私の5月が終わった!
ジューンベリーの5月も終わった。
愛らしい赤い実は、
ヒヨドリの餌となり、
熟すのを待たず、
大方なくなってしまった。
昨日の木には、まだ赤い実がかなりあったのだが………。
今日のありさま。
柄のみ残りて。
無念至極!
食べたいとは思わないが
熟すまで眺めていたかった。
「老害」という言葉が、ときおり心の中をぐるぐる巡るようになった。
昨年あたりからであっただろうか?
私自身の存在の問題として、考えるようになったのだ。
広くは社会生活において、あるいは小グループの中において。
居心地の悪さ、それは私が老いていることに起因するのではなかろうか? と。
多かれ少なかれ、老人の大方が、老人外の人にっとって老害的存在であるのかどうか?
過剰な意識なのかもしれないが、私は最近、卑屈になりがちである。
そもそも「老害」という言葉を使い始めた人は誰なのだろう?
どういう意図で使い始めたのか?
老人の立場からは、やや差別的な意図で言われているように感じてしまうのだが……。
『広辞苑』(第七版・2018年刊)には、次のように出ている。
【老害】(「老人による害」の意)硬直した考え方の高齢者が影響力を持ち続け、組織の活力が失われること。
なお、『広辞苑』(第六版・2008年刊)にも出ている。
少なくとも、2008年には使われていたことになる。
書棚にある辞典を取り出して調べてみた。
その他、古い順に、
『日本国語大辞典』(全20巻)1976年刊
『言泉』1986年刊
『大辞林』1988年刊
『日本語大辞典』1989年刊
『大辞泉』1995年刊
『現代用語の基礎知識』2013年刊
以上の中で、「老害」を載せているのは、『言泉』だけであった。
次のように、語意を説明している。
【企業や政治の中心にある人たちの高齢化を批判し、若返りの必要性をこめていう語。】
元来の使われ方、発想の根源は、1986に刊行されている『言泉』に書かれた意味だったのだろう。
それが、『広辞苑』では、少しぼかしてある。「硬直した考え方の高齢者」といった具合に。
『言泉』と『広辞苑』の間に刊行された他の辞典に、「老害」が出ていないのは、意図的に省かれたのか、それほど一般的ではなかったのか、どちらなのだろう?
各企業にどんな重鎮がおられ、どんな老害を撒き散らしておられるのかよく知らない。
が、政治家の場合は、テレビで言動を耳にすることが多く、考え方、思考のプロセスに疑問を感じたりすることは多々ある。
「云々」を「てんてん」、「踏襲」を「ふしゅう」、「未曾有」を「みぞうゆう」と読んだりするのは、老いとは無関係の問題かもしれないけれど、老女もちょっと恥ずかしくなる。
「老害」という言葉が生まれるのも致し方ないかとも思う。
私自身が老害的存在であろうと自省し、ひっそりと過ごすのが一番! と、考えたりする。
疎外感を覚えるなら、そういう場所へ行かなければよい。
仙人のように暮らすことができればいいが、そうもゆかず、家の中、河口の部屋の中でひっそり生きるか、旅に出てまるで他人の人混みの中をうろつくか、野道を歩いたり、公園に佇んだりして、自然の声を聞いたり、草花と花をしたり………、そんな生活が、「老害」を撒き散らさずに生きられる道かと考えてみる。
それも自立できる間のことであるけれど。
脳の活性化を念じて、音読を始める。
起立して2ページを読んだところ、息苦しくなった。
音読は脳の衰えを防ぐ効果は大であろう。が、一方、体力を要することが分かった。
昔は、声を使う仕事をしていたが、今は発声に要する体力がない。
毎日、音読を続けることで、息苦しさが多少は改善するだろうか?
日々、自らの老いとの付き合い方を工夫しながら生きている。
今日は6時に起床し、ラジオ体操、数独2問を解答、音読を済ませた後、朝食。
初めて、朝食中に眠くなる。
赤ちゃんみたいだな、と思う。
今日、新たに追加したのは音読だけ。
それが過労となるとは!
情けない話だが、これが85歳の実態である。