今日、一編のいい詩に出合った。
いいと思うのは私の主観であって、客観的にすべての人の胸に響くものかどうかは分からない。また、詩評家の眼には、どんなふうとらえられる詩なのか、それも分からない。
山口県立図書館で、久しぶりに、雑誌に掲載されている詩を読んで、いい詩だなと思い、持ちあわせの用紙の端に書きとめた。
殴り書きのメモが失せないうちに、ここに書きとめておこうと思う。
nothing 長田弘 (雑誌「文芸春秋」6月号P89)
銀色の風船が、一瞬、空に上ってゆく。
日に燦(きらめ)く鏡のようなビルのあいだを
風に追われて、逃亡者のように、
上へ、上へ、上ってゆく。
遠くへ、小さくなった。
――空に、消えた。
気がつくと、みんなが、
足をとめて、風船の行方を見つめていた。
青空ノナカノ無。
人生はことばのない物語にすぎない。
帰宅後、書棚にある「現代の詩人」12巻(中央公論社)中に、<長田弘>があったような気がして、探してみたが、その名はなかった。
大岡信編「集成・昭和の詩」(小学館)には、三篇の詩が載っていた。
長詩「われら新鮮な旅人」(昭和40年、思潮社刊『われら新鮮な旅人』より)
「言葉のダシのとりかた」「ふろふきの食べかた」
(昭和62年、晶文社刊『食卓一期一会』より)
後二編は、「ダシのとりかた」「ふろふきの食べかた」など、ごく身近な日常茶飯のことと結び付けて、<言葉の本当の味><生き方>を歌い上げている。
前者の詩の最後は、次のようにうたわれる。
他人の言葉はダシにはつかえない。
いつでも自分の言葉をつかわねばならない。
後者の詩の、最初の一連には、こう書かれている。
自分の手で、自分の
一日をつかむ。
新鮮な一日をつかむんだ。
スがはいっていない一日だ。
手にもってゆったりと重い
いい大根ような一日がいい。
平易なようでいて、深い味わいを持つ言葉、じかに心にしみ込んでくるような表現がいい。私は精神構造が単純なので、こむずかしい観念用語で彩られたような詩は苦手だ。考えに考えて、やっと意味が分かる詩ではなく、言葉がじんわりと、ひとりでに、心に響いてくるような詩が、私の好きな詩である。
今日は、「nothing」という、私の好みの詩に偶然出会い、一語一語選び抜かれた表現に詩を感じた。特に終わりの二行、<青空ノナカノ無。人生はことばのない物語にすぎない。>という表現に接し、詩語の持つ深い味わいに暫く沈黙し、その言葉の余韻に浸った。
この詩の作者、長田弘の詩作品や評論を読みたいと思った。特に『食卓一期一会』は、ぜひ読んでみたい。