施設で読もうと、机の上の本立てに立てたまま、長い間忘れていた本に気づいた。先日、家に帰る朝、この季節に関連のある部分<第四章 秋を魅せる花々と葉っぱ>と<第五章 秋の実りと冬の寒さの中で>を読んだ。
田中修著
『雑草のはなし』
見つけ方、たのしみ方
野の草花は、見る努力をしないと、目に留まらないものが多い。
他ごとを思案したりしていると、無縁に終わってしまう。
『雑草のはなし』を読んで、ひっそりと咲く道辺の植物にも、見映えのしない植物にも、少し目を配るようになった。
もの言わぬ植物の思惑など、分かろうと努めたこともない。しかし、この本を読むと、植物は植物なりに、自らの命を守るため、また繁栄のために、工夫しながら生きていることを知った。私より利口かもしれないと思った。
近年は、少し伸びると、雑草は草刈り機でたちまち刈り取られるので、久しく目にしないものも多い。オミナエシやナデシコなども、最近見かけない。裏の崖がコンクリートで塗り固められるまでは、結構珍しい植物があり、季節を楽しむことができたのだが……。ナンバンギセルやナデシコや、名を知らぬ野草も多かった。雑草がなくなると同時に、蝶や昆虫も減ったように思う。コンクリート化により、土の部分が減り、見慣れた植物の少なくなる一因となっているのだろう。
あちらこちらの休耕田が、<セイダカワダチソウ畑>になっているのを見かける。風情があるとは思わない。もし、<レンゲ畑>や<秋の七草畑>だったら楽しいだろうな、と思ってみる。
昨日今日、道端や家の庭で見かけた植物。
ノブドウの実とクズの葉
セイタカアワダチソウと手前の草はオオアレチノギク(?)
エノコログサ
ジュズダマ
イヌタデ(アカマンマ)
ミゾソバとオオイヌタデ
ミゾソバ
ヨメナやノコンギクの見分け方が、今一つよく分からず、総じてノギクと呼んでいるのだが……。
ヤクシソウ(? 調べた結果、きっとそうだろうと思いつつ)
写真下の濃緑のかたまりは、曼珠沙華の葉。
フジバカマ
タンポポの冠毛
タンポポに限らず地面に張りついているロゼット型の葉は結構多い。刈り取られても根は残るし、特に冬は太陽の恵みを受けやすく、風に傷めつけられることもない。
植物の知恵の一つらしい。
今日は草花舎の休み日である。
が、お休みの日でも、喫茶店に出て仕事をしているときにはコーヒーを飲みにお寄りなさい、と昨日言ってもらった。が、せっかくの休み日には、それなりのお仕事があるだろうから、できるだけそういうわがままはしないでおこうと考えていた。
が、今日は午後、ハガキ投函のために出かけ、昨日写真が撮れなかったことが残念で、意を翻し立ち寄らせていただいた。(他に、庭の掃除を手伝われる人、日ごろからTさんのお手伝いや相談役として懇意にしておられる方も来ておられた。)
Tちゃんがコーヒーを淹れてくださった。(写真)
以下、<下和弘展>の作品の数々。
以上の展示作品は、昨日の展示状態のままである。
が、Tさんにとっては、陳列が満足な状態ではなさそうであった。
台の高さを変えたり、しばらく佇んで、全体の配置を見渡したり。
私は、その姿にTさんの、妥協を許さない芸術家の徹底した意思を感じた。
花を一輪挿すときにも、お皿にケーキを盛り付けるときにも、Tさんの、その姿勢はいつも変わらない。
私にも、Tさんに似た面があったな、と遠い昔を思い返した。
その道は違っていても、かつては妥協を許さず、文章を書くという行為において、心ゆくまで徹底した日もあった、と。推敲に推敲を重ねた日々は、遠い昔のことになってしまった。今では、その意欲がすっかり衰えてしまった。そして、いい加減な妥協ばかり。そして、しようもない駄文を書き続けて、ときどき嫌になったり……。
そんなことを改めて見詰める日となった。
今日、郵便局へ行かなくてはならない用があり、午後出かけ、帰途、草花舎に立ち寄った。
郵便局から草花舎へ電話しようとして、初めてスマホを持っていないことに気づいた。道々、秋の野草の写真を撮ろうと、バッグ入れずに手に持って出たつもりなのに、左手は空っぽだし、右手には杖を持っている。肘にかけていたバッグを開けてみても、スマホはない。
今朝は炊事中に土鍋の蓋を落とし、一部欠けてしまった。縁起を担ぐわけでもないが、朝からいい気分はしなかった。今日は慎重に暮らそうと、心したはずであったのだが……。
頭が惚けたわけではないと思いたいが、することなすこと危なっかしい。草花舎へ行くのに、スマホがないのは困ったことだが、途中で落とすことはないから、家のどこかに置いて出かけたのだろう、と諦めた。(帰宅してみると、私の予想とは違う位置にあった。)
草花舎を訪れるのは9月19日以来である。以来、不調の日が長く続いた。
草花舎が遠く思えた。距離的にも、心理的にも。
訪れた草花舎では、『下和弘展 』が開かれていた。
展示会のことは知らなかった。
お財布の中を確かめ、コップを一つ求めた。
朝食後に、たっぷりのコーヒーがいただける大きさの、お気に入りの図柄を選んで。
今日、求めたカップ。(いかがでしょう?)
中を覗き込むと物語があり、外側は繊細な描写や縁取りの色彩の妙がある。人の目には触れにくい底の面にまで、工夫が凝らされている。千変万化の芸が施され、視点を定めたところから、さまざまな物語が紡ぎ出せそうな図柄である。遊びと真剣さが渾然一体となっていて面白い。
内側
底
帰宅後、今までご縁があって、私の手元にある下和弘さんの作品を、食器棚から取り出して眺めた。
これがすべて。
☆ Tちゃんから玄米の美味しい炊き方を教えてもらった。
水に十分浸すこと。
炊くときに、少量のお塩を入れること。
早速、実践したい。
☆ 今日から少し遠出をするときには、杖を利用することにした。転ばぬ先の杖として、70歳半ばで求めたが、今まで使用することもなかった。昨日、街の中を3キロ足らず歩いたところ、自らの歩行を心許なく感じ、杖を有効に使うべきだと思った。
特に、私の利用する国道脇の歩道は、狭くて凸凹があり、老人には不向きである。今までも大型のトラックが近づくと、立ち止まって風圧を避けた。
杖は歩行をずいぶん助けてくれることを実感した。
旅行用に折りたたみ杖も求めている。施設に持参し、大塚散歩に使用しようと思う。
椋歯科医院へ定期検査を受けにゆく。
9月下旬、体調を崩したときには、左奥歯にも痛みが生じた。が、程なく治り、今日の検査でも異常はなかった。いつもように歯の掃除をしていただく。
カウンターに、ベゴニアの鉢が置かれていた。
明るい華やぎ。
街へ出たついでに、駅前の森谷商店に立ち寄って、もう一つの用を達したいと考えていたが、あいにく改装中であった。電話で確かめたところ、工事が終わるのは11月末とのこと。
そこで予定を変更し、ドコモショップへ行くことにした。かなり前から、スマホの<icloudストレージ残量減>の知らせが入り始め、いよいよ使用不可となりそうなので、昨日、ソコロシステムズへ電話して相談。スマホの写真をPCへ移してもらえないかと頼んだ。
が、一応ドコモショップでも処理の仕方を尋ねておこう出向いたのであった。
予想した通り、料金の値上げをするか、スマホの写真をPCへ移動させるか、いずれかの対処しかないことを確認した。
今日、歩きつつ眺めた木や花。
駅前通りの並木の紅葉(モミジバフウ?)。
栴檀の大樹。
ドコモショップからイオンへ向かって歩く途中、公園に立ち寄って、今日の栴檀に会ってきた。落葉の季節にはまだ早く、葉をつけたまま大きく枝を広げ、黄色の実をたくさんつけていた。(下の写真)
久しぶりに、益田川沿いの道を歩く。桜並木の紅葉を見つつ。
桜並木のふもとに咲いていたイモカタバミ(?)。
益田川とススキの原。
イオンで食料品を買って帰る。
久しぶりに、4000歩を歩いた。少々ふらつく感じで、スマートな歩き方ができなかった。足の弱りは否めない。コロナによる家篭りのせいか、歳をとったせいか?
緩やかな坂を下っている感じではなく、高い階段を一つドーンと降りた感じの、老いの感覚。
タクシーで帰宅し、買ってきたお弁当で昼食。
ソコロシステムズから、<明日10時に訪問する>との電話を受けたあと、長椅子に横になると、いつの間にか眠っていた。
せっかく京都に来ているのに、これでは旅も楽しめない、と思っているところで目が覚めた。昼寝の習慣のない私にとっては珍しいこと、よほど疲れたらしい。
帰宅した庭に、秋陽が降り注いでいた。
荷物を入り口に置いて、庭の変化を確かめる。
庭のあちこちに自生するマンリョウの実が、それぞれ赤みを帯びはじめていた。
シモツケには、季節外れの花がチラホラ。
例年に比べれば、花数の少ないホトトギスだが、ほぼ全開。
ツワブキの花が、庭のあちらこちらで花数を増していた。濃緑の葉も力強さを増して。
天上に向かって咲き続けるシコンノボタン。
碧空と紫紺の花と。
今朝の朝陽。極上の輝き。(施設の自室からの眺め。)
戸外は暖かい午後だったのに、部屋に入ると異常な冷えを感じた。施設との温度差に驚く。朝冷えが残ったままの部屋が暖まるのには、かなりの時間がかかった。
昨日、大阪の妹から届いた万博公園の秋桜。
写真でお花見。
咲き満ちて、美しい。
秋桜は、一つ一つの花も可憐で美しいが、多数が集合しても騒々しさなど微塵もなく、秋らしい静かさがある。
秋陽のもとで映える花。
白色だけの秋桜もいいな、と眺める。が、濃淡ピンクや黄色などの秋桜があるからこそ、白色が引き立てられるのだろう。
森本哲郎著
『名作の旅、伝説の旅』
本棚で長い間眠っていた森本哲郎著の6冊目を読んだ。
今回、読んだのは題名どおり、名作や伝説の地を巡る旅を綴った本である。
古いものは1965年、新しいものでも1974年の旅に基づく記録であるから、その土地土地の印象としては、今とはかなり異なるところがあるだろう。
それでも、不易なものが当然あるはず。特に名作や伝説は変わらないわけであるから、諸外国に疎い私にとっては初めて知ることが多い。
森本哲郎著の6冊は、積ん読ではなく、購入時に読んでいた。その証拠には、傍線などが加えられている。
ただ今回読み直して、初めて読む本のように新鮮であった。いい本である証拠であろう。
三度(みたび)読み直す機会はないだろう。しかし、『ことばへの旅』(1〜3)は、また手に取りたくなりそうな気がしている。いつまでも古びることのない内容の本であるから。
上掲の本の最後のページに、下掲の新聞の切り抜きが入っていた。
朝日新聞の「天声人語」である。
現在は、左下に日付が入っているが、これにはない。
福原倫太郎が昨年、86歳で死去とあり、とそれを手がかりに調べてみると、1982年のコラムであることがわかった。内容も、福原倫太郎の「失敗について」というエッセイ日て書かれたものである。
視力の衰えた眼には、読みづらい小さな活字である。
森本哲郎の本に挟んであるから関連のあるものかと思ったが、さにあらず。
過去にも、取り出した本から思いがけないものが出てきたことがある。
そのとき読んでいる本に、無意識にものを挟む癖があるらしい。
真正面に高島。
東側の岬。
西側の高山(こうやま)と日本海。
小さな灯台と荒波。
帰途、ふりかえると、枯れ草の彼方に高島。
道の辺の花は石蕗ばかり。