になったような気分であった。

 

 

 

 チョコレートケーキも美味しくいただく。

 

 

 作品の中から、私のいただいたエコバッグ。

 赤い鳩のように、日々、力強く生きられたらいいな、と思いつつ。

 

  

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月の庭(ピンクバナナほか)

2020-08-24 | 草花舎の四季

 昨日は、草花舎へ出かけた。

 八月に入って、初めての自由な外歩き!


 入り口の高い梢に、百日紅の白い花が咲いていた。


 (朝の散歩でも出会った花。思いのほか、白い花の百日紅は多いらしい。草花舎へ向かう途中の空き地にも、大樹があって、豊かな花をつけていた。

 しばしば通る道なのに、今まで見ずに通りすぎていたらしい。気づかなければ、それは存在しないのと同じこと!

 風景ばかりでなく、長い人生には、大切なものをたくさん見逃してきたのだろう。)

 

  

 

 いったん喫茶室に入ったのだが、窓外の鮮やかなピンク色に気づき、再び庭に出た。

 ピンクバナナの蕾が、庭の一点に華やいで存在する。ピンク色の実になるまでには、まだ時間がかかりそうだ。

 

  

 

    

 

  

  紫の花は、メドーセージ?

 

 

 中庭の大樹の木陰で、しばらくセミの声を聞く。まだアブラゼミの全盛期である。

 ホウシゼミは鳴いていなかった。その声は晩夏の到来を告げてくれ、寂寥と安堵をもたらすのだが……。

 (夏の到来と同時に、朝夕に鳴くヒグラシの声も、当地ではほとんど聞くことができなかった。田舎にいて、アブラゼミやシャーシャーゼミだけではもの足りない。)

 

  

  緑のなかにミズヒキソウの赤、点々。これも懐かしい花。

 

    

  西洋フジバカマ?(妹にもらった花によく似ている。名前をYさんに確認し忘れた。)

 

 鉢の寄せ植え 

 

 

 

 

 

  室内の花

 

 

 ルドベキア

 

 以下、小さな花瓶に活けられた花々。


 

 

 

 上の二枚・シュウカイドウ。

 葉は大雑把な感じだが、葉脈や茎に赤みを有するところや花の可憐さが愛らしい。

 

 

 

 色とりどり形もさまざま、それが調和して。

 

 

 涼やかな花。(ジンジャー?)


 [三木俊治展については明日のブログで。]

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石榴の実

2020-08-23 | 散歩道

 猛暑続きであったが、少し晩夏の気配が漂い始めた。

 朝の散歩から帰って間もなく雨が降った。一雨ごとに秋が深まってゆくのだろう。

 猛暑続きで、家にこもる生活を続けてきたが、今日は、朝の散歩をし、午後にも草花舎へ出かけてきた。(草花舎の展示会については、明日、項を改めて書くことにする。) 

 

 途中、堤のそばの石榴を眺めた。艶やかな朱色に輝いていた。

 小木なので、実の数は少ない。  

 

 

 

 草花舎からの帰途、近道した小径で、蝶に出会った。

 羽を閉じてじっとしている。 

 

 

  根気よく佇んでいると、羽をぱっと開いた。

 同じ蝶かと思えるほど鮮明な色で、私を驚かせた。

 花同様、蝶や鳥なども、美しい装いをしているものが結構多い。

 

 

 山の上の雲が崩れかけている。

 盛夏の衰え始める気配が感じられると、ホッとする。

 

 

 

 今日は久しぶりに4000歩あまり歩いた。

 難なく歩けたことが嬉しい。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葛の花を探して

2020-08-23 | 散歩道

 先日来、そろそろ葛の花が咲いているだろうかと気になっていた。

 今朝は曇り空で、気温も少々低めだったので、朝食前、近所のお寺近くまで行ってみた。道辺に葛の山(繁み)があるのを知っているので。

 草刈りが行われたのか、繁みは思いのほか小さかった。蔓の伸びた先に花芽らしいものはあったが、まだ膨らみはなかった。

 葛に混じって実をつけた木がある。イヌビワであろうか。 

 

  


 葛の花には出会えなかったが、せっかく戸外に出たのだからと、少し遠回りして帰宅した。

 その道すがら出会った花。

  愛らしいヘクソカズラ。蕾の膨らみも可愛い。

 


  百日紅の白い花。

 


   夾竹桃の花。

  

 

  夾竹桃の一花。

 


  (この黄色い花は何?)

 


  昼顔の花。

 


  オオイヌタデの花。

 


 イヌタデ(アカマンマ)には出会えなかった。

 草花との出会いは、さまざまな人との出会いと同じように楽しい。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑草だけは威勢よく伸びて

2020-08-22 | 身辺雑記

 暑い日が続く。

 いつかは終わりの日が来るだろうと、熱暑を避けて、家の中ばかりで暮らしている。

 午前午後と、居場所を変え、気分を変えながら。

 しかし、このところ、暑さに心身が呆けてしまった感じで、何のために今日という一日を生きているのだろう?  と、懐疑してしまう。

 

 夕方になり、日差しの勢いが翳るころ、庭に出て植物へ水やりしたり、深呼吸をしたり、夕空を眺めたりする。

 

 崖のコンクリート壁に設けられた水捌け用の穴には、威勢よく夏草が茂っている。

 わずかな土に根を張って。

 名前を知らない雑草が多い。

 下の写真は、クズ(葛)である。

 

  


 ふもとに届きそうな勢いで伸びている。花でも咲いてくれると嬉しいのだが、その気配はなさそうである。

 

 野道を歩けば、もうクズの花に出会えるのだろうか?

 「あそこ」まで行けば、花が咲いているか否かは確かめられる。しかし、「あそこ」まで出かけるのが、この暑さでは大変なのだ。心の中では、無鉄砲な行動に走りたい気もあるのだが、万一不具合を生じれば、人に迷惑をかけたり、非常識を非難されたりしそうで、大人しく暮らさざるを得ない。コロナや熱暑の日々下では、ずいぶん行動が規制される。

 

 クズの花といえば、釈超空の歌が口をついて出る。

 人口に膾炙した歌。

 葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。 この山道を行きし人あり

 

 

 『新日本大歳時記(カラー版)・秋』より


 釈超空は、短歌表現に、句読点や空白、ー(棒線)などを用いた人である。

 戦後の歌に、

 萱原(かやばら)に 炭𥧄ひとつ残り居てー、 この宿主は 戦ひに死す

 と、詠まれた歌がある。


 ※ (注)釈超空は歌人としての号。本名、折口信夫[しのぶ](1887〜1953)。民俗学者・国語学者・歌人。

 

 

  


 こちらの穴には、何草か知らないが、二種類の草が生えている。

 秋台風がやって来れば、我が家の庭に吹き落とされて、私に、嬉しからざる仕事を与えてくれることになる。

 

  

 妹にもらった西洋フジバカマは、初秋の風情のまま、咲き続けている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『他力』

2020-08-19 | 身辺雑記

    五木寛之著

   『他力』

 

  

 (カバーの装画は、五木玲子さん)


 『他力』の初版は、1998年年(平成10年)である。

 100編のエッセイが載せられている。

 先日来、気の向くときに読み進め、今日、全てを読み終えた。

 『他力』という題名から、およその内容を想定するのは容易である。親鸞や蓮如に関わるエッセイが多数を占める。が、そればかりではなく、このエッセイが書かれた時代、戦後50年(1995年)当時を思い出される内容も多く綴られている。

 私自身は、老いの今を生きることに精一杯で、このところ、過ぎ去った時代の事件や歩みは忘れがちである。

 戦後75年の今こそは、大変な時代だと実感しているが、歴史をふりかえると、太平な時代など、そう多くはなかったのかもしれない。

 この本の書かれた平成前期の時代にも、例えば、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件、神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)などなど、衝撃を受けた自然災害や想像を絶する出来事がいろいろとあったのだ。

 1932年生まれの作者は、戦前、終戦、戦後を生きた人である。自らの体験が、作品には色濃く影を落としている。人間社会の諸問題に向けられる観察眼も鋭い。

 私も同時代を生きたひとりである。自らの生き方にについて、改めて考えさせられることが多かった。

 一旦は書棚に収めても、また折に読み返してみたい本の一冊である。


  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 連日の猛暑に、心身消耗。

 コロナでも、熱中症でも、特に高齢者にとっては要警戒が言われている。炎天の戸外に出かける気にもなれないばかりでなく、家の中にいても、なんだか惚けた人のようになっている。

 秋よ、早く来てくれ! そんな思いである。


 昨日、かかりつけの津田医院へ行ってきた。診察室で測る血圧は、いつものことながら異常に高い。脈拍数も90と高い。なぜそんなことになるのかわからない。

 バス停まで歩いたり、バス停から病院まで歩いたりする、わずかな行動が血圧の異常につながるのだろうか?

 家で、朝と夜に計測した血圧の記録を先生に見ていただいた。

 私の使用している測定器は、(タニタの手首測定器)と、新しく購入した(アムロンの腕測定器)である。二者の測定値には、ほとんど差がない。

 が、医院で測ると、私の持参した(タニタの手首測定器)でも、かなり高い数値だったから、移動時などには(思わぬときに)、高血圧症状になることもある、と自覚しておいたほうがよさそうだ。

 考えてみると、家での日常生活は、実にもの静かである!?


 安全第一の生活は、とかく単調になりがちである。そして、思考停止の日々が続く。

 朝、かなり丹念に新聞を読むことと、ナンプレ(数独)を一問解くことだけは、規則正しく行なっている。あとは、読みかけの幾種類もの本を、その時々の気分で読む程度の日々である。他事で、多少気を遣っていることといえば、炊事場に立つことくらい。

 自分の好きなことだけ(楽にできることだけ)をしているような日々。


 せっかくのいのちを、なんだか無為に過ごしているようで、このところ、心が冴えない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする