<あッ、黒井千次さんの本!>
と、新書版の並ぶ書棚に、その本を見つけた。
手に取ったのは、 『老いの味わい』 (中公新書・2014年刊)だった。(下の写真 左)
山口の書店で。
「あとがき」をみると、
<この新書は、読売新聞夕刊に「時のかくれん坊」というタイトルで月一回寄稿し、今も書き続けている、現代の老いをテーマにした随想の五十六回分をまとめたものである。>
と。
懐かしい思いがした。
(以前のブログにも書いたことだが…)私は、ひと時、朝日新聞と読売新聞の二紙を購読していた。
読売新聞をやめるにあたって、少々残念だったのは、月一回掲載される、黒井千次さんの「時のかくれん坊」が読めなくなることであった。
(今一つ、芥川喜好さんの「時の余白に」にも、未練を残しながら。)
黒井千次さんは、1932年生まれ。翌年生まれの私とは、同級生ということになる。
同じ時代の、似たような空気を吸って生きてきた人ゆえの親近感を覚える。
一冊にまとめられたエッセイを、改めて読み返し、共感を新たにした。
私の求めた『老いの味わい』の前に、 『老いのかたち』 (中公新書・20010年刊)が出版されていることも、「あとがき」で知った。(下の写真 右)
「時のかくれ坊」の最初の部分である。
早速、アマゾンへ注文して入手し、読了した。
現在も、読売新聞への掲載が続いているとすれば、3冊目の『老いの○○』が、いずれ出版されるだろう。
<老い>の実態というのは、自分自身が直面しなくては、容易に分からないことが多い。
動作の一つ、思考過程の一段階にしても、またその他もろもろ、老いの日々は、新しい自分との出会いである。
初めは大いに面食らうけれど、やがて、これが老いというものだと納得する。
愚かしいことだと自分に腹を立ててみたり、これでは先が思いやられると少々悲観的になったりもするけれど、やがて受け入れて暮らすより道はないのだと諦観する。
二冊のエッセイにも、似たような老いの日常の出来事や体験が記されていて、思わず微苦笑しながら、味読した。
黒井千次さんの本を読んでいると、同伴者がいるという安心感を抱かせられる。
これから、死の日まで、新たな自分と出会い続けることになるのだろう。
そう覚悟すると、老いの中に、冒険的な楽しみが味わえそうだ。
苦しみの方が多いことには、間違いあるまいけれど。
自分の意志ではどうにもならないことにたくさん遭遇しながら、最果ての地に向かって歩み続けざるを得ない、これが老いの日々なのだろう。
※ 黒井千次著『老いの味わい』『老いのかたち』の2冊を読んだのは、7月であった。
ブログの未定稿として、見出しと文章の一部を書きかけたまま、一か月以上が過ぎてしまった。
今日、続きを書き終え、投稿の運びとなった。
8月、去る。
1年の<3分の2>を、無事に終えたことになる。
相変わらず、胃の不調を、折に感じつつも。
老いに万全など、あろうはずもないと、弁えている。
明日からは9月。
秋は、最も好きな季節。
ひと日ひと日を、楽しもう!
と、新書版の並ぶ書棚に、その本を見つけた。
手に取ったのは、 『老いの味わい』 (中公新書・2014年刊)だった。(下の写真 左)
山口の書店で。
「あとがき」をみると、
<この新書は、読売新聞夕刊に「時のかくれん坊」というタイトルで月一回寄稿し、今も書き続けている、現代の老いをテーマにした随想の五十六回分をまとめたものである。>
と。
懐かしい思いがした。
(以前のブログにも書いたことだが…)私は、ひと時、朝日新聞と読売新聞の二紙を購読していた。
読売新聞をやめるにあたって、少々残念だったのは、月一回掲載される、黒井千次さんの「時のかくれん坊」が読めなくなることであった。
(今一つ、芥川喜好さんの「時の余白に」にも、未練を残しながら。)
黒井千次さんは、1932年生まれ。翌年生まれの私とは、同級生ということになる。
同じ時代の、似たような空気を吸って生きてきた人ゆえの親近感を覚える。
一冊にまとめられたエッセイを、改めて読み返し、共感を新たにした。
私の求めた『老いの味わい』の前に、 『老いのかたち』 (中公新書・20010年刊)が出版されていることも、「あとがき」で知った。(下の写真 右)
「時のかくれ坊」の最初の部分である。
早速、アマゾンへ注文して入手し、読了した。
現在も、読売新聞への掲載が続いているとすれば、3冊目の『老いの○○』が、いずれ出版されるだろう。
<老い>の実態というのは、自分自身が直面しなくては、容易に分からないことが多い。
動作の一つ、思考過程の一段階にしても、またその他もろもろ、老いの日々は、新しい自分との出会いである。
初めは大いに面食らうけれど、やがて、これが老いというものだと納得する。
愚かしいことだと自分に腹を立ててみたり、これでは先が思いやられると少々悲観的になったりもするけれど、やがて受け入れて暮らすより道はないのだと諦観する。
二冊のエッセイにも、似たような老いの日常の出来事や体験が記されていて、思わず微苦笑しながら、味読した。
黒井千次さんの本を読んでいると、同伴者がいるという安心感を抱かせられる。
これから、死の日まで、新たな自分と出会い続けることになるのだろう。
そう覚悟すると、老いの中に、冒険的な楽しみが味わえそうだ。
苦しみの方が多いことには、間違いあるまいけれど。
自分の意志ではどうにもならないことにたくさん遭遇しながら、最果ての地に向かって歩み続けざるを得ない、これが老いの日々なのだろう。
※ 黒井千次著『老いの味わい』『老いのかたち』の2冊を読んだのは、7月であった。
ブログの未定稿として、見出しと文章の一部を書きかけたまま、一か月以上が過ぎてしまった。
今日、続きを書き終え、投稿の運びとなった。
8月、去る。
1年の<3分の2>を、無事に終えたことになる。
相変わらず、胃の不調を、折に感じつつも。
老いに万全など、あろうはずもないと、弁えている。
明日からは9月。
秋は、最も好きな季節。
ひと日ひと日を、楽しもう!