ぶらぶら人生

心の呟き

黒井千次著の2冊・ 『老いの……』

2015-08-31 | 身辺雑記
 <あッ、黒井千次さんの本!>
 と、新書版の並ぶ書棚に、その本を見つけた。
 手に取ったのは、 『老いの味わい』 (中公新書・2014年刊)だった。(下の写真 左)
 山口の書店で。


 「あとがき」をみると、

 <この新書は、読売新聞夕刊に「時のかくれん坊」というタイトルで月一回寄稿し、今も書き続けている、現代の老いをテーマにした随想の五十六回分をまとめたものである。>

 と。

 懐かしい思いがした。
 (以前のブログにも書いたことだが…)私は、ひと時、朝日新聞と読売新聞の二紙を購読していた。
 読売新聞をやめるにあたって、少々残念だったのは、月一回掲載される、黒井千次さんの「時のかくれん坊」が読めなくなることであった。
 (今一つ、芥川喜好さんの「時の余白に」にも、未練を残しながら。)

 黒井千次さんは、1932年生まれ。翌年生まれの私とは、同級生ということになる。
 同じ時代の、似たような空気を吸って生きてきた人ゆえの親近感を覚える。
 一冊にまとめられたエッセイを、改めて読み返し、共感を新たにした。

 私の求めた『老いの味わい』の前に、 『老いのかたち』 (中公新書・20010年刊)が出版されていることも、「あとがき」で知った。(下の写真 右)
 「時のかくれ坊」の最初の部分である。
 早速、アマゾンへ注文して入手し、読了した。

 現在も、読売新聞への掲載が続いているとすれば、3冊目の『老いの○○』が、いずれ出版されるだろう。


     


 <老い>の実態というのは、自分自身が直面しなくては、容易に分からないことが多い。
 動作の一つ、思考過程の一段階にしても、またその他もろもろ、老いの日々は、新しい自分との出会いである。
 初めは大いに面食らうけれど、やがて、これが老いというものだと納得する。
 愚かしいことだと自分に腹を立ててみたり、これでは先が思いやられると少々悲観的になったりもするけれど、やがて受け入れて暮らすより道はないのだと諦観する。
 二冊のエッセイにも、似たような老いの日常の出来事や体験が記されていて、思わず微苦笑しながら、味読した。
 黒井千次さんの本を読んでいると、同伴者がいるという安心感を抱かせられる。

 これから、死の日まで、新たな自分と出会い続けることになるのだろう。
 そう覚悟すると、老いの中に、冒険的な楽しみが味わえそうだ。
 苦しみの方が多いことには、間違いあるまいけれど。
 自分の意志ではどうにもならないことにたくさん遭遇しながら、最果ての地に向かって歩み続けざるを得ない、これが老いの日々なのだろう。
 
 
  ※ 黒井千次著『老いの味わい』『老いのかたち』の2冊を読んだのは、7月であった。
    ブログの未定稿として、見出しと文章の一部を書きかけたまま、一か月以上が過ぎてしまった。
    今日、続きを書き終え、投稿の運びとなった。


   8月、去る。
   1年の<3分の2>を、無事に終えたことになる。
   相変わらず、胃の不調を、折に感じつつも。
   老いに万全など、あろうはずもないと、弁えている。


   明日からは9月。
   秋は、最も好きな季節。
   ひと日ひと日を、楽しもう!
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日常の断片

2015-08-30 | 身辺雑記
        8月28日

  花壇にも、裏庭にも、タマスダレの花が咲いている。
  白い花が好きである。

        
                     花壇の隅に

        
                     裏庭に

  夜は、月明かりの庭に出た。


        
                     十三夜 月と雲


        8月30日

  27日来、崖の裾に、「思い草(ナンバンギセル)」を探す。
  今日も、姿なし。

  その代り(?)、黄色い花が数個咲いているのに気づいた。
  昨年と同じ場所に。
  つる草である。
  梔子の枝やホトトギスの茎に絡まって。

  その花の名前が、思いだせなかった。
  ただ、スマホの「メモ欄」に記録したことを思い出して、確認した。
  その名は、ヤブツルアズキであった。

       
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燕の挨拶!?

2015-08-29 | 身辺雑記
 27日、朝6時、ゴミ出しに出た。
 夜の冷え込みが厳しかったせいだろう、珍しく露けき朝であった。
 大気は、ひんやりとして、さわやかであった。
 深呼吸をして、明け方の、縹色の空を眺めた。

 すると、空の一角が、騒々しい!
 もう南へ帰ったと思っていた燕が、忙しく飛び交っているのだ。
 電線に止まって音符になっていても、すぐ飛び立ったり、上空を忙しく旋回したり…。
 全体的に、慌ただしそうであった。

 まだ居残りの燕たちのいることが、驚きだった。
 急いでカメラを取りに家に入り、再び、前庭に出た。

 カメラを構えるや、二、三十羽の燕が、いっそう騒然と乱れ飛び、しばらく上空で遊んだ(?)あと、中学校の裏山の方向(南)の空に飛び去った。
 あとには、ただおとなしい空が広がるばかり。
 あの中には、家の壁面にせっせと巣作りをした親燕や、そこで育った子燕もいたのだろうか?
 
 私に挨拶するチャンスをうかがっていて、やっとそれを果たして安心し、集合地へ向かって飛び立ったのであろうか、などと勝手に想像してみる。 
 燕たちは、一定の場所に集合して、大きな集団となって南へ向かって発つのだと、先日、妹から聞いたばかりである。
 どんな規模の集団なのだろう?
 県単位? 市町村単位?

 子どものとき以来、春から夏にかけて燕と暮らしていたのに、その習性や行動様式など全く知らないのだ。

 挨拶の機を伺っていたのかもしれないなどと考えるのは、私の勝手な思いにすぎないだろう。
 それでも、この朝、燕の旅立ちに付き合えたことは、嬉しかった。
 暇人のたわごとと笑われるだろうけれど。

 その後も、日に幾度となく空を見上げるが、燕の影はない。 


       
            (動きが激しく、群れを撮影することに失敗)


 その日は、T医院で検診を受けた後、市議会議員選挙の期日前投票を済ませたり、買い物をしたりした。
 空には秋めく雲があり、盛夏の衰えと秋の到来を予感した。
 嬉しいかぎり!


       
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白い「思草(おもいぐさ)」

2015-08-28 | 身辺雑記
 昨日、T医院へ出かけた。
 定期の健診を受けるために。

 珍しい花との出会いを楽しむ。
 ナンバンギセルの種に、白い花があるのを初めて知った。

 <ナンバンギセル(南蛮煙管)>とは、その花の形から名づけられたもの。
 古名は、「思草(おもいぐさ)」である。
 『歳時記』の<秋の項>には【思草】として出ている。
 
     異草(ことくさ)にまぎれてかなし思草   富安風生

 という句が、『歳時記』に紹介されている。

 この植物の場合は、異草(つまりススキやミョウガなど)に寄生して咲く。
 繁茂するススキの根っこ近くに、ひそやかに咲くので、うっかりしていると、その花を見逃してしまう。

     知らぬ間に咲きて終りし思ひ草   河府雪於(こうふゆきお

 という句例も、挙げてあった。

 T医院の窓辺に置かれた鉢植えのそれは、糸ススキの中に咲く白い思草の花であった。
 異界に迷い込んだような、不思議な光景である。

 さらに、サギソウほか、小鉢という小さな世界に生きる植物の色々を、楽しませていただいた。

 珍しい植物に遭遇して、やや興奮気味であったせいか、血圧は高めであった。


 

        


         

         

               

  

  

         
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台風去って

2015-08-26 | 身辺雑記
 台風15号が去って、今日は静かな一日となった。
 一気に気温が下がり、少々心寂しすぎるほどである。

 朝、<資源ごみ>を出すため、外に出た。
 そのついでに、台風で汚れた庭を掃除した。
 と言っても、大げさな作業ではない。
 大型と騒がれた台風だが、当地には被害をもたらすこともなく、過ぎ去ってくれたので。
 
 今日も、晴れ間はのぞかない。
 陰鬱な空である。

 いつの間にか、ツバメの姿が見えなくなった。
 家の巣から巣立ったツバメはどれだろう? と、電線を見上げる間もなく…。
 なんだかあっさりと飛び立ったらしい。
 挨拶もなく(!?)と、不満である。
 <帰燕のとき>を、しっかりと見定めたかったのに!
 むなしく、虚空を眺める。

 来年を待つしかない。が、その来年のことは分からない。
 まあ仕方ないことと諦めて、目を地面に移す。

 タマスダレが、三つ咲いている。
 傍らの白山吹は、濃紫色の艶やかな実をつけている。
 その隣のビオウヤナギは、葉の上に、早朝の雨滴を、上手にためている。

         

  


 今日はひととき、活字に親しんだ。
 三分の一のところに、栞を挟んだまま中断していた、黒井千次著『老いのつぶやき』 (河出書房新社・2012年刊)を読了。

                  

 短いエッセイを集めた作品集である。
 日常の体験に基づいて、筆者の所感が綴られた、才知に満ちた本である。
 同世代の黒井千次さんは、好きな作家のひとりであり、今回も、その著作に欺かれることはなかった。

 だが、著書名の『老いのつぶやき』と、帯に記された紹介文は、この本の内容にふさわしくないと思う。
 書かれている内容は、<老い>とあまり関係がない。
 高齢者層向けの本ではない。
 読者層を選ばない内容である。
 そんな意味から、<老い>は、不要だと思う。

 高齢者数の増加に伴って、近年、老いをテーマにした本が、多数出版されている。
 商業的狙いがあるのかと思うほど、<老い>という言葉が、題名のなかに踊っている。
 私自身、老いの身なので、生き方の参考になればと、こうした類の本を求めることが多いのだが…。

 この本に限っては、<老い>が、全くふさわしくない。
 黒井千次さんは<あとがき>で、題名について、わざわざ解説していらっしゃる。
 
  <『老いのつぶやき』という書名は、「老い」について書かれたものを集めたという
   意味ではなく、筆者が六十代から七十代にかけての「老い」の季節を生きる中で
   書かれたものを一冊にまとめた、という意味のタイトルとして受け取っていただ
   ければ幸せである。>


 と。

 著者自身、書名に不自然さをを、お感じになったのではないだろうか。
 私見としては、内容と書名との不一致が、なんだかもったいない気がする。                  
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息をしているだけの一日

2015-08-25 | 身辺雑記
 「起きなさい」
 と、命じられ、
 「はい!」
 と言って、起き上がった。

 あれは、誰の声だったのだろう?
 夢の中の言葉に返事をして、目が覚めたのだ。
 私は、折に、自分のことばで目覚めることがある。
 そして、夢の続きだったと気づく。 
 
 ベッドサイドに座った時、スマホが鳴った。
 メールの着信音である。
 5時、少し前であった。
 市から送られた、防災情報の第1号。
 <暴風警報>が発令された、と。
 いよいよ台風15号が近づいてきたのだ。

 7時15分には、<大雨・洪水警報>の通知もあった。
 その後、8時11分には、<竜巻注意情報>も。

 心落ち着かない日であった。
 同時に、何もする気の起こらない日でもあった。
 今日に限らず、折々こんな日がある。
 息をしているだけの一日。

 九州に上陸した大型台風は、九州各地や下関周辺を嵐に巻き込んで、今晩は、隣市の沖合、日本海を北北西に進んでいる。
 海水温が高いために、勢力が衰えることなく、15号台風は、甚大な被害をもたらしたようだ。
 自然の猛威には、いつも驚かされる。

 今日は一日、テレビで、被害のニュースを見たり、国会中継を見たり…。 

 国会は、「参議院平和安全法制特別委員会質疑」。
 いい意見が出されても、話し合いは、かみ合うことがない。
 前進のない議論が、実に虚しい。
 総理の、生気の乏しい表情に、情けなくなったり…。
 お疲れなのだろうか?
 体調に不安がおありなのだろうか?
 野次を飛ばす意欲も萎えたような、お顔をなさっている。

 私も似たようなものだな、と思う。
 でも、私は、単なる市井の老女だから、誰にも迷惑はかからない。

 窓越しに、降る雨を眺めたり、座して、風の音を聞いていればいい。
 明日になれば、少しはましな暮らしができるだろうと信じながら…。
 
 

     
             窓から、もみじに降る雨を眺める。

     
             同じく、雨にぬれる前庭のギボウシの葉を眺める。
             

     
             午後、雨が降りやんだので、庭に出た。
             ノボタンを眺め、花びらの雨滴をカメラに収めた。
             毎日、30から40個の花が咲く。
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8月の庭 (下 和弘作品展)

2015-08-24 | 草花舎の四季
 草花舎まで散歩した。
 宮古島など、南の島に大きな被害をもたらした、強力な台風15号が北上中のため、空は終日、曇っていた。
 散歩には、すこぶる好都合であった。
 
 開催中の 『下 和弘 作品展』 (8月15日~9月6日)との出会いも楽しみに!
 私にとっては、4度目の作品展である。
 従って、下さんの作風は、おおよそ想像できる。
 しかし、その都度、全く同じではない。
 どこかに、作者の独創的な新しい試みがある。 
 
 さて今回は?
 たくさんの作品が、テーブルや棚の上に置かれていた。
 作品はそれぞれに、品のよい、軽やかなリズムを奏でながら。
 (以下は、その一部)

        

  

  

  
      いただいたコーヒーとケーキ           マイカップとなった下和弘さんの作品

          
                          室内の花々

         

  

                          庭の植物
                     
        

        

             


 ※ 23日夜、敬川の蓮敬寺で行われた「安保関連法案の撤廃を求める100人集会」の講演資料をYさん
   にいただいた。
   (S寺のGさんから、その集会の案内状をいただき、意義ある催しのあることは知っていたのだが…。)

   プリントを読み、その内容に心を動かされた。
   森達也さんの考え方に共感した。
   早速、タブレットのYouTubedeで、<姜尚中と森達也>の対談を聞いた。
   ますます、その著作を通して、作者の考えに触れてみたくなった。
   今夕、森達也氏の2冊の本を、アマゾンに注文した。

   また、日を改め、稿を改めて、上記の件については書きたいと思っている。   
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処暑

2015-08-23 | 身辺雑記
 今日は、二十四節季の一つ「処暑」である。
 <暑さがやむの意>という。
 「処暑」と聞くだけで嬉しい。
 秋、遠からじ、と。

 庭の風情に、秋を探す。
 先日来、秋明菊(白)の蕾が膨らみ始め、今日あたり、かなり大きな塊となった。
 こうなってから、開花までには、結構時間がかかる。
 花々は、決して咲き急がない。

        

 身近に置く『歳時記』を、<夏の部>から<秋の部>に替えた。


 空も、秋めいて。 (^^♪(^^♪(^^♪

    

    
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回想(ユウスゲの丘)

2015-08-22 | 身辺雑記
 ユウスゲの花を見に、県境の丘に行った日のことを、ふと思い出した。
 案内してもらった友人に尋ねると、それは平成18年だったと思うとのこと。

 私は、その花のことをブログに投稿したのかどうか、全く思い出せない。
 そもそも、ブログを始めたのは、いつだったのだろう?

 遡って調べるのは、わけないことである。
 確認してみると、スタートは、2006年3月30日であった。

 〔2006年3月31のブログを読み直したところ、3月29~31日にかけての3日間、ソコロシステムズで、<ブログの講習>(1日2時間)を受けていることが分かった。
 2006年=平成18年。
 そこが、私のブログの出発点である。
 当時、無料ブログに掲載できる写真は、小型サイズに限られていた。
 サイズが自由に選べるようになったのは、2009年あたりからのようだ。〕

 ユウスゲについては、2006年8月1日のブログに書いていた。しかし、写真は当然、小型サイズであった。
 そこで、昔のファイルを開き、ユウスゲの写真を改めて眺めた。

 むしむしした暑い夏の夕べ、県境の丘にたたずんだ日のことを思い出した。
 県境の丘一面に、ユウスゲの花は咲いていた。

 初めて求めたデジカメで撮った写真を、ここに再現しておこう。
 (今のカメラなら、もう少し上手に撮れたのでは? と思いつつ。)
 
      

      

      


 ユウスゲの夏から、9年が過ぎたことになる。
 ブログ開始からは、9年と5か月。

 さて、今後、どこまで続けられるのだろう?
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読書あれこれ

2015-08-21 | 身辺雑記
       
                   (あ・そ・び)  

 以下、8月に読んだ本の一部について。

           『女に』 (谷川俊太郎詩集 佐野洋子絵)(集英社・2012年刊)
             ※ 1991年、マガジンハウスより刊行された『女に』を底本とし、
               新たに英語訳を付して、集英社より出版されたもの。

             

 詩人・谷川俊太郎氏(1931~)の36篇の短詩(4行から7行)が一方のページに(同ページの左下に英訳詩)、もう一方のページに、詩に関連して、佐野洋子さん(1938~2010)の絵(エッチング)が、添えられている。
 二人の結婚の時期は、1990~1996であることから考えると、この共著は、結婚された直後、出版されたことになる。
 愛の詩集である。
 いい詩であるが、感想を書くのは意外と難しい。

 そこで、この本の帯に記された丸谷才一氏(1925~2012)の評の一部を引用させてもらうことにする。

 <…成熟した大人である詩人は、この恋を、個人のはかない事件としてあつかはない。
  悠久の時間のなかに位置づけて、人間の愛の代表としてそれを祝福する。>


                          (8月初旬、山口の書店で求めた本) 

             
           
           『笑う子規』 (正岡子規著・天野祐吉編・南伸坊絵)(筑摩書房・2015年刊)

             

 この本の楽しさは、三人の人の顔が見えることである。
 正岡子規・天野祐吉・南伸坊3氏の表現を通して。

 本の内容をコピーすることが禁じられているので、本のカバー(上の写真)で紹介すると、
  
 枝豆ヤ 三寸飛ンデ 口ニ入ル

 に添えて、南伸坊さんのカバー絵が添えられ、さらにコラムニスト天野祐吉さん(1933~2013)の短文が載っている。
 この句の脇には、

 <ゆでた枝豆のさやを指でつぶすと、中の豆がぴゅっと飛び出す。
  それをひょいとあけた口で受け止めるんだ。
  ちょっとやってみせようか。それ、ぷしゅっと……あ!
  そう、人生失敗もある。>


 と、書いてある。

 句を読んでおかしみを感じ、絵でおかしみが二乗し、添えられた文で、おかしみが三乗にもなるというわけである。

 若くして病臥の身でありながら、正岡子規(1867~1902)は、冗談めいた珍句を多数詠んでいる。
 偉人子規のの表現に、感心する。
 この本には、140余の俳句が取りあげられている。

 くすくす笑いをしているうちに読み終わってしまった。
 ユーモアは、いいものだ。

        (南伸坊『笑う漱石』<8月9日ブログ>を読んだ後、アマゾンに注文して求めた本) 

 

           『考えられないこと』 (河野多恵子著) (新潮社・2015年刊)

           
           本の表紙(左)・本のサック(右)

 この本『考えられないこと』(新潮社・2015年刊)は、河野多恵子さん(1926~2015)の最後の作品集である。
 今年の1月29日に故人となられた。

 短編小説三篇「好き嫌い」「歌の声」「考えられないこと」。いずれも、2014年の文学雑誌に発表された作品である。
 さらに、詩 三篇と日記。

 小説は、私小説の類で、思い出が書かれている。
 詩と日記は、『水火』(同人誌 三号)に2008年に掲載されたものである。

 取り立てていうほどのの内容ではないのだが、それでも、上質な文章(当たり前なことだが)に接した喜びがあった。

                        (8月初旬、山口の書店で求めた本)
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