ぶらぶら人生

心の呟き

高島と永井隆の歌

2006-04-30 | 身辺雑記

 山陰西部を旅する人の眼には、日本海の沖に浮かぶ孤島が、印象的に眺められるのではないだろうか。
 日ごろ見慣れている私だが、列車の窓から島影を眼にすると、たちまち旅人の気分になってしまう。瀬戸内海の島々のように、たくさん点在していると、なんだか島への思いが拡散されてしまうのだが、そこに一つしかないということで、様々に想像が掻き立てられたり、空想の世界に浸らされたりする……。


 
 日展を観るため、松江に向かった。乗りなれた列車からの見慣れた風景だが、幾度眺めても見飽きることのない山陰の風景である。鄙びた眺め、茫々と広がる日本海。
 早朝の出発だったので、朝の新聞を読みながらの旅立ちだが、折々眼を上げて風景を眺める。
 その朝も、高島は、沖はるかに浮かんでいた。
 私は、永井隆博士の高島を詠んだ歌を思い出そうとした。が、最近諳んじたものは、昔覚えた歌のようにすらすらと出てこない。思い出すことを諦めた。
  帰宅後すぐ、「新しき朝」という文庫本を開いて確かめ、今度は心に刻み込むように口ずさんだ。

 紺青の石見の海や白波の光る退方(そぎえ)に高島の見ゆ

 「大正15年18歳――昭和7年24歳」の区分中にある歌である。ふるさと島根と進学先長崎との往来の途次で詠まれたものであろう。
 永井隆が島根出身であることは知っていたが、この歌でいっそう親しみを覚えたのは、昨年の春、長崎に旅した時であった。
 かつて「如己堂」は、いつも観光バスの座席に坐って、名調子で説明するガイドの声に耳を傾け、「この子を残して」の一節や悲傷の唄を聴きつつ、通過するだけの場所だった。
 が、その時、初めて「如己堂」を尋ねたのだった。長崎に原子爆弾が投下され、妻をなくした彼が、自らも被爆しながら、命の限り執筆活動を続け、二人の子供と過ごした場所であることは、誰も知るところだ。
 二畳一間きりの、狭い一室である。
 「如己堂」について、博士はこう書いている。
<如己堂…己の如く他人を愛す、という意味を名にとったこの家は、家も妻も財産も職業も健康も失って、ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。そして今にいたるまで、その数々の如己愛は絶えずこの家に注がれ、それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそりと暮らすにふさわしい小屋である。>と。
 「如己愛」「如己愛人(己の如く人を愛す)」とは、崇高な思想だと思う。人間同士のあり方としてすばらしいことだと思いながら、私などは実践できない。自分の醜いエゴを捨てきることが出来ない。が、永井博士は、実践の人である。
 如己堂の隣に、「永井隆記念館」は建てられている。
 そこには、<人類愛に満ちた研究者(医学博士)>としての永井博士、<世界の平和を祈る人>としての永井博士、<作家そして父>としての永井博士など、その全容に接することのできる場となっている。その非凡で偉大な生き方には、遠く及ぶべくもない私だが、没後半世紀以上をを過ぎた今、記念館の中で、ひと時、その生涯に触れることができ、感動した。
 その時、記念に求めた本が、「新しき朝」であった。長崎からの帰りの車中で、すでに読了していた本に、再び眼を通した。
 その本を読むまで、歌人としての一面を私は知らなかった。アララギ会員であり、世に永井博士の「辞世の句」といわれている次の一首は、「昭和万葉集」(昭和54年9月講談社発行・巻9)に採用されている由。

 白薔薇の花より香りたつごとくこの身を離れ昇りゆくらむ

  「新しき朝}には、短歌のほか、俳句、詩、スケッチなども掲載されていて、永井博士の一面に触れることが出来る一冊である。

 島根の人、永井隆の歌のうち、石見に関わる歌をもう一首見つけた。

 石見潟長濱駅に汽車入りぬまどをあくれば近き潮騒
                  (長濱駅は、現在、西浜田と改名されている。)
 
俳句の中では、

 風吹けば風まかせなるへちまかな

が、私の気に入った句である。

 今、永井隆氏の年譜を見ていて、明日5月1日は、55回目の命日であることを確認した。行動力のない私だが、精神の上では、反戦と平和を祈って、博士を偲びたいと思う。

 追記 日展を観るため、松江まで小旅行をしたのは4月28日。
     高島は、現在は無人の島。1月撮影。

  
 


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北原白秋の歌

2006-04-27 | 身辺雑記

 岡井隆編「集成・昭和の短歌」(小学館)
 北原白秋(1855~1942)<北原隆太郎選>より

 白秋の歌といえば、忘れられないのが次の歌である。

 春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕べ

 
中学校の二年生の時だっただろうか。
 国語の時間、いつもの如く、視線を遥か遠くにさまよわせるような表情で、教室に入ってこられた女の先生は、いきなり用紙を配られ、黒板に上記の白秋の歌を書かれたのだった。いかにも文学者らしい雰囲気をたたえた先生で、文字にも一癖あるのが、少女にとっては魅力的だった。
 先生は急用が出来たので、今日は自習にする、この歌から受けるイメージを何でも自由に書くように、そうおっしゃって教室を出て行かれたのだ。

 その時、何を書いたかは覚えていない。当惑しながら、暗誦にいたるまで歌を口ずさみ続けたことだけは、鮮明に覚えている。
 <な鳴きそ鳴きそ>が分からなかった。文法で<な~そ>の用法さえ習っていたら、わけなく歌の意味を解することだけは出来たであろう。が、それは未習の用法であった。
 意味を理解しても、その背後にある白秋の心情までは察することが出来なかったであろうけれど。私は精神的に幼い子だったと、昔を思い起こすごとに自分を振り返る。
 白紙を出した覚えはない。理解できる単語から、適当に情景を描写したのだろう。白秋の歌とは無縁のことを。
 先生が、後日、歌の説明をなさった記憶はない。時折お見せになった、はにかんだような笑みを浮かべながら、みんなの作文を読まれたのか、どう処理されたのか、そんなことも分からない。
 何をどう書いたらいいのか分からず困惑したこと、そして、白秋のこの歌を生涯忘れえぬ歌として、心に刻みつけたことだけが、思い出として今に残っている。
 勿論、その懐かしい女の先生は、とっくに鬼籍の人である。

 ここまで書いて、「日本名歌集成」を開いてみると、「春の鳥……」は、<明治41年7月4日、森鴎外宅で開かれた観潮楼の月例会で発表されたもの>で、<第一歌集「桐の花」(大正2年)の巻頭歌>と記されている。一つ賢くなった。

ここに聴く遠き蛙の幼なごゑころころと聴けばころころときこゆ
白南風(しらはえ)の光葉(てりは)の野薔薇過ぎにけりかはづのこゑも田にしめりつつ                 (以上二首は、「白南風」<昭和9年>より)
照る月の冷(ひえ)さだかなるあかり戸に眼は凝らしつつ盲(し)ひてゆくなり
月読(つきよみ)は光澄みつつ外(と)に坐(ま)せりかく思ふ我や水の如かる
高空に富士はま白き冬いよよ我が眼力(まなぢから)敢(あへ)なかりけり
火のごとや夏は木高く咲きのぼるのうぜんかづらありと思はむ
                   (以上四首は、「黒檜」<昭和15年>より)
 

 晩年の白秋は、視力を失い薄明の世界の人となった。「黒檜」の四首は、その状況下で読まれた歌である。
 この選者は、理由は分からないが、あえて初期の歌集からの選を避けている。この本には取り上げられていない歌で、「春の鳥……」と共に、私が好んで口ずさんできた歌を記しておくことにする。

 病める子はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出
 草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり
 君かへす朝の舗石(しきいし)さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ
 手にとれば桐の反射の薄青き新聞紙こそ泣かまほしけれ
(以上「桐の花」より)
 石崖に子ども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼   (「雲母集」より)
 飛び上がり宙にためらふ雀の子羽たたきて見居りその揺るる枝を
 この山はたださうさうと音すなり松に松の風椎に椎の風
 昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗の藪を出でて消えたり
 大荒れのあとにしみじみ啼きいづるこほろぎのこゑのあはれさやけさ

                                    (以上「雀の卵」より)

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シャガの花

2006-04-27 | 身辺雑記

 今年も隣家との境にある垣根の傍に、シャガの花が咲いた。
 地味で清楚な雰囲気が、私の好みに合っていて、好きな花である。
 好みの花に順位を付けるとすれば、10位以内に入ることは確実だ。

 シャガは大人好みの花といえよう。
 こんな地味な花を、子供があえて好むことはなさそうだ。
  
 私自身、この花を知ったのは、そう昔のことではない。十数年前のことだったろうか。
 確か、上田三四二の小説を読んで、この花を意識したように思う。その作品は「著莪の人」(?)という題名だったような気がするのだが、さだかではない。登場人物の女性が、シャガのイメージに似つかわしい人だったのではなかったか?
 気になるので、インターネットで上田三四二を調べてみた。「花衣」という小説は出ていたが、「著莪の人」は見つからなかった。「花衣」の中の一篇として載っていたのだろうか。
 ひと時、知人と頻繁に、互いの本を貸し借りして読んでいた時期がある。上田三四二も、医師の知人に借りて読んだ本だった。
 上田三四二については、医者であり、私の好きな歌人(歌についてはいずれ「読書メモ」で取り上げるつもり)であり、評論家、小説家でもあることぐらいしか知らない。読んだ小説の内容は曖昧模糊。いい小説だったいう印象以外には思い出せない。
 「花衣」を読み返してみたくなり、インターねとで注文した。入手の日が楽しみだ。 
 
 


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キキョウの新芽

2006-04-26 | 身辺雑記

 なんという見事な伸び具合だろう!
 思わず「新しい力」の前にしゃがみこみ、
 背筋を伸ばす。

 地を割ってすっくと伸びた
 キキョウの新芽。
 瑞々しく、力に満ちた伸びやかさ!

 このキキョウは、長い期間花を咲かせてくれるので、花の咲く間は、毎年、眺めることを楽しんできた。花瓶に挿したり、下手なスケッチをしたり。
 が、この季節の、威勢よく伸びんとする姿に眼を留めたことはなかった。
 伸びゆくものの「新しい力」、それの持つ美しさに今日は感心させられた。

 


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前田夕暮の歌

2006-04-25 | 身辺雑記

 岡井隆編「集成・昭和の短歌」(小学館)
 前田夕暮(1883~1951)<石本隆一選>より

 前田夕暮と聞けば、真っ先に思い浮かぶ歌は、
  向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ
であり、次いで
  雪のうへに空がうつりてうす青しわがかなしみはしづかにぞ燃ゆ
  木の花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな 
などが、記憶から蘇る。その程度にしか理解していない歌人だった。
 したがって、歌集「水源地帯」昭和7年刊)から選ばれた、下記の歌に接した時は驚きだった。夕暮には、こんな歌もあったのかと。完全な口語自由律。歌の中に句読点があったりダッシュが用いられたり。それが今読むと、かえって新鮮であり、面白くも感じられたりしたのだが、夕暮は、後に再び定型に復帰し「耕土」 昭和21年刊)のような歌を詠まれたようだ。その径庭に驚嘆しながら、どんな時代に身をおき、どんな風潮の中で作歌活動がなされたかで、歌の趣も随分変わるものだと、改めて考えさせられた。私など、その歌人の一、二首を諳んじていて、それによって、その人の歌風を決め付けているようなところがあった。大間違いである。
 上記の歌は、前二首が大正3年刊行の「生くる日に」所収の歌、三首目は「収穫」に所収、明治42年作の歌。

放心した自分の横顔に、富士の反射がちかりと来る
自然がずんずん体のなかを通過す――山、山、山
だしぬけに空につきあがる富士。しんかんとして吾等はある
機体が傾くたび、きらりと光る空。真下に動揺する山、山、山
どの家もみな海の方へ向いてゐる、重苦しい曇天の川を背負つて
馬と人と一緒に棲んでゐるといふことが、ここでは余りに自然に感じられる
空にむかつて、一せいに大きく口をあいゐる岩燕の朱い咽喉をみた
濡馬の体からほかほかとたつ靄、生きもののまなざしのいとしさ

物量の乏しくはあれ開墾地ありしときけば行かまく思ふ
わが入らむ谷の奥がにかそかにもつづく路あり草あかりして
山独活の香にたつ朝の味噌汁のあたたかくして礼(いや)申すなり
山の秀にのこる日かげをみたりけり妻にもみよとわがいひしかも
どこもかしこも石塊(いしくれ)ばかりの痩地なれど墾せば親しその石塊も
時計あらねば時に制約さるるなし日暮るれば灯火(あかり)なき家に寝(ぬ)る
時計なき山の暮らしになれにけり起き臥しということの愛しき
秋草の匂ひをかぎて愁ひあり敗れし後はただに生くべし
敗戦のこの悲しみをわかつべき人さへあらず路ゆきにけり
枝豆をすこしばかりはとりしかど多くは兎にたべられにけり
野鼠の吾をうかがふ気配あり野鼠をさへ神は生かしむ
ほのぼのと藷のふけるをまちにつつ幼な心となりけり吾は

 
「耕土」の歌は、戦中戦後の、生活の不如意が、何の飾り気もなく歌われ、心に響くものがある。あるがままを受け入れる姿勢に、安堵さえ覚える。


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「きょうも、いいネコに出会えた」

2006-04-24 | 身辺雑記

 動物写真家・岩合光昭氏の本である。
 「四角形の歴史」(赤瀬川原平著)を注文するついでに、インターネットで購入。付け足しの感じで求めた本だったが、この本は実に楽しかった。
 今回に限らず、猫好きでありながら猫を飼っていない私は、猫の本を見つけると、求めたくなってしまう。そして、ほとんど手に入れる。(岩合氏の「海ちゃん」も、以前読んでいる。)
 この本は、猫の写真を楽しめるだけでなく、文章を読む楽しみもある。写真に添えられた短い文章に、巧まざる味がある。
 この本には、11県の猫たちが登場する。あるときは城下町で、あるときは海辺の町で、岩合氏のカメラがとらえた猫たちである。猫たちは、風土に根づいて生きている。それぞれの土地土地で、人々や土地の風情に不思議なほど溶け込んで生きている。
 一匹の猫を被写体とした写真も幾枚かはあるが、大方の写真は、大きな風景の中に、猫を存在させている。したがって、私自身が旅人として、風景の中で猫に出会っている感じさえしてくる。眺めていて飽きない写真ばかりだ。
 疲れた時など、気分転換にページをめくれば、その都度様々な猫の表情や姿態に出会えて、幾度でも楽しめる本である。
 
 旅好きな私は、国内のあちこちを旅している。旅と猫、ということになれば長崎の町が、一番だろう。
 昨年の三月、五島の旅の前後、長崎に二泊した。
 長崎は幾度か訪れているが、今までは団体や人と一緒の旅ばかりであった。
 今回はひとり旅。今まで訪れたことのない「野口弥太郎記念美術館」や「永井隆記念館」へ行ったり、もう一度ひとりで訪れたいところを選んで巡った。

 タクシーで興福寺から崇福寺に向かう途中のことだった。小路を車がゆっくり走ってゆくと、前方に猫が数匹、路面に悠々とたむろしている。車が接近するのに、悠然たるものであった。
「ちょっと待ってくださいね。……降りて、猫によけてもらいますから」
 苦笑気味に運転手がドアを開けようとした時、前方から歩いてきた人が状況に気づき、降りなくていいと運転手へ合図を送り、猫たちに道を開けるよう指図してくださったのだった。
 猫たちは、のろのろと道端に去っていった。
「どうぞ! お邪魔でしたね」
 といった表情で、猫たちは、いとも涼しげな顔をしている。
 向こうから来た人も、運転手も、乗客の私も、皆顔が緩んでいる。猫には人の顔を和ませる不思議な力がある。(猫嫌いな人は、そういうわけにはいかないのだろうか?)
「長崎は、猫の多いところですよ」
 運転手には、この光景は珍しいことではなさそうだった。

 五島から長崎に帰って、二度目のタクシーに乗った時、運転手に、「長崎には猫が多いのですね」と語りかけると、少々の数ではないと笑いながら、一月の寒い日の、とある夕方のことを話してくださった。
 運転手同志、車から降り、「こんなに寒くては乗客もないし、早めに切り上げるか」などと言い合った後、外も寒いので車に入ろうとしてみると、猫が客席にちょこんと坐っていたのだという。一瞬びっくりした運転手だったが、「猫が客じゃあな…と、みんなで大笑いしたんですよ」と、話されたのだ。
 聞くだけで、なんともほほえましい話だった。運転手たちも、決して手荒なことはせず、猫にやさしく退場を乞われたに違いない。

 いよいよ翌日、長崎を発つ日、乗車する列車の到着を待って、ホームに立っていると、グレーの、大きな猫が一匹、柱の近くに坐ってるのだ。
「あら、お見送りしてくれるの?」
と、語りかける私に、猫は頷くでもなく、知らん振りをするでもなく、餌をねだるでもなく、自分の世界をひたすら楽しんでいるような眼で坐っていた。

 岩合氏が長崎に行かれたら、いかにも長崎の猫らしい、悠然とした猫にお会いになることだろう。
 猫とは関係のない話だが、長崎には「銀嶺」という喫茶店がある。歴史があり、趣もある、いい喫茶店である。私には思い出があり、長崎にゆく時は必ず訪れ、思い出に浸ることにしている。コーヒーも美味しい。


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言葉あれこれ

2006-04-23 | 身辺雑記

 昨日の「天声人語」は、サハリンに出征し、現在はウクライナに住む、元日本兵上野石之助さんのことが書かれていた。63年ぶりに帰国し、記者会見で語った「運命」という言葉の、その一言の重みについて述べられたものであった。
 それを読んでいる時、文中の表現の一部に、?を感じて思考が停止した。それは、些細な文法上の問題なのだが、「生きて敵の手に落ちるまいと、多くの人たちが自決している」という表現中の<落ちるまい>の言い回しが、正しいのだろうか? という疑問だった。私が書くとすれば、<落ちまい>と表記するだろうと。
 気になりながら、文法書を取り出すこともせず、今なおやはり心の底にひっかかっているのだ。うろ覚えの文法知識では、「まい」という助動詞は意思・推量を表し、
 五段活用 (例) 「帰る」 につく時は、<帰るまい>と、終止形に接続する。
 それ以外の動詞、上一段、下一段、カ変(来る)、サ変(する)の場合は、未然形に接続するのが一般だったように思う。
 <落ちる>は上一段活用の動詞である。であれば、未然形の<落ち>に接続し、<落ちまい>が、表記上正しいような気がするのだが、どうだろうか。
 書いている記者が、表記に疎い人ではないだけに、私の方に思い違いがあるのかもしれない。近くに住む妹に意見を聞いてみただけで、新しい文法書を繙くこともしていないのだが。

 私が好んで読んでいるコラムに、天野祐吉氏の「CM天気図」がある。
 10日の記事に「立ちふるまい」という言葉が出ていて、このときも? と思った。しかし、その時は言葉の問題なので、すぐ辞書で確認し、私が普通に用いている「立ち居ふるまい」も間違いではなく、天野氏の「立ちふるまい」も、ほぼ同じ意味で、どちらも正しい言葉なのだと理解した。また一つ新しい知識を得た思いだった。
 私はその時、「立ちふるまい」はなんだか舌足らずな感じがし、その方が古語で、いつの間にか「立ち居ふるまい」という、語調として言いやすい方に転じたのだろうかと、勝手に考えていた。
 昔、幼い姪が「血が出た」「蛾がいる」というべきところを、「血ががでた」「蛾がーがいる」と、奇妙な言い方をしていたのを思い出した。幼児にとって、「血」や「蛾」のような一音節の単語は,発音するのに収まりが悪く、一音節をプラスしたり長音化したりして言っているのだろう。当時は、そう判断していた。
 かなり異なるようではあるが、「立ちふるまい」が、もし「立ち居ふるまい」に変化したのであれば、収まりの悪さを解消するという意味で、似た現象かもしれない、と勝手な想像をめぐらせたのだ。
 日本語は、リズムのある言葉だし、リズムを大切にする言葉だと思う。俳句や短歌も、五七調や七五調のリズムで成り立っている。リズムの良さが、言葉を変化させることもあり得るだろう、そんな勝手な推論を楽しんでもいた……。
 ところが、17日の天野氏のコラムを見ると、案の定投書が沢山届いた様子で、改めて、彼の意見が述べられていた。それによると、「立ちふるまい」も「立ち居ふるまい」も、<どちらも日本の古典文学に出てくるから、昔の人はそのビミョーな違いをビミョーに使い分けていたのかもしれない。>とあった。
 私の想像ははずれであった。しかし、言葉についてあれこれ考えるのは面白い。

 「漢字力」と題したブログに、過日、私の漢字力のなさについて書いた。
 また、私の使ったことのない漢語表現に出合い、やっぱりだめだなと思いつつ、辞書で確認した。それは大岡信氏の「折々のうた」にあったもの。「加餐を祈る」という表現。「加餐」は、<餐を加える>と読めば意味は想像できるけれど、私の語彙範囲にはなかった言葉である。
 いつか誰かに病後のお見舞いを書く機会があったら、「ご加餐をお祈りします」と、ちょっと気取って書くことにしよう! 簡潔でいい表現だと思う。
 「餐」は、「晩餐会」意外に、今、熟語が思い浮かばない。たぶん「餐」は、常用漢字外の漢字だろう。
 電話で、年の離れた妹に、「加餐」の話をしたところ、「いい言葉だと思うけど、相手にわかってもらえないのと違う?」との返事。妹も、勿論その漢語を知ってはいなかった。「これって中国語でも使うの?」と言いつつ、即座に中国語辞典を引いている様子だったが、「ないみたい」との返事だった。
 中国語では、「餐」はよく使われる。例えば、西餐(洋食),中餐(中華料理),餐巾(ナプキン),餐桌(食卓)等等。しかし、「加餐」という言い方は、現代中国語では用いないのだろう。

 パソコンで、<かさん>と打っても、即座に<加餐>という文字は出なかった。日本でも、そう多くの人に使われる表現ではなくなってきているのかもしれない。
 使用する言葉や表現の仕方で、年齢や教養までも、およそ量れることを考えると、表現、表記も、おろそかには出来ない。
 それはともかくも、意味さえ理解できれば、漢語の簡潔性はすばらしいし、捨てがたい味があると思う。
 


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斉藤茂吉の歌

2006-04-23 | 身辺雑記

 岡井隆編「集成・昭和の短歌」(小学館)
 斉藤茂吉(1882~1953)<岡井隆選>より

くらやみに眼ひらきて浮かびくるはかなき事もわが命とぞおもふ
けさの朝け起きいで来れば山羊歯に萌ゆらむとする青のかたまり
水すまし流にむかひさかのぼる汝(な)がいきほひよ微かなれども
最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片
いただきに黄金のごとき光もちて鳥海の山ゆふぐれむとす
最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
人皆のなげく時代に生きのこりわが眉の毛も白くなりにき
短距離の汽車に乗れれど吾よりも老いたる人は稀になりたり
運命にしたがふ如くつぎつぎに山の小鳥は峡(かひ)をいでくる
ひとりさめて思ふ中宵を過ぎしころ闇黒の中の紅梅の花
ありさまは淡淡として目のまへの水のなぎさに鶴卵をあたたむ
みづからの落度などとはおもふなよわが細胞は刻々死するを
新年にあたたかき餅を呑むこともあと幾たびか覚めておもへる
老身よひとり歩きをするなかれかかる声きけどなほ出で歩く
やうやくに心賢くなるころと嘗ては吾もおもひたりしか
かもめ等の翻り飛ぶさま見るもわが生涯の一ときにして
暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの

 以上は上記歌集の、岡井隆選の歌から、私のお気に入りを引用したものである。
 斉藤茂吉は歌の大家、さすがにいい歌が多い。が、ここに取り上げた歌には、意外に老境を歌ったものが多く、思わず生没年を確かめ、驚いた。思いの外短い七十一年の生涯であったのかと。私の方が、すでに僅かながら永らえて生きているのだとは、予像外であった。
 老いの形にはかなり個人差があるのだろう。茂吉は晩年どんな老いの日々を過ごされたのだろう? 時間のゆるす時、詳伝を読んでみたい気持ちになった。
 
 上記の歌の中では、「最上川逆白波の……」は、かつて諳んじていた歌である。が、教科書などで学び、鮮明に人々の記憶に残っていそうな歌がここにないのが寂しかった。『赤光』の中の母の死を歌った歌など。
 死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる
 のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳ねの母は死にたまふなり
 
今一首『あらたま』の中の歌。
 あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
 
 
斉藤茂吉は、柿本人麻呂の研究家でも有名。
 昭和三十年代初めの頃だったと思うが、江の川上流の鄙びた温泉に一泊し、茂吉の歌碑の前に佇んだことがある。
 人麻呂が終(つい)の命をおはりたる鴨山をしもこことさだめむ
と、記されていたように思う。遠い日に記憶した歌であり、あるいは間違っているかもしれない。表記上にも、ミスがあるかもしれない。
 後日もう少し詳しく調べてみたい。

 人麻呂の終焉の地については諸説があるようだ。永遠の謎に終わるのかもしれない。石見のいずれかの地ではあったのだろうけれど。

 
余禄 四月十六日の朝日新聞に、「柿本人麻呂と妻の像完成し祝う」という記事が出ていた。江津市の高角山万葉公園で除幕式が行われた、と。

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似て非なるもの

2006-04-22 | 身辺雑記

 今朝は奇妙な夢で目が覚めた。
 「いえ、結構です」
と、言いながら、相手を避けるように寝返りを打って、現実の朝に出会ったのだった。
 障子が白んでいる。……海の中ではないのだと気づく。
 私に声をかけたのは、海中に棲む一匹の魚<ホンソメワケベラ>だった。
 「お口の中をきれいにしてさしあげましょう」
と、慇懃に語りかけてきたのだった。
 私は、人間世界から下落し、ついに魚の仲間になって異界を漂っていたらしい。突拍子もない夢を見たものだ。

 気づくと、今日もまた、新しい朝が来て一日が始まろうとしているのだ。またまた朝寝坊をしたらしいと感じながら、夢の世界の混乱から抜け出した。
 しかし、単純といえば実に単純。昨夜、パソコンを開け、マイピクチャの写真を整理した時、昨年の三月、水族館アクアスに出かけながら、<ホンソメワケベラ>に会いそこねたことを思い出したのだった。夢の原因はどうやらそこにあるらしい。


 ここ二、三年、私の朝はいつも遅い。幾度となく、早寝早起きを実践しようと試みるのだが、意志薄弱で改善には至らない。だらしない生活に嫌悪感を覚えながら過ごしていた、昨年春のある日、テレビが、アクアスには朝寝坊の魚がいると報じたのだ。初めて聞く名前なので、一度耳にしただけでは覚えられなかった。が、私に似た、怠け者がいると聞いて、親近感を覚えた。
 「朝寝坊」という共通項を持つ魚は、どんな顔をして水中を泳いでいるのだろう? と、興味津々。朝寝坊の君に会ってこよう!
 いつか行ってみたいと思いながら、果たせずにいた水族館行きを急に思いたったのだった。 
 春めくよい天気の日だった。時刻表で、日帰りが無理なく可能なことを確かめ、昼近くの列車で出かけた。中・高と合わせて六年間通学したH市までは、車窓をよぎる風景が懐かしい。思い出も懐かしい。そこからさらに乗り継いで、水族館のある波子へ向かった。
 入場券を検札する女性に、
「朝寝坊をする魚は、どこにいるのでしょう?」と、尋ねた。
「ホンソメワケベラ、ですね。○階にいます。もう起きてると思いますよ」と、にこやかに答えてくれた。私の心は弾んだ。
 その大きな水槽にいる、幾種類もの魚たちについては、水槽脇の看板に写真入りで説明が付されていた。写真で見る限り、きれいな魚だ。
 私は一心に眼を凝らして仲間探しに時間を費やしたが、ついに会うことが出来なかった。私は落胆しながら、考えた。きっと私以上に怠け者なのだろう! いまだに寝ているようでは……。それが私の結論だった。

 魚のことは無知に近いし、あまり興味もない。ただ私の仲間らしいと知った<ホンソメワケベラ>のことは妙に知りたくなった。
 帰宅後、インターネットで調べて、吃驚した。
 <ホンソメワケベラ>は、私とは似て非なる、立派な魚なのだ。多くの魚たちから重宝がられてもいる、働き者であるらしい。たとえ朝寝をしようと、目覚めた後は、他の魚たちの口腔や体の汚れをきれいに掃除してあげる奉仕者で、人間社会でいうボランティア活動に専念している魚なのだ。
 今朝の夢でも、私の拒絶にあいはしたものの、<ホンソメワケベラ>は、無償の奉仕者であろうとしていた……。 
 私は大変な思い違いに気づき、同類と決めつけてしまった早とちりに苦笑した。

 <ホンソメワケベラ>同様、朝寝をしても、何か人のために役立つ仕事が出来れば立派だが、私には出来そうにもない。
 駄文を弄して、そんな嘆きをしたためるくらいが、関の山のようだ。


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川田順の歌

2006-04-21 | 身辺雑記

 4月21日 岡井隆編「集成・昭和の短歌
 川田順(1982~1966) <伊藤一彦選>より

立山が後立山に影うつす夕日の時の大きしづかさ
ゐろりべにわれら坐りて夜深し黒部川の大きなる岩魚を炙る
雷魚(はたはた)を漁ると沖べに群れてゐる舟はちひさし日本海に

分かれ来てはやも逢ひたくなりにけり東山より月出でしかば
親しさは我が家の如くおぼゆなり君が子達のこゑを聴きつつ
吾が髪の白きに恥づるいとまなし溺るるばかり愛しきものを
山家集に一首すぐれし恋のうた君に見せむと栞を挿む
相触れて帰りきたりし日のまひる天の怒りの春雷ふるふ
垂乳根の母なることを忘れよと今日は言はむかも鬼にもなりて
わが夢は現(うつつ)となりてさびしかり田居のすみかに枕を並ぶ

 
川田順については「老いらくの恋」でしか知らなかった。歌を読むのも初めて。幾つになっても、恋はかくの如きか! 
 後半の歌は「東帰」より。
 川田順が、長寿の人だったことも、今回知った。
 私の好きな歌は、最初に掲げた「立山が……」である。


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