ぶらぶら人生

心の呟き

吉野秀雄の歌

2006-06-13 | 身辺雑記

 岡井隆編「集成・昭和の短歌小学館)
 吉野秀雄(1902~1967)<島田修二選>より

古畳を蚤のはねとぶ病室に汝(な)がたまの緒は細りゆくなり
病む妻の足頸にぎり昼寝する末の子をみれば死なしめがたし
額冷やすタオルの端に汝がなみだふきやりてはたわが涙拭く
歩みゐて流るる涙のごはねば道辺人(みちのべびと)はいぶかしみ佇つ
この秋の寒蝉(かんせん)のこゑの乏しさをなれはいひ出づ何思ふらめ
遮蔽灯の暗き灯かげにたまきはる命尽きむとする妻と在り
をさな児の兄は弟(おとと)をはげまして臨終(いまは)の母の脛さすりつつ
母の前を我はかまはず縡切(ことき)れし汝(なれ)の口びるに永く接吻(くちづ)く
亡骸にとりつきて叫ぶをさならよ母を死なしめて申訳なし
母死にて四日泣きゐしをさならが今朝登校す一人また一人
生きのこるわれをいとしみわが髪を撫でて最期(いまは)の息に耐へにき
真命(まいのち)の極みに堪へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ
一むらの絮毛(わたげ)のすすき冬岡のひかりを吸ひてほしいままなる
亡き妻が残しし炭をけふの雪にやや贅沢につぎつつぞ想ふ
仏妻口のきけぬをうつたふる世にも悲しき夢見つるかも
西塔のいしずゑに佇つわが外に人なき庭を鶺鴒歩(あり)く
古寺をしぐれにぬれてもとほればここに在る身のいのちさびしき
こときれし母がみ手とり懐に温めまゐらす子なればわれは
                            (昭和22年刊「寒蝉集」より)
原稿が百一枚となる途端我は麦酒を喇叭飲みにす
白のシャツ清き駅員二人立ち山の気涼し小涌谷の駅
耳鳴りと頭鳴(づな)り喘音に摩擦音あなさわがしきわれのうつせ身
病むわれを見に来し友は今朝の富士の裾まで雪にかがやくを言ふ
とりとめて何見む慾もあらなくに時に枕辺に眼鏡まさぐる
厠への三十歩往復の六十歩杖にすがりてわが喘ぐ道
二十周忌の妻の位牌に物いひつ末の娘(こ)がをととひ初子(うひご)産みしこと
新千円札臥処(ふしど)にとどき選挙連呼も枕に聞きつ時移るらし
死を厭ひ生をも懼れ人間の揺れさだまらぬ心知るのみ
電話ありて孫の来む日は待ちに待ち突然来ればいやましうれし
手のとどくめぐりに物の殖えゆけば物に埋れつ常臥(とこふ)しの身は
彼の世より呼び立つるにやこの世にて引き留むるにや熊蝉の声
わが庭に今咲く芙蓉紅蜀葵(こうしょくき)眼にとめて世を去らむとす
一生はただ刻刻の移りなり刻刻をこそ老いて知りつれ
今ははや生も死もなし苦しめる物体一箇宙に釣り下がる
青葉木菟夜更けになくを冥々の彼土(ひと)の声として聞くはわれのみか
                            (昭和42年刊「含紅集」より)

 たとえ有名な歌人であっても、日ごろの読書の中で、一首の歌にさえ眼に触れる機会に恵まれない場合は珍しくない。歌詠みを自らの仕事や楽しみとしている人以外は、大体そんなものだろう。
 ところが、この作者、吉野秀雄については、かつて歌集「寒蝉集」と、題名は忘れたが、エッセイ集を読む機会があり、感動したことを記憶している。
 一度読んだら、歌や文を通して知った作者の、歌われた世界、語られた世界を忘れがたいタイプの歌人だと思う。
 病床にある最愛の妻、病む母を慕う幼児たちの姿、それを見守る作者自身の心、姿そのもが、読むものに迫りくるように歌われている。いずれも名歌だと思う。
 別の書によれば、妻はつ子は、昭和十九年、作者四十二歳の夏に、胃病でその生涯を閉じた、と書かれている。壮年での死別である。家庭的には決して幸福とは言えない人だった。が、その不幸を昇華し、歌の一つ一つは、人の心を打つ格調の高い歌となっている。妻への挽歌も、人生歌も、自らの病苦を歌った歌も、自然詠も、すべていい歌だと思う。
 <真命の極みに堪へて……>の歌など、誰にでも詠めるものではない。比類のない歌境を歌い上げていると思う。

コメント
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