ぶらぶら人生

心の呟き

スーザンさんを訪問 (エンドウの花)

2008-05-31 | 身辺雑記
 昨日、スーザンさんに、今日のお昼頃、花を届けに伺うと約束をしていた。
 草花舎でお会いするごと、<家に来て>と誘われていた。私の家から、100メートルも離れてはいないのに、誘いに応じないのは、なんだか壁を作っているようで、気になっていた。心に壁はないのだけれど、私とスーザンさんの間にあるのは、言葉という壁である。

 しかし、それに拘っていたら、永久に訪問は不可能であろう。
 そこで、今日は庭に咲いた<キョウカノコ>と<シモツケ>の花を届けたのであった。
 あわせて、昨日、近所からもらったグリンピースのおすそ分けと。
 さらに、大いに迷った挙句、今朝炊いた<豆ご飯>を、お結びにして二つ。

 スーザンさんの家に近づくと、彼女は飛び出してきて、歓迎された。挨拶用語は、日本語で話し合うからいいとして、後の接ぎ穂がうまくゆくかどうか、やはり心配だった。
 なんという幸いだったろう!
 いつも日本語会話の勉強に付き合ってくださっている、草花舎のTちゃんが、来訪中だったのだ。Yさんの弟さんと一緒に。昨夕、求められたテレビの設置中だった。

 早速、スーザンさんは、住まいを案内してくださった。
 ここはオフィス、ここは応接間、ここは居間と…。ベッドルームからキッチンまで、5部屋全てを案内してもらった。
 全体の印象は白のイメージ。空間が広々としていて、ゆとりが感じられた。白という色がかもし出す雰囲気なのだろうか。
 私の部屋のように、ごみごみしていない。
 小さな山の木々や竹やぶだけが見える窓、まだ整備は不十分なお庭の見える窓、屋並の見える窓と、変化に富んでいる。スーザンさんが気に入っておられるわけを十分理解できた。
 カラスが飛び、雀が来る。そんな鳥たちとの会話も楽しんでおられるふうだ。
 私がカラスは苦手だと話すと、スーザンさんは京都で道に迷ったとき、カラスが道案内をしてくれたと、その利口ぶりが気に入っている様子であった。
 知り合いからもらったものだと、一羽の雀を描いた絵を見せてくださった。雀も好きな鳥らしい。
 ゴマ入り煎餅と紅茶をいただきながら、キッチンのテーブルで話す。
 早速、学習ノートを開いて、<キョウカノコ>や<シモツケ>の名をメモしておられた。

 グリンピースや豆ご飯は、あらかじめTちゃんに、スーザンさんのお口に合うだろうかと、尋ねてから渡した。
 ご飯はお好きなのだと、電気釜も置いてあった。
 私は、料理が下手なので、豆ご飯は美味しくないかもしれない、と断っておいた。

 実は昨夕、隣家から沢山のエンドウ豆をいただいた。莢のついたまま。
 昨晩はテレビを見ながら、小一時間をかけて、莢を取った。案外手間のかかるもので、手際よく莢から実を出せるようになった時には、残りわずかとなっていた。
 豆の量の多さを眺めながら、新鮮なうちに食べきれるだろうかと、案じた。
 そこで、スーザンさんにすそ分けし、Tちゃんにももらっていただくことにした。
 
 十二時のサイレンを聞いて、辞去した。
 スーザンさんは再度の来訪を促し、散歩も一緒にしましょうと、玄関に佇み、私が道の角に姿を消すまで、手を振っておられた。
 心奥に、芸術家としての個性と独創生を秘めながら、一方、気取りのない、人懐こいアーティストである。


 (添付写真は、五月初旬に撮ったエンドウの花。) 

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5月の庭 (色づき始めたグミ)

2008-05-31 | 草花舎の四季

 グミの熟す季節が始まろうとしている。
 草花舎の庭にあるグミの木は、まだ緑色の実が多かった。が、少しずつ赤みを帯び始めている。(写真 30日)

 30日は、スーザンさんと日本語会話の勉強をした。
 時間の始めしばらくは、文学と舞台芸術、その表現世界の微妙な違いなどについて、語り合った。勿論、Tちゃんの橋渡しを介して。

 草花舎の窓から、トンボが舞い込むと、それを機に、昆虫の話になった。
 蛍が飛び始めたという話から、またしばらくは蛍の話。
 家の周囲にいるヤモリやクモの話にも発展する。
 蜘蛛と雲は同音語であるとか……。

 私は、電子辞書で、話の合間に、英単語を調べてみる。
 (私自身、これを機会に、英会話は無理でも、単語くらいは思い出したり、新たに覚えたりしたいという気持ちは持っている。私の余生にとって、何の役にも立たないことと分っていながら。考えて見ると、日々営んでいる諸行の大方は、私の場合、それほど有意義なことをしているわけでもない。)

 その時調べた単語を思い出しながら、dragonfly firefly と表記してみる。飛ぶ虫は<fly>を伴うことに気づき、他に何かないかと考える。
 butterfly を思い出した。
 しばらく空(くう)をみつめ、その他に何があるかを考えて見たが、そもそも飛ぶ昆虫が思い出せない。
 広辞苑の逆引き辞典のように、<fly>から引ける辞書があるといいのだが。(私が知らないだけで、ありそうな気がする。)
 今、ハエは<fly>、アブが、<horsefly>と分った。
 語源として、なぜトンボが<dragon>、アブが<horse>を伴うのか、疑問は残るけれど、単語を覚える方法としては、大変便利である。特に、蛍の<fire>、蝶の<butter>などは、納得がいく。
 日本語についても、そうした関連性を考えながら、スーザンさんの理解を助けたいと思いながら、そう簡単にはいかない。アルファベットと、漢字仮名表記との違いも、大いに関係しているように思う。(特に会話中心の学習は、音だけを頼りにするので、より難しいのだろう。)

 ヤモリは<geckou>、クモの<spider>は知っていた。(spinner が、spiderの原義というのは改めて知った。)

 スーザンさんの生まれ故郷は、アメリカミネソタ州のミネアポリスなのだそうだ。21歳のときに故里を後にして、帰郷していないとのことだ。(近く同窓会があるので、一度帰郷してみようかという気になっておられる様子。)
 スーザンさんにとっては、フランスが心の故郷、そして、日本の、ここ僻邑の地が、第二の心の故里になろうとしているのかもしれない。
 私は帰宅後、世界地図を広げ、スーザンさんの生まれ故郷に思いを馳せた。ミネアポリスはミシシッピ川の西岸にある。そして、東岸にはセントポール。
 緯度を尋ねたところ、北海道より北に当たると思う、とのことだった。地図で見ると、宗谷岬とほぼ同位置のようだ。
 季節は秋が好きとのこと、これは私と同じであるが、その理由は必ずしも同じではなさそうであった。Tちゃんの好きな季節は、もの皆活気に満ちて命漲る春なのだそうだ。

 明日、庭の花を届けることを約束して、Tちゃんと一緒に買い物に行かれる
スーザンさんとは、草花舎の前庭で別れた。


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5月の庭 (タニウツギとプリペット)

2008-05-30 | 草花舎の四季
 草花舎のアケビは、花をつけたのだろうかと、裏庭に廻ってみた。
 昨年、数個の実を見つけた木は、すでに葉を茂らせていたが、花はなかった。
 広辞苑によると、花は四月ごろとあるから、咲いたとしても、とっくに花期は過ぎてしまったのだろう。やがて実となるらしい気配のものも、見当たらなかった。
 秋に、果たして淡紫色の果実をつけるかどうか?

 花の時期に、アケビの木の下にゆかなかったことを残念に思いながら、中庭に引き返すと、タニウツギが咲いていた。単色ではないので、花に華やぎがある。(写真)
 昨年見たかどうか?
 左端下の白い花をつけている木は、プリペット。こちらの木は、庭のいたるところで、今、蕾や花をつけている。生垣用としても、重宝される木らしい。
 その名は、昨年もYさんに尋ねたらしい。
 見たもの、見た場所、さらにその名をも、あっさりと忘れるらしい。本当に頼りない頭脳である。
 草花舎の植物地図でも作っておく必要がありそうだ。

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草花舎 (今日のサラダ)

2008-05-30 | 草花舎の四季
 今日の午後は、スーザンさんと日本語会話を勉強することになっていたので、お昼は草花舎でいただいた。
 「サラダに、ナスタチウムを添えてみました」
 と、運ばれたお食事。(写真 サラダのお皿)

 サラダ皿の上に乗っているのが、ナスタチウム(金蓮花)という花。
 濃い朱色の美しい花。
 初めて口にする花。
 味わいつつ食べてみると、ぴりっとした辛味があったが、ほとんど気にはならない程度であった。この植物は、花も葉も実も食用になるのだと、初めて知った。

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笑う能力 (シモツケ)

2008-05-30 | 身辺雑記

 昨夜は、夜更けに何を待っていたのだろう?
 深夜に、おとなう何もなく……。

 夜が更けるまで詩集を読んだ。幾度めかの読み返し。
 茨木のり子の『倚りかからず』と『歳月』と。

 『倚りかからず』のなかに、「笑う能力」という詩がある。
 それを私は、深夜、わらわら笑って読んだ。
 なんだか笑えることをが嬉しくなりながら。
 いかなるときにも、笑えるというのは幸せなことだろう。

 <「先生お元気ですか
   我が家の姉もそろそろ色づいてまいりました」
   他家の姉が色づいたとて知ったことか
   手紙を受けとった教授は
   柿の書き間違いと気づくまで何秒くらいかかったか

   「次の会にはぜひお越し下さい
   枯れ木も山の賑わいですから」
   おっとっと それは老人の謙遜語で
   若者が年上のひとを誘う言葉ではない>

 以上は最初の二連。 これだけでも十分おかしい。
 私が、わらわら笑いながら、読み進んでいると、
 五連めには、

  <言葉の脱臼 骨折 捻挫のさま
   いとをかしくて
   深夜 ひとり声たてて笑えば
   われなが鬼気迫るものあり
   ひんやりとするのだが そんな時
   もう一人の私が耳もとで囁く
   「よろしい
   お前にはまだ笑う能力が残っている
   乏しい能力のひとつとして
   いまわのきわまで保つように」
   はィ 出来ますれば>

 とある。この後、さらに二連が続いて、詩は終わる。
 <いまわのきわまで>、私にも笑う能力が残れば幸い。
 深夜の同時同刻に、茨木のり子の、この詩を読んで、笑った人があるのかないのか、ふとそんなことを思いながら、枕もとの灯りを消した。

 (添付写真 昨日ケイタイで撮ったシモツケ。)


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カメラ付き携帯 (キョウカノコ)

2008-05-30 | 身辺雑記
 昨日の午前中、銀行マンの訪問を受け、雑用処理の後、パソコンやデジカメ、カメラ付き携帯など、身辺にある器械の扱いについての話になった。
 
 私が、携帯電話を買い換えてから三月になるけれど、カメラ機能の生かし方が分らないと告げると、機種が違うから自分に分かるかどうかと言いつつ、私のケイタイを操作し、結局、撮影画像のサイズ変更の仕方と、メモリーカードに記録する方法、アダプターを使ってパソコンへ取り込む方法などを教しえてもらうことになった。
 魔法の手にかかったかのように、ことが簡単に運ぶから不思議だ。要は器械の扱いに慣れておられるので、応用が利くのであろう。
 いつかケイタイを購入したドコモのお店に出かけ、扱いについて、教えを請うつもりだったが、その必要がなくなった。
 
 話を聞いているときには分ったつもりで、いざ操作しようとすると、何がなんだか分らなくなる。パソコン教室に通い始めた頃もひどいものだった。
 私の年齢で、挑戦しようとするその姿勢が立派、などと人は言ってくれるけれど、道理の分っている人から見れば、なんと飲み込みの悪い人だろうということになるだろう。が、そんな虚栄を捨てて生きられるようになったのも、これまた年のせいだろうと思う。知らないことを知らないと言え、教えを請うことを恥じなくなった。
 忘れないうちにと、画像のサイズを待受画面用、普通写真用などに変更して、庭の花をカメラに収めたりした。メモリーカードに移したり、パソコンに取り込んだり……。
 こう書けば、即座にできたと思われそうだが、何度も<?>と頭を傾げ、思うようにいかなくて悩み、かなり疲れた。
 画面をよく見て、操作手順を間違えなければ、きちんとできるようにはなっている!
 花壇のキョウカノコが咲き始めたので、ケイタイカメラで撮ってみた。(写真)

 昨日は、ケイタイで悩まされることがもう一つあった。
 夕方、兄からアドレス変更の知らせが入った。あまりに迷惑メールが多いので、アドレスを変更したと。
 それをケイタイグループに収めようとして、思いの外時間がかかった。
 先月、兄嫁と姪のアドレスを入れたときにはうまくいったのに、とこれもまた不思議であった。頭の思考回路のどこかがおかしくなっているのではあるまいか。

 昨日は、ケイタイ操作で頭が疲れたので、午後、遅くなって街に出てきた。
 そのバスの中で、<あれは、角島!>と、先日友達と万葉公園を歩きながら思い出せなかった島の名前が、突如、頭の引き出しから出現したのだった。

 「あの大橋に行った?」
 と、いきなり友達が尋ねた。
 「どこの?」
 「山口県の…、ほら、島をつなぐ橋…」
 「ああ、あの橋ね、行ったけど…」
 二人は話題の橋を脳裏に描きながら、名前は出てこなかったのだ。
 それが、8日を経て、突如蘇るとは…。しかも、思い出そうとしていたわけでもないのに…。が、意識の底の方に、<あれはなんと言ったけ?>という思いが、疑問符つきで、残っていたということなのだろうか。
 <角島大橋!>
 友達は、その後、思い出せただろうか?

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5月の庭 (ピンクの蔓バラ)

2008-05-27 | 草花舎の四季

 昨日、草花舎の中庭を歩いていると、ピンクの蔓バラが、小径をふさいでいた。(写真)
 昨年も、同じ位置にあったのかどうか?

 スーザンさんとの日本語会話の勉強は、昨日が3回目。
 私たちは何気なく使っている日本語だが、尊敬語・謙譲語・丁寧語の存在が、言い回しを複雑に変えていて、初めて会話を学ぼうとする外国の方には、さぞ理解しがたいことだろうと思った。
 文法は抜きにして、音を頼りに覚えこむのは、並大抵のことではないように思える。

 あなたは どこに おすまいですか?
 わたしは ○○に すんでいます。

 <住む>=<l i v e>と分っていても、そして、例文を英語で置き換えた言い方がプリントしてあっても、やはり日本語の言い方や発音をマスターするのは容易なことでないような気がする。
 しかし、スーザンさんは熱心である。
 しかも、会話の練習を、会話としてだけでなく、その言葉の奥に潜む、日本の文化、日本の国民性など、目に見えにくい世界も探ろうとされるので、学習は単純にはいかない。歴史を聞かれたりすると、はたと考え込んだりしなくてはならない。スーザンさんは、優れたアーティストとして、会話を通して、もっと深く日本を知ろうとされているようだ。

 前回の勉強で、<通じ合う>という言葉の響きや言葉の意義に感動されたスーザンさんは、<通じ合う>世界を書いた詩はないかと尋ねられた。が、即座には思い出せず、また考えてみると、曖昧にしておいた。
 すると昨日、早速、詩は見つかったかと尋ねられた。
 私は、その課題を頭の片隅においてはいたが、適当なものを思い出せないまま、真剣に探そうともしていなかった。一方、たとえ見つけたとしても、その日本語の詩をスーザンさんに分っていただくのは至難の技だろうとも、思っていた……。

 どんなふうに、スーザンさんに解答するかは、私にとっての課題である。
 そもそも文学は、<通じ合う>世界よりも、<通じ合えない>世界の方を、よりテーマとして扱ってきたのではあるまいか? 
 向日性より背日性を、幸せよりは不幸を、喜びより悲しみを、プラスよりはマイナスを、etc。後者の面から、あるべき姿や生き方を問う場合の方が多いのではないか?
 文学の一面についての、そんな思念をめぐらせながら、昨夜は枕元に幾冊もの詩集を積み上げて、天井を眺めていたのだった。


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5月の庭 (ジギタリスの花が咲いて)

2008-05-27 | 草花舎の四季

 草花舎の庭に、場所をたがえて、色の異なる三種類のジギタリスの花が咲いていた。(写真は、その中で一番目立っていた花)

 一度では花の名前が覚えられず、再び季節が巡り来るころには、その名をすっかり忘れていて、思い出せない名前が実に多い。それなのに、なぜだかジギタリスは覚えていた。
 一直線に立ち上る茎に、釣鐘型の花が密集して、ややうつむき加減に咲く特色が、よほど印象に残っていたのだろう。
 <きつねのてぶくろ>という別称も、愛らしい。
 なぜキツネなのかは分らないけれど。

 イヌ・ネコ・キツネなどの動物は、植物の名によく冠せられるようだ。

  イヌノフグリ・イヌガシラ・イヌナズナ・イヌエンジュ・イヌニンドウ・イヌガヤ・
  イヌグス・イヌザンショウ・イヌシデ・イヌツゲ・イヌビワ・イヌマキ・イヌムラダ
  チ…

  ネコジャラシ・ネコノシタ・ネコノメソウ…
  キツネアザミ・キツネササゲ・キツネノカミソリ・キツネノヒマゴ・キツネノボ
  タン・キツネノマゴ・キツネノチャブロク…

 そういえば、ネズミも出てくる。
  ネズミサシ・ネズミモチなど。


 今日は、あまり晴れやかな気分になれない一日だった。
 昨夜、近所に不幸があった。
 公の葬儀は、故人の意思で行われないという。ごく近所なので、朝、お別れに行ってきた。90歳の、心臓発作による死とのことであった。
 長い間、孫、曾孫の世話をよくされ、痩躯ながら元気そうな方だったのだが。

 数日前、胃ガンの手術で一か月入院、元気になって退院されたばかり、との話を聞いた。そのことを話してくれた人も、入院の事実を知られなかったようだ。
 近所のことでも、知らないことが多い。
 入院の件も全く知らなかったし、昨夜、救急車や警察の車が出入りしたことにも全く気づかなかった。
 お家を訪ねる用もなく、何かの折に、戸外でお会いすることもなかった。考えてみると、その老女に限らず、日頃、近所の人に会って、言葉を交わすことが非常に少ない。都会並みに、近所付き合いが希薄になっている。

 永遠の眠りにつかれた、老女のお顔は安らかであった。心臓の発作は、瞬間的に、苦しみがあるものかどうかは知らないけれど。
 四世代の大家族なのだが、仕事で外出中のため、その死に気づかれたのは、数時間が経ってからだったようだ。

 老女の死に対面した今日は、どうしても自分自身の老い先を考えてしまう日となった。死の時も死の病も、選択は不可能と分かりながら、長く患うことなく、火種が自然消滅するように、安らかに永遠の眠りにつきたいとつくづく思う。そして、葬式などはいらない。誰かのお世話にはなるだろうけれど、ひっそりと風の如く空のかなたへ消え去りたい、そんな心境である。

 前々から、老女の住まいの玄関先には、老女のかわいがっておられる鸚鵡が一羽、飼われていた。今朝も、その死に多分気づかないであろう鸚鵡は、「おばあちゃん、おばあちゃん」と呼んでいた。哀れであった。
 鸚鵡という、言葉を真似ることのできる、この利口な鳥は、餌をくれる人の交代について、どんな受け止め方をするのだろう?
 

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5月の庭 (シナモンの木の葉)

2008-05-27 | 草花舎の四季
 昨日、草花舎の庭に、艶やかな赤茶色の、新芽の綺麗な木があるのに気づいた。
 その名を尋ねると、<シナモン、ニッケイの木>とのことだった。(写真)

 五月の陽光に照り輝く葉は美しいけれど、格別珍しい木ではなそうに思えた。それもそのはず、シナモン(ニッケイ)は、クスノキ科のクスノキ属とのことだ。どこかで見かけたような感じがするのは当然である。

 花が咲き、実もなるという。
 この小木にも、いずれ、淡い黄緑色の小さな花のつく日が訪れるのだろう。

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写真家・マリオ・ジャコメッリと作家・辺見庸

2008-05-25 | 身辺雑記
 朝から感動のスタートであった。
 NHKの<新日曜美術館>で、初めてマリオ・ジャコメッリという写真家の作品に出会った。(すでに写真展は終わってしまった様子である。)

 作家の辺見庸氏が作品を語る、という形式のもであった。(アナウンサーや檀ふみさんの存在はなく。)
 
 ジャコメッリとは初めての出会いである。今まで、日本で紹介されることはなく、特別な人を除いては、その存在を知らなかったのだろう。したがって、<知られざる鬼才>として、今日は紹介されたのであった。
 一瞬、写真? と戸惑いを覚える作品もあった。ありきたりの写実を超えた世界がそこにはあった。しかし、仮に、私がひとり、展覧会の会場で、ジャコメッリの作品に接したとしたら、感動は、もっと希薄なものであったかもしれない。
 
 ジャコメッリの作品と私の間に、今日は、辺見庸という私の好きな作家が介在していた。私は紹介される写真をジャコメッリと辺見庸との二重映像のように、眺めていたのかもしれない。辺見庸氏の心眼を通して、ジャコメッリが語られるとき、私は辺見庸氏の語りというフィルターを外して、ジャコメッリに接することはできなかった。
 が、それを不満には思ってはいない。むしろありがたいことだと思っている。
 辺見氏は生死の間をさまよう大病の体験者でもあり、類稀な思索的作家である。その彼が、ジャコメッリについて語られるのを聞きながら、辺見庸を超える理解者はいないのではないかとも思った。

 ジャコメッリの写真は、すべてモノクロームの世界である。辺見氏の言葉にもあったが、確かにカラーは見る側の想像を拒むけれども、白黒の世界というのは、見る者に想像の余地を与えてくれる。
 ホスピスの老人たちを撮り続けた、強烈な印象の作品について、人はとかく見る側の特権意識でものを見がちであるが、ジャコメッリは見られる側の内面をもその作品に残している、と鋭い見解を辺見氏は語っておられた。
 辺見氏はまた、ジャコメッリの作品には、<識閾>(注 識閾とは、《ある意識作用の生起と消失との境界。》と広辞苑は説明している)の映像が多いとも述べておられた。
 ジャコメッリは、カメラアイを通して、他者を写し取りながら、自らの内面世界をも、彼独特の手法で表現した写真家のようである。

 辺見氏は、幾年も前、旅先で見たジャコメッリの作品が、心の深奥に刺青のように染み付いている、と語っておられたが、私自身は、画面に映し出される写真から、そんな衝撃的な出会いを体験することはできなかった。
 写真集が入手できれば、私自身の目で向き合って見たい気がする。
 今日は、辺見庸氏の目を通して、ジャコメッリの作品の前を通り過ぎたに過ぎない気がしている。しかし、不思議な感動をもって。

 (注: マリオ・ジャコメッリ(1925~2000)は、イタリアの小さな地方都市で一生を送ったアマチュアカメラマン。世界的には高い評価を受けている写真家。)

 (添付写真 先日、畑で見かけた馬鈴薯の花。)
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