ぶらぶら人生

心の呟き

五月ゆく

2018-05-31 | 身辺雑記
5月31日

私の5月が終わった!
ジューンベリーの5月も終わった。

愛らしい赤い実は、
ヒヨドリの餌となり、
熟すのを待たず、
大方なくなってしまった。


昨日の木には、まだ赤い実がかなりあったのだが………。


今日のありさま。
柄のみ残りて。
無念至極!
食べたいとは思わないが
熟すまで眺めていたかった。
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5月下旬の花

2018-05-30 | 小庭の四季
5月30日

この季節には、
この時期の花が咲く。


未央柳
長い蕊が美しい。


ガクアジサイ
わずかに色づいて。


紫陽花
日々、色は移ろい……。


サツキ
気まぐれに咲いた花。


ドクダミ
コンクリートの囲みの中に。


シロヤマブキの実
四つ並んだ実は
少しずつ彩りを深める。
今日は今日の色。
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エアプランツ

2018-05-29 | 身辺雑記
5月29日

エアプランツ



うまく育つかしら?
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ささやかな感動

2018-05-29 | 小庭の四季
5月29日

河口の部屋から帰り、
庭を一巡りする。

と、思いがけない発見!
野生えしたクロガネモチ
花をたくさんつけているのだ。






もともと、どこからか種が飛んできて
次第に大きく育った木なので、
関心もなく、見過ごしていた。
が、一昨年であったか、
秋、赤い実が数個なっているのに気づき、
急に関心を高めた。
実がなるということは、
花が咲くはずであると。
庭師のOさんに、木の名を尋ねたところ、
『クロガネモチ』だと教えてくださった。

しかし、昨年は、花も実も、目にしなかった。
年々、7月の剪定の際、
丈も枝も短く剪ってしまわれるので、
花に恵まれないのだろうか、と思っていた。

今年も、木は枝を大きく広げて
存在感を示している。
狭い裏庭で。



遠目に眺める限り、
花は木の葉の色に負けて、
目立たない。

が、近づくと無数に小さな花が咲いている。
単純だが、幸せ気分!
花が咲いたということは、
赤い実がなるということ。
秋が楽しみである。

クロガネモチは、
その名に、<金持ち>の意を含み、
縁起がいいのだとか。
年金暮らしは金持ちには縁がない。
が、花や実を眺められるだけで
心が金持ちになった気分である。
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夕べの空

2018-05-28 | 身辺雑記
5月28日

夕食膳が部屋に運ばれ、
さて、夕食と思ったときに、
網戸から、飛行機音が届いた。

(窓を閉めていると、
無音の世界となる。
窓が防音壁となって。
網戸に変えると、
自然の音が届く。
ツバメやウグイスの声、
風の音も、飛行機の轟音も。)

慌てて、ベランダに出る。
虹を見るように
機影を見る。
虹もそうだが、
機影も長くはとどまってくれない。



夕食後、山の端に遊ぶ雲を眺める。



海辺の方向には青空が残っていて。



7時10分の落日。
雲の中に消える。



14夜のお月さまは眺められなかった。
雲の量が増えている。
北九州と山口には、梅雨入りが発表された。


××××××××××××××××


川崎洋の詩
今日読んだ詩の中で、紹介したくなった二篇。(「サッカー」と「ほほえみ」)

サッカー

アカンベエをしてみると
まぶたの裏がまっ白な歳
若者ーーという呼び方に
まず反発する歳

論理は
なにより
反発するキック力に
大きく支えられている歳

怒った顔が美しい歳

これからどこへでも行ける歳
もしかしたら
太陽系の外へさえも


ほほえみ

ビールには枝豆
カレーライスには福神漬け
夕焼けには赤とんぼ
花には嵐
サンマには青い蜜柑の酸
アダムにはいちじくの葉
青空には白鳥
ライオンには縞馬
富士山には月見草
塀には落書
やくざには唐獅子牡丹
花見にはけんか
雪にはカラス
五寸釘には藁人形

ほほえみ には ほほえみ



サッカー少年(青年)の若さの中に潜む特色が、詩人川崎洋さんらしい視点でとらえられている。
私のすでに失った世界。戻れない世界。

「ほほえみ」詩では、対になるものが、次々に系列なしに並べられ、なんだか頬を緩ませて様々なイメージを楽しんで読んでいると、最後は、<ほほえみ には ほほえみ>と結ばれる。私の頬の緩みに変化が生ずる。
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「老害」と老いの生き方

2018-05-28 | 身辺雑記

「老害」という言葉が、ときおり心の中をぐるぐる巡るようになった。
昨年あたりからであっただろうか?
私自身の存在の問題として、考えるようになったのだ。

広くは社会生活において、あるいは小グループの中において。
居心地の悪さ、それは私が老いていることに起因するのではなかろうか? と。

多かれ少なかれ、老人の大方が、老人外の人にっとって老害的存在であるのかどうか?
過剰な意識なのかもしれないが、私は最近、卑屈になりがちである。

そもそも「老害」という言葉を使い始めた人は誰なのだろう?
どういう意図で使い始めたのか?
老人の立場からは、やや差別的な意図で言われているように感じてしまうのだが……。
『広辞苑』(第七版・2018年刊)には、次のように出ている。

【老害】(「老人による害」の意)硬直した考え方の高齢者が影響力を持ち続け、組織の活力が失われること。

なお、『広辞苑』(第六版・2008年刊)にも出ている。
少なくとも、2008年には使われていたことになる。
書棚にある辞典を取り出して調べてみた。

その他、古い順に、
『日本国語大辞典』(全20巻)1976年刊
『言泉』1986年刊
『大辞林』1988年刊
『日本語大辞典』1989年刊
『大辞泉』1995年刊
『現代用語の基礎知識』2013年刊

以上の中で、「老害」を載せているのは、『言泉』だけであった。
次のように、語意を説明している。

【企業や政治の中心にある人たちの高齢化を批判し、若返りの必要性をこめていう語。】

元来の使われ方、発想の根源は、1986に刊行されている『言泉』に書かれた意味だったのだろう。
それが、『広辞苑』では、少しぼかしてある。「硬直した考え方の高齢者」といった具合に。

『言泉』と『広辞苑』の間に刊行された他の辞典に、「老害」が出ていないのは、意図的に省かれたのか、それほど一般的ではなかったのか、どちらなのだろう?

各企業にどんな重鎮がおられ、どんな老害を撒き散らしておられるのかよく知らない。
が、政治家の場合は、テレビで言動を耳にすることが多く、考え方、思考のプロセスに疑問を感じたりすることは多々ある。
「云々」を「てんてん」、「踏襲」を「ふしゅう」、「未曾有」を「みぞうゆう」と読んだりするのは、老いとは無関係の問題かもしれないけれど、老女もちょっと恥ずかしくなる。
「老害」という言葉が生まれるのも致し方ないかとも思う。

 私自身が老害的存在であろうと自省し、ひっそりと過ごすのが一番! と、考えたりする。
疎外感を覚えるなら、そういう場所へ行かなければよい。
 仙人のように暮らすことができればいいが、そうもゆかず、家の中、河口の部屋の中でひっそり生きるか、旅に出てまるで他人の人混みの中をうろつくか、野道を歩いたり、公園に佇んだりして、自然の声を聞いたり、草花と花をしたり………、そんな生活が、「老害」を撒き散らさずに生きられる道かと考えてみる。
 それも自立できる間のことであるけれど。

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曇り日散歩

2018-05-28 | 散歩道
5月27日

施設内の花









今日の海

大小二隻の浚渫船




高島と静かな海


魚待灯台のある岬


磯釣りの人


高津川と岸辺の花


道中の花々

ハマヒルガオ


コスモス(早くも…)


オオキンケイギク

トベラの蕾



×××××××××××××××××


脳の活性化を念じて、音読を始める。
起立して2ページを読んだところ、息苦しくなった。
音読は脳の衰えを防ぐ効果は大であろう。が、一方、体力を要することが分かった。
昔は、声を使う仕事をしていたが、今は発声に要する体力がない。
毎日、音読を続けることで、息苦しさが多少は改善するだろうか?

日々、自らの老いとの付き合い方を工夫しながら生きている。
今日は6時に起床し、ラジオ体操、数独2問を解答、音読を済ませた後、朝食。
初めて、朝食中に眠くなる。
赤ちゃんみたいだな、と思う。
今日、新たに追加したのは音読だけ。
それが過労となるとは!
情けない話だが、これが85歳の実態である。

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読み・書き・計算

2018-05-27 | 身辺雑記
5月27日

2006年の教育テレビ<知るを楽しむ>
川島隆太『脳を鍛える』




気力の乏しい今日は、
上記の本を読み直し、
衰えるばかりの脳の
活性化について考える。

読み(音読)・書き・計算の勧め。

早速、一日の暮らしの中に取り入れようと思う。

河口の部屋での生活は、
「数独」2問を解くことから
一日をスタートとしている。
が、まず簡単な計算から始めれば、
「数独」解答の時間短縮につながるのかもしれない。

川島隆太さんの意見を信じて、
音読にも努めてみよう。
そのために、斎藤孝著『声に出して読みたい日本語』の
第一巻を持参しているのだから。
短時間でも、活字を音読することで、
脳の機能が活性化できるのならありがたい。

書くことについては、最近サボり気味の
『天声人語』写しを暮らしの中に取り入れよう。
(河口の暮らしの中に、
自由な時間がたっぷりあるので。)

読み・書き・計算が
三度の食事のように、
習慣化できれば、
頼りなくなりつつある脳の衰えを
多少は、くい止めることになるかもしれない。

※※※※※※※※※※※※

今朝、5時20分に目覚めた。
カーテンの隙間から
明るい日差しが届いている。

平家山の右肩から昇っていた朝陽が
気づけば、左肩に移動している。
私の部屋に、まともに差し込むようになった。
(朝陽を眺めたあと、
6時まではベッドで過ごす。)




同時刻の雲



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廊下から見た落日

2018-05-26 | 身辺雑記
5月26日

窓越しの落日

夕食、入浴を済ませ、
真正面に沈む夕日を眺めた。

廊下に人気がないので、
夜着のまま、そっと窓辺に近づいて、
今日のお日さまに別れをする。

海上に光の帯ができていて、
それを辿れば、
お日さまに近づいて行けそうであった。






烏の群れが、夕焼けの空をよぎったが、
カメラの構えが追いつかなかった。
(写真は、その気配)


海上の光りの道は消え、
お日さまは、海上の雲に……。(19時20分)
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川崎洋の詩「喜び」

2018-05-26 | 身辺雑記
今回持参した本の一冊



『現代詩人8 川崎洋』
パッと開いて出会った詩「喜び」。


一生に一度くらいは
ありきたりのそれと違う
脳天を突き抜けるような
超弩級の喜びが
ありますように

一人一人
誰にでも皆に

悲しみは
願わずとも
数え切れぬほどですから



確かにそうだな、と一瞬思った。
が、老女の私には、<超弩級の喜び>などなくてもいい。
ほんとうにささやかな喜びでいい。
出会った人の優しい微笑み、さりげない思いやりのこもったことば、草花のささやき、そして空に浮かぶ雲、お日さまやお月さまや星、私に静かに語りかけてくれるものがあれば、それが喜び。

今夕も、白いお月さまに会った。






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