昨日届いた赤旗の日曜版(11月20日号)の<ひとインタビュー>に、安野光雅さんが登場された。
<想像は創造につながる>の見出しで、氏の来し方(現在85歳)や芸術への思いが語られていた。
『絵本展』(現在は、福岡県立美術館で開催)が、巡回中とのこと。
文中に、
<1945年に召集され、香川県へ。19歳の初年兵は「教育」という名のいじめや食べ物の少ないことに苦しみました。>
と、語っておられた。
安野光雅氏(1926年生まれ)の若き日には、戦争に翻弄された苦悩の日々があったのだ。
氏に7年遅れて、この世に生を受けた1933年生まれの私は、幸いにも、戦時下の不幸な体験を最小限に留めることができた。
昨日のブログに取り上げた赤瀬川原平著『個人美術館の愉しみ』にも、たまたま、安野光雅氏について書かれた文が載っていた。(第36話 津和野町立安野光雅美術館 <昔の教室のある美術館>の中に)
<…(安野光雅氏は)終戦の年の四月、陸軍船舶兵として召集され、終戦後の九月に復員している。戦中派のぎりぎり最後の世代に入る。>
と。
赤旗日曜版でご本人の語られた話に符合している。
<戦中派>という表現のところで立ち止まり、今では、<戦前派>は勿論、戦中派の生存も少なくなっていることを思った。
今や、<戦後派>中心の時代さえ、過ぎ去ろうとしている。
戦後派を意識している人も、少なくなっているのが現状だろう。
もはや、現存の多くの人にとって、戦前派・戦中派・戦後派の語は、死後化しているのかもしれない。
私は、12歳で終戦を迎えた。
幼少時は戦中であり、ちょうど物心つくころ、敗戦とともに世の中は一変し、戦後の日々がスタートした。
私の場合、戦中派とはいえないし、完全な戦後派でもない。
その両者の過渡期を生きたというのが、一番当たっているのかもしれない。
個別の存在は、生きる時代を選べない。
そして、人はみな、自らが誕生した時代と無縁には生きられない。
それぞれの時代背景は異なる。が、それぞれの影響下で、人は生きていかざるを得ないのだ。
安野光雅氏の戦時下の話から、そんなたわいもない、至極当然のことを考えていた。
午後、雨の止み間に、庭に下りた。
赤い南天の実が、雨滴を留めているのを眺めるために…。