ぶらぶら人生

心の呟き

この道は、……。

2006-05-31 | 身辺雑記

 国道を逸れて、燕の巣探しをしていたら、懐かしい道に出合った。
 今は田んぼの畦道も舗装されてるところが多いのに、ここには昔の面影がある。
 車の轍のところだけ、二列に土の部分があって、道の両縁と、道の真ん中に、こんもりと草が生えていて、田舎を感じさせる道。
 私が子どものころには、道といえば、これが普通の道であった。特に田んぼへ行く畦道は、もっと道幅が狭く、人や牛が通れるほどの、雑草の茂った細道であった。今は、農作業にも器械が使われ、人も車で田んぼに出向く時代になった。

 薄暮の中に佇み、昔歩いた道を懐かしみながら、北原白秋の歌を口ずさんでいた。

 「この道は いつか来た道
  ああ そうだよ
  アカシヤの花が 咲いてる」

 考えてみると、白秋の「この道」は、こんな田舎道ではないようだ。アカシヤの花が咲いている道、おかあさまと馬車で行った思い出のある道、が歌われている。
 そういえば、この歌詞は、白秋が北海道を旅したとき、札幌の思い出をつづったものであると、何かで読んだような気がする。どこかしゃれた感じがある。素朴な田舎風情の道ではない。
 でも今、私の佇んでいる田舎道には、<この道はいつか来た道>と思わせ、郷愁をかきたてる何かがある。
 私の心は、どうして、こうも過去に向かうのだろう。未来に夢を抱けないからだろうか、そんなことを考えながら、黄昏の道を歩いた。

 若い時には、高村光太郎の詩、「道程」を愛誦した日もあった。

 「僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る」

 自恃の心をもって、自らが新たに切り開くことによって出来る道、前人未踏の道を、人として、芸術家として、光太郎は生きようとし、実際に生きた。
 私自身も、ある程度の信念を持って、これまでの人生を歩んできたようには思う。多くの人が歩んでゆくから、その道を歩いてゆこうとは、一度も思わなかった。それはいささか常道を外れる生き方だったようにも思う。が、今、後悔は微塵もない。ただ、光太郎のように、後世に残す業績はなしえず、人から見れば、取るに足りない人生であった、ということになるのだろう。しかし、人それぞれの人生は、他人によって評価される部分だけで、その価値が決まるものではあるまい。自分の中で、顧みてこの道以外に生きようがなかったと、自分に納得のゆく人生であれば、いいのではあるまいか。

 なんだか幼い、独りよがりの人生論を展開することになってしまった。「道」というものは、具象的な道であっても、ふと人に、<来し方行く末につながる人生の道>を考えさせる不思議な魔力があるような気がする。
 光太郎の詩では、妻智恵子を詠った詩はすべて好きだが、生き方を詠った詩としては、やはり「牛」と題された、長い詩が好きだ。
 「牛はのろのろと歩く」という、牛の歩みの描写をリフレインしながら、牛が内に秘めた力強い姿を謳いあげている。描かれた牛の姿は、光太郎の望む人生のあり方でもあっただろう。その詩を好きだと思うのは、私の心にも、<人生、かくありたい>という思いがあるからだろう。

 黄昏の道を歩いて帰る途中も、私は「道」のことを考え続けていた。
 一枚の絵が頭に浮かび、帰宅後、画集を取り出して眺めた。私の好きな画家の一人、東山魁夷の画集である。私が持っているのは、<1974年に集英社から発行された『現代日本の美術』の第五巻「東山魁夷」>である。
 歩きながら思い出していたのは、巻頭に出ている「道」と題された図版であった。
 単純といえば、単純この上ないような構図の絵である。
 中央に一本の道が、遥かかなたに通じている。まっすぐな、薄い青を帯びた白い道。直線的に伸びた前方で、わずかに右にカーブしている道。
 道の両脇と向かいの丘には、初夏の緑。その上の晴れた、明るい青空に、掃いたように白い雲が流れている……。単純な構図だが、彩色は実に丁寧に描きあげられている。
 作品解説によれば、1950年の作品。<十数年前、一度スケッチしたことのある青森の種差牧場の道を、どうしても描きたくなり、昭和25年の夏、再びそこを訪れて描いた。昔の記憶のなかの道と、目の前にある道との間には、かなりの隔たりがあったが、彼の心のうちに出来あがっていた心象に焦点を絞って、しっかりと潤いのある道を描いた。>と、解説している。

 東山魁夷自身は、この作品について、次のように述べている。

「この道を描いている時、これから歩いてゆく道と思っているうちに、時としては、いままで辿って来た道として見ている場合もあった。絶望と希望とが織り交ざった道、遍歴の果てでもあり、新しく始まる道でもあった。未来への憧憬の道、また過去への郷愁を誘う道にもなった。しかし、遠く丘の上の空を少し明るくして、遠くの道が、やや、右上がりに画面の外へ消えているようにすると、これから歩もうとする道という感じが強くなってくるのだった。」 

 東山魁夷にとっても、「道」は、たえず過去につながるものであり、同時に未来に通じるものでもあったようだ。
 魁夷は、優れた文章家でもあると思う。絵も文章も好きで、新潮社から、1978年~1980年にかけて発行された、「東山魁夷画文集」10巻・別冊1巻も買い求め、書棚に並んでいる。絵を眺め、文章を拾い読みした程度で、完読したわけではない。
 (私に読まれることを待っている本が、書棚に多すぎる。)

 田舎道が、人生をあれこれ考えさせてくれた、夕べのひと時だった。
 


この記事をはてなブックマークに追加

「亀鳴く」 そして、スッポンモドキ

2006-05-30 | 身辺雑記

 5月29日、朝日新聞「歌壇・俳壇」のページの、短歌と俳句の両欄に、「亀鳴く」という語があるのに気づいて、<はて?>と、思った。素朴に、<亀は鳴くのであろうか?>と。

 亀の子と単身赴任五年目に淋しきときは亀も鳴くなり (可兒市) 豊田正己

 亀の如鳴きてカメのごと歩む                (長岡市) 内山秀隆

 短歌は、永田和宏選と馬場あき子選の、それぞれ六番目の歌として採用され、☆印が付いていたので、目に留まった。

 単身赴任で家族との別居生活が五年も続いている。その無聊を慰めてくれるのは亀の子のみ。自らの寂寥を、亀の子も共々淋しんで鳴いている、というのだろう。
 現代社会には、共感を覚える人たちが多いにちがいない。
 まさか亀は鳴くまい。しかし、亀を道連れに一緒に寂しんでいるところがなかなかいいな、と思った。仮に私が選者であったとしても、やはり選びそうな歌だ。
 作者は、水槽の中の子亀に、「なあ、寂しいよなあ。そろそろ帰りたいようなあ」と語りかけ、子亀が、それに応え、同感の意をこめて鳴いたように思ったのだろう。なんとなく肯ける。

 俳句の方は、金子兜太選の第一句に選ばれている。
 選者評には、<「亀鳴く」の春季語を少しひねって、歳とともに、のそのそゆるゆる暮らしている自分のいまの姿を、おどけて書く。>とあった。
 この文を読んで、「亀鳴く」が春の季語であることを知り、やはり<亀は鳴くのであろうか?>とか、<なぜ春の季語?>などの疑問を持ちながら、歳時記を開いてみた。
 歳時記は、こう説明している。

<春も夕暮の頃、雄亀(亀はカメ科の爬虫類の総称)が雌亀を慕って鳴くというが、実際には鳴かない。古くから季題として定着しているのは、藤原為家の題詠歌「河ごしのみちのながぢのゆふやみになにぞときけばかめぞなくなる(『夫木(ふぼく)和歌抄』)に因ると言われる。春夕暮の感じと相俟って俳人に好まれる季語である。[中原道夫]>

 
「俳人に好まれる季語」と記されていたことを証明するように、

 <亀鳴くや皆愚かなる村のもの  高浜虚子>

に始まって、計21句が紹介されている。が、私には、俳人的な感覚が磨かれていないせいか、「亀鳴く」の季語がピンとこない。虚子の句にしても、季語を含む、切れ字の<や>までの初句と、二句三句との関連が分かるようで、「うん、なるほど!」という感動にまでは高まり得ないもどかしさを覚える。
 結局、句の表現するものも、「亀鳴く」の季語が持つニュアンスも、ともに掴みきれていないということだろう。
 機会があったら、俳人に説明を求めてみたい。

 その点、朝日新聞掲載の句は、「亀鳴く」が、春の季語ということさえ知っていたら、選者の解説抜きでも分かりそうだ。私自身にも当てはまるような気がし、思わず微苦笑しながら読んだ。

 新聞の歌壇・俳壇から、「亀鳴く」とい季語を一つ勉強したばかりでなく、インターネットで、カメについてもあれこれ雑学を得た。<日本広し!>という思いだ。各地各所から、いろいろな知識が発信されているのに、驚き感心する。その知識・知恵をいただいて、感謝もしている。
 カメについて調べていた時、スッポンモドキのことも出ていた。私はひと月に一度お目にかかるスッポンモドキを思い出した。この記事に添付した写真がそれである。私の通院する医院の、水槽に飼われているものである。
 二年前、十年ぶりにその医院に行ってみると、かつてカメのいた水槽に、カメに似た、しかしカメとは異なるものがいる。看護婦さんに尋ねてみると、
「スッポンモドキというらしいですよ」
と、教えてくださった。
 「もどき(擬き)」とは、偽者くさい。スッポンに似ているが、スッポンとは異なりますよ、と命名されたのだろう。「もどき」を接尾語に付けられた動植物は、ちょっと気の毒で、かわいそうな気がする。
 興味本位に、広辞苑の「逆引き辞典」で、「もどき」の付くものを調べてみたら、ある、ある。「アゲハモドキ」に始まって、「アユモドキ」「ウメモドキ」と続き、最後の「ヤスデモドキ」で、合計26。<気の毒族>は結構いる。勿論スッポンモドキも出ている。

 この水槽のスッポンモドキは、二年前はもっと小さかった。今では徐々に大きくなり、患者の目を楽しませてくれる。
 もう一つ大きな水槽には、幾種類もの熱帯魚が、多数泳いでいる。
 いずれも、お医者様の、患者に対する配慮なのだろう。
 スッポンもモドキは、一匹だけだ。独りで寂しくはないだろうか、といつも水槽の中を覘きみる。
「いやア、結構楽しいよ。こうして外の世界をのぞくと、国道を走る車も眺められるし、歩いているのはお年寄りの、ヨボヨボで、おぼつかない人たちばかりでつまらないが、それでも観察できるのは楽しいものよ。オレは、毎日決まって、一定の食べ物を貰って、食うには困らぬ。住めば都よ。人間様は<足ることを知らぬ>から、不幸なのじゃ。中国のお偉い方、老子様といったかな、あの人の教えに<知足>というのがあるじゃろ。」
などと言い出しかねない姿で、悠然と水中遊泳を楽しんでいる。

 季語とは無関係なことだが、カメの仲間ということで、スッポンモドキにまで筆が及んでしまった。
 インターネットでは、「カメには声帯がないから鳴かない」と科学的根拠に基づいて語る人がいるかと思えば、実際に飼育している人の中には、「カメは鳴きます」と力説している人もある。
 「亀鳴く」という季語に関連して、「蚯蚓鳴く」という、秋の季語があることをも教えられた。
  
 


この記事をはてなブックマークに追加

ツバメのお話

2006-05-29 | 身辺雑記

 ツバメにも、いろいろな種類があると知って、ツバメ探しの散歩を、日を改めて三度試みた。
 物好きな話である。
 よほどの暇人なのだと、人は思うだろう。

 一度目は、歩いて二十分程のところにある、簡易郵便局に出かけた。そこに巣があると聞いて。
 確かに完成した巣があった。が、ツバメの姿はない。産卵前なのだろう。自らの食糧調達に出かけているらしい。
 帰途、まだ丈の伸びない稲田の上に、四羽のツバメがすいすいと低空飛行しているのを見つけた。田んぼにいる虫を捕っていたのだろうか、田の面を掠めるように飛んでいた。だが、私の見た巣の居住者なのかどうか、確かめるすべはない。
 私の気配に気づいたらしく、ツバメは一斉に田んぼを離れ、二羽は遠くへ飛び去り、後の二羽は、舞い上がって電線に止まった。
 電線にツバメ、これはよく見かける構図だ。

 その日、今年初めて、ツバメの巣を自分の目で確かめ、滑空の姿も、電線に憩う姿も見て、安堵した。数は減っているらしいが、まだツバメの棲息できる状況にあるのだと。

 イワツバメが巣をかけている家があると聞いて、その家を探しに出かけた。
 二階建ての、高い建物の屋根下に、郵便局長さんが教えてくださったとおり、巣があった。普通のツバメの、あのお椀状の巣ではない。高くてはっきりとは分からないが、入り口が狭く、細長い感じだ。
 私が物珍しそうに見上げていると、傍に車が止まった。知人の公民館長さんだ。窓を下ろして、「何事ですか」と尋ねられ、ツバメの巣を眺めているのだ、と話す。
 「ああ、腰赤ツバメの……?」
 「……? イワツバメでしょ?」
 私は、局長さんの話を信じて、その巣を見にきていたのだ。
 「あれは、腰赤。……ホラ、飛んでるツバメ、腰の辺が赤いでしょう!」
 数羽が小川の水面をすれすれに飛び交い、あるツバメは、巣へと一直線に飛んでいく。もう雛が誕生しているのだろうか。
 すばやい動きに目がついてゆかない。腰周りの赤色を確かめることはできなかった。が、先日見た、稲田の上を飛び交い、電線に止まった、あのツバメより、やや大型だ。
 「普通のツバメより、少し大きい?」
 「うん、尾が、ちょっと長いかもしれんね」

 公民館長さんは、句作をなさる。地方版の俳句欄で、時折お名前を拝見する。いい句だな、と思うことも多い。最近、掲載句を見かけないのは、投稿されないのか、選者が代わったせいなのか、いずれかだろう。詮索はしないことにして、暫く鳥の話をした。
 私は、フクロウの声を、前夜聞いたばかりだったので、その喜びを語った。
 日ごと、ウグイスやホトトギスの声が聞ける楽しみも、語り合った。
 「コジュケイも、時折鳴いてるね。キジの仲間。<チョットマテ チョットマテ>いうて、鳴いている……」
 私には聞き覚えがない。さすが俳人、自然観察が私以上に細やかだ、と感心する。
 「<ケーン ケーン>はキジですよね。キジの声は時々聞くけど。……コジュケイ? <ツツピーツツピー>とは鳴かない?」
 「さあ?」
 「聞きなしは、人によって違いますよね。<チョットマテ チョットマテ>と<ツツピー ツツピー> 似てないかしら?」
 「……似てなくもないかなあ?」
 (だが、<ツツピー>と鳴く鳥は、キジの仲間ではあるまい。声が優しすぎる。)
 日没が遅くなり、空はいつまでも暮れなずんでいる。
 公民館長さんは、ちらと時計に目をやり、
 「今からもう一息、野良仕事!」と言い、手を振って、さよならの挨拶をし、車で東へ向かわれた。

 帰宅後、真っ先にインターネットを開き、イワツバメと腰赤ツバメについて調べてみた。大きさといい、巣の形といい、私の見てきたのは、公民館長さんの言われるとおり、腰赤ツバメらしい。
 私はずっと、今の時期、燕尾服姿で軽やかに滑空し、電線に羽を休めているのは、すべて等し並に<ツバメ>だと思っていた。種類がいろいろあるなど、考えてもみなかった。
 調べてみると、ツバメ・イワツバメ・コシアカツバメの他、ショウドウツバメ(北海道やロシヤに棲息)・リュウキュウツバメ・ヒメアマツバメなど、いろいろあるらしい。
 体長まで紹介してある。
 一番大きいのが、今日見てきた腰赤ツバメで、18.5センチ。ショウドウツバメハは12,5センチと、小型らしい。ごく普通のツバメは、17センチ、と書いてあった。
 腰赤ツバメは、<入り口がトンネルのような徳利型の巣を作る>との紹介があり、今日目の当たりにした巣にそっくりだ。イワツバメについては、<集団営巣することが多い>などの説明がなされていた。
 今まで、一番見慣れてきたのは、お椀型の巣を作る、いわゆるツバメなのだろう。昔から家の軒に巣作りをし、人々に親しまれてきた、あのツバメ。人によっては、家ツバメとも、呼んでいるらしい。

 日を改め、カメラを持って、また腰赤ツバメの巣のある家に向かった。
 折しも、仕事を終えて帰宅される局長さんに会った。ニコニコ顔である。
 「卵を産んだよ!」 
 と、弾むようにおっしゃる。先日局でお会いした時、郵便局の入り口に、折角板を設けてやったのに、ツバメが居ついてくれない、と嘆いておられたのだ。
 私は、その日、局に入ろうとして、下に落ちているツバメの糞に気づいて、上を見上げた。ツバメのいる気配はなかったが、板の上に巣があるらしい。
 用を済ませた後、暫くツバメ談議となったのだった。
 「よかったですね。そのうち雛がかえったら、見に行きます!」
 張り裂けそうに口を大きく開き、全身口になって、餌を求める子ツバメの姿が脳裏を掠めた。なんて可愛いのだろう、と眺めてきたが、子ツバメにとっては、生存をかけた、生きんがための、必死な闘いなのかもしれない、と考えると、憐憫の情もわいてくる。でも、やっぱりあの姿は愛らしい!
 私は、少し躊躇いもあったが、思い切って局長さんに言った。
 「ご近所のツバメは、イワツバメではなくて、腰赤ツバメのようですよ」
 私はインターネットで調べた経緯を説明した。
 「そう?、腰赤ツバメ、ね。僕の勘違いだったか」
 局長さんは、私見に固執される様子もなく、納得の表情をなさった。
 私はほっとした。

 郵便局の入り口の、あの高い巣に、雛の姿を見られる日が楽しみになってきた。
 幾羽の雛が誕生するのだろう?
 みんな無事に巣立つとよいのだが……。見ぬ前から、そんなことを念じた。


この記事をはてなブックマークに追加

馬鈴薯の花

2006-05-26 | 身辺雑記
 散歩がてら、国道をそれて少し脇道に入る。すると、住居に近い、小さな畑に、季節の野菜を植えているところが多い。
 このところ、馬鈴薯の緑の葉っぱがよく茂っている。その向こうには、空豆が植えてあったりする。
 私は眺めることを楽しんで散歩する。
 自作の経験は全くないのだが、子どものころ、周囲に野菜畑のある環境で育ったので、ありきたりの野菜であれば、おおよその見当はつく。周りには今よりずっと沢山の畑があり、農家の大方は、自給自足の生活をしていた。
 今は、私の周辺に、農業だけで生計を立てている人はいそうにない。したがって、畑や田んぼの一部は休耕田となっている。<桑田変じて滄海となる>ほどの変貌ではないが、かつては肥沃の土地だったところが、荒れたままになっていたり、水仙畑に変わったりしている。

 空豆の葉っぱは、幼い日の遊びの具だった。一枚の葉の先端を指で切って擦ると、葉の表と裏が分離する。表は厚手の緑で、裏は薄手の透明な幕になっている。指で優しく上手に擦らないと、忽ち破れてしまう。それを壊さないようにふくらすだけの単純な遊びだった。あの優しい葉っぱには、子どもの小さな指がふさわしいのだろう。
 今は、そんなことをして遊ぶ子どもはいないにちがいない。
 田舎に育てば、農家の子どもでなくても、自然の中で、そこにある草花や野菜、動物たちと触れ合うのが、ごく自然なことであった。
 私は今でも、田舎の自然の中に身をおくと、ひとりでに心が子どものころに帰ってゆく。
 葉っぱを一枚いただいて、空豆の葉の、青臭い香をかぎながら、それで遊んでみたい誘惑に駆られたが、生憎、私の位置からその畑にたどり着くには遠い。踏み込んで、畑荒らしと間違えられてもいやなので、やめておいた。

 馬鈴薯の育ちも、植え時や日当たり、様々な条件で異なるのだろう。
 歩いているうちに、すぐ傍に馬鈴薯が花をつけている畑に気づいた。近づいてよく見ると、中央にある花蕊が思いのほか大きく、黄色に輝いている。
 私は、その花にカメラを向けながら、幾度も口ずさんだことのある歌を思い出していた。
 
 馬鈴薯のうす紫の花に降る
 雨を思へり
 都の雨に

 
石川啄木の『一握の砂』に出ている歌である。

 中学・高校の六年間は、往復二時間をかけて汽車通学をした。列車の中だけが、勉強の時間であり、読書の時間であり、友人との会話の時間だった。
 中学生の時、通学の車中で、石川啄木の歌集『一握の砂』『悲しき玩具』を、友人と一緒に諳んじた。大方は忘れてしまったが、折に触れて思い出す歌のなかで、圧倒的に多いのが啄木の歌である。啄木の歌は中学生にでも分かりやすかった。が、歌の真意を正しく掴んでいたわけではない。口語調だし、口ずさみやすかったのだろう。
 私は高校を卒業するまで、どちらかというと、数学や理科など、理数系が好きでもあり、得意な方でもあった。背伸びして、「遺伝」という雑誌を毎月購読したり、生物部に属して、顕微鏡をのぞいたり、放課後は、胴乱を肩にかけて、植物採集に出かけたりしていた。生物の先生への、少女らしい、ほのかな憧れもあったのだが。
 それでいて、そのころから文学にも多少の関心はあったらしい。精神的に幼い子どもだったのに、なんとなく啄木が詠う生活苦が分かるような気がしていた。
 戦後の、まだ不安定な時期で、父ひとりの働きでは、生活が決して楽ではなかった。そうした当時の家庭事情が、啄木の歌を身近なものに思わせたのかもしれない。

 大変恵まれていて、悩みの少ない人には、文学との、深い縁は生じにくいのではないか、と今でも私は思っている。

この記事をはてなブックマークに追加

五味保義の歌

2006-05-25 | 身辺雑記

 岡井隆編「集成・昭和の短歌小学館)
 五味保義(1901~1982)<宮地伸一>選より

雨戸あけず幾日にならん勤より疲れかへりて服ぬぐ寒さ
暮しゆゑ命おとろへゆく母がときにいきどほり言ふは切なし
知床の岬の山にかたまりてのこれる雪は海の上に見ゆ
                         (昭和16年刊「清峡」より)
ひるがへりとぶせきれいの胸毛黄に光るを見つつ滝の下に居り
峡(はざま)より空にひびきて鳴く蛙信濃の家に来り寝る夜を
くらやみの室に入り来て声幼く鳴く馬追は妻臥すあたり
近づけば夜の鳥さわぐ樅一木梢より白々と月光を浴ぶ
ただ青くかさなる丘の夕かげを恋ひ来てここにゆく道は絶ゆ
黒姫に寄り添う如く月は沈み山片がはのほの明りせる
                          (昭和41年刊「小さき岬」より)
怒り発して言荒立てし我なれど一人になればおのづから悲し
かくの如片端の吾となりはてて夜ごと夜ごとの夢のはかなさ
今朝もまた靴はくことに苦しみて汗かきながら息づきにけり
片手なれば納豆食ふに苦しみて丼の飯に口をおしつく
果実の名問ひつめられて答へ出ずわが身なさけなるばかりなり
脱字誤字度々にして吾妻にさへもよみにくき文字となりたり
役に立たぬ吾身になりて世の隅に吾生きて居り人よとがむな
もの言はぬ男となりてわが居れば世の常人はもの多くいふ
いささかの問につまりて居る吾のいかなる面をしてゐつらむか
自信をもて自信をもてと妻はいふ少年に何かものいふ如く
いとまあれば病気の経過たどりたどり悲しくなれば眼をとぢにけり
                           (昭和46年刊「病聞」より)

 初めて、この歌人の歌を読んだ。
 前の二歌集は、非常に写実的で、分かりやすく、心に受け入れやすい。
 黒姫を歌った歌は、私の選んだものの他にも、幾首か取り上げられていた。妙高の歌も。曾遊の地が詠われているだけで、特別な懐かしさを覚える。自らの思い出と重ねあわせて。
 が、この度、私が特に関心をもって読んだのは、「病聞」であった。昭和46年に、この歌集が出版されているところから察すると、五味氏が脳出血で倒れられたのは、四十歳代という若さだった、ということになる。
 歌としての評価がどうなのかはよく分からないが、療養中の苦悩や不自由と闘う姿が、肉声を聞くように届いてくる。また、病む自分を客観的に見つめた歌もある。
 これ等の歌を読みつつ、これは人ごとではない、と思った。いつ、自分がそんな境遇に置かれないとは限らない。その時、この歌人のように、悲しみを悲しみとして、苦しみを苦しみとして、そこにある自分をあるがままに眺められるものかどうか。もっとうろたえて、自分を完全に見失うのではないだろうか。
 考えると、この余生の先にあるものが不気味になる。が、先を案じることはやめて、今を生きよう。ブログにものが書けることを、今の幸せとして。
 


この記事をはてなブックマークに追加

山笑う

2006-05-24 | 身辺雑記
 誰にも思い込み、思い違いというものはあるだろう。
 私には、結構それが多い。
 最近は、年齢から来るらしい思い違いも増えているようだ。従って、昔ほど自分が信じられないし、次第に自己主張もしなくなった。私の方が違っているかもしれないと、まず謙虚に一歩ひいて、よく考えてみるようにしている。

 そうした日常的なことではなく、つい先日、相当以前から信じ込んでいた間違いに気づいた。自慢にもならないことだから、そっとしておきたい気持ちもあるけれど、私にとっては勉強になったことなので、書き留めておくことにする。

 今は緑が美しい季節だ。落葉樹林も、広葉樹林も、みな装いを新たにしている。その様々な色彩の、階調の美に心を打たれ、山々が美しいと思う。そして、昔の人が、「山笑う」と形容した表現のうまさを、この季節になると思い出しながら山を眺めてきた。
 ところが、先日、私の信じていることに間違いはないだろうなと、ふと疑問をもった。そして、確認の意味で『歳時記』を開けてみたのだった。
 句作などしたことのない私だが、日本語には興味があるので、歳時記は傍においている。現在使用しているのは、講談社から2000年に出版された『新日本大歳時記』全五巻である。写真が多く載っていて、眺めていても楽しい本である。

 まず「夏」部を開けてみた。五月の山は、俳句では夏の季語にはいる。
 後ろの索引で「山笑う」を引こうとして調べてみるが、出ていない。私はいささか焦燥気味に、「春」部の歳時記を取り出した。こちらに出ていた。
 確認するまでもなく、私の勘違い、思い込み違いであることは歴然としてきた。
 
 「山笑う」 <早春の山がうっすらと霞をまとい、艶めいてくることをいう。「春山澹冶にして笑ふが如く」(『林泉高致』山水訓)との中国北宋の山水画家郭煕の言から出たもの。同じように山を擬人化し、夏の山を「山滴る」、秋の山を「山粧う」、冬の山を「山眠る」という。生気が山に兆しはじめた春の胎動を「笑う」と捉えたものであり、花が咲き、霞たなびく春盛んな山の形容ではない。(以下省略) [宮坂静生] >

 「山滴る」 <夏山の形容を「山滴る」という。水の滴りとは関係なく、青葉の蒼翠滂沱たる様を称える。中国北宋の山水画大成者の郭熙の画論で古典的名著『林泉高致』の山水訓に書かれた言葉である。「真山水の烟嵐、四時同じからず。春山澹冶にして笑ふが如く、夏山蒼翠にして滴る如く、秋山明浄にして粧ふが如く、冬山惨淡として睡るが如し」。いかにも画家らしい着眼である。なお本意に従えば「滴る山」の言い方はおかしい。 [筑紫磐井]>

 「山粧う」 <春の山を「山笑う」と形容するように、秋の山の姿を「秋山明浄にして粧ふ如し」と比喩したもの。晩秋黄葉や紅葉に彩られた美しさに、錦繍を身に粧っている山のことをいったものである。 [能村研三]>

 「山眠る」 <落葉しつくした山々が冬の日を受けて静かに眠っているように見えると、山そのものを擬人化したもので、中国北宋の…(以下省略) [能村研三]>

 
以上が歳時記の説明である。
 中国の有名な山水画家の言葉に由来することなど全く知らぬままに、「山笑う」という擬人的な言い方の妙や言葉の響きに惑わされ、私は長い間、私流に誤って使っていたようだ。この季節、人に送る便りに、今までの人生で、何回かは書いてきたのではないかという気がする。
 今なお「山笑う」という表現は、山々が様々な濃淡、階調で彩られる、五月の山にこそふさわしい気がするけれど、それは私の主観的な感じ方なのであって、世間には通用しないことらしい。

 この類の思い違いを沢山しながら、今までの人生を過ごしてきたのでは、と思うと恥ずかしい気もする。けれども、凡庸な人間には、誰にもあることかもしれないと、自らを慰めてもみる。
 誤認を誤認と気づかぬままに、ミスを抱えて一生を終わることも、大いにあり得そうな気がしてきた。他人から見れば、滑稽至極かもしれないが、本人の私は「知らぬが仏」ということで、過ごしてゆくことになるのだろう。

 ついでに、掲載された名句から、一句ずつ私の好みの句を引いておく。

 安曇野の真中に立てば山笑ふ            藤田湘子
 耳成も滴る山となりにけり               川崎展宏
 谷底の朴より山を粧ふらし               皆吉爽雨
 とぢし眼のうらにも山のねむりけり          木下夕爾

 
句の掲載数の一番多いのが、「山眠る」の33句、次いで「山笑う」の19句、「山粧う」の3句、「山滴る」の2句だった。この句数の差には、肯かせるものがあるように思う。
 「山眠る」には好きな句が他にも幾つかあった。
 

この記事をはてなブックマークに追加

フクロウが鳴いた!

2006-05-23 | 身辺雑記

 近年、家にいて、フクロウの声を聞いたことがない。ついに、近くの山には、いなくなったのだろうかと、少し寂しい気がしていた。なんとなく、フクロウは、深山幽谷を好みそうな気がする。私の家は国道九号線に近い。深夜まで車の走る音が聞こえるような山に、住処はもてないというのだろうか、それともフクロウの数そのものが減ってきているのだろうか、折にそんなことを思ってきた。

 昨夜珍しく夜更かしして、十二時を過ぎてしまった。ブログを始めてまだ日が浅いが、<表現の場>を得て、雑文を書くことを楽しんでいる。
 昨夜は、「色と形の美 欅並木」と題して書いていた。大方書いて、投稿寸前に、原因不明のまま、書いた原稿が一行も残らず消えてしまった。
 私の落胆は甚だしかった。椅子にのけぞって、あーあと嘆息!

 これで三度目の失敗である。
 二度は原因が分かっている。ワードで文章を書く時には、同字同句を繰り返したい場合、<F4>のキーを押すと、能率的に、難なく繰り返してくれる。その習慣が身についているので、ブログ原稿を書く時に、ついそれを実践した。
 一度目は、数行書いたばかりの時だった。ブログの原稿では、<F4>キーを使うと、繰り返しの効果がないだけでなく、消去するらしいと知り、失敗から一つ賢くなったと納得し、涼しい顔で書き直しをした。
 二度目の失敗は、原稿終了間際に、またうっかり<F4>キーに手が伸び、折角書いたものを全部失ってしまったのだった。経験から学んだことを生かせず、失敗を繰り返したことが腹立たしくもあり、この時は相当ガッカリした。が、気を取り直して書き直した。書き終えても、失った原稿の方が、いい出来だったような気がし、時間の無駄をした悔しさと一緒になって、投稿後にも、残念な思いが残った。
 三度同じ失敗はしないゾと、このところ<F4>キーには注意を怠らなかった。
 ところが、昨夜また原稿が消えた! これは<F4>キーが原因ではない。理由はよく分からないが、原稿に必要な辞書類を、狭い机の上に沢山置いて仕事をしていたために、マウスが何かに触れて、こちらの意思とは無関係に、画面上に選択項目を表示したのだろう。そして、私の手がマウスに触れた時に、たまたま削除項目が出ていて、それを選択したとしか考えられない。
 今回の失敗から得た教訓。マウスに物が触れ、余計な指示を出すような状況を作らぬこと! 
 もう夜の十一時を回っていたし、諦めようかとも考えた。が、仕上がり近い原稿は消えたけれど、構想はまだ頭に残っている。やはり書き上げてから休むことにしよう、とまた元気を奮い立たせて書き始めた。

 その頑張りに対するご褒美だったのだろうか。
 フクロウが鳴いたのである。
 「ノリツケ ホーセ、ノリツケ ホーセ」と。
 くぐもるような、夜の闇を突き裂くような声で。
 フクロウは、いたのだ。私が深夜遅くまで起きていることが少ないため、鳴く声を聞けなっかただけなのだろうか。

 フクロウについては、以前(1900年)に書いた小文があるので、それを転記しておくことにしよう。

  フクロウは天気の予報官

 
久しぶりにフクロウの声を聞いた。夜更けのしじまの中で。その声にあわせて
  ノリツケ ホーセ ノリツケ ホーセ
  デーシ ホーシ  デーシ ホーシ
 と二通りの言い方を、歌うように節をつけて口ずさんでみる。意味はまるで違うのだが、言葉のリズムは似通っている。
 前者は、私が幼い時からなじんでいるフクロウの声であり、後者は最近読んだ佐藤春夫の「わが生いたち」に出てきたフクロウの声である。
 「ホラ、フクロウが鳴いている。あしたはお天気よ。のりつけして干しても大丈夫なの」。そんなふうに母が教えてくれたのは遠い昔だ。母が反物の洗い張りをするのを手伝った子どものころが思い出される。庭木や縁側の柱などを利用して、長い反物は庭いっぱいに張られていた。その昔から、フクロウは私にとってお天気を運ぶ使者であった。
 ところが、和歌山県新宮生まれの佐藤春夫はお母さんから、フクロウは「弟子欲し、デーシホーシ」と鳴き、「独りりであんまり寂しいので、だれかを弟子に探しているのだ」と教えられたそうだ。幼い日の春夫は、フクロウに連れてゆかれはせぬかと、眠れぬ夜など怖かったという。
 同じ鳥の声を「のりつけ干せ」と聞いたり、「弟子欲し」と聞いたり、地方によって聞き方がさまざまに異なり、その動物への心の寄せ方もおのずから異なっているのが面白い。
 私は、深山の隠者めいたフクロウに、天気を予報する超能力者の面影を想像し、夜の闇を突く野太い声を聞いても、別に寂しいとも不気味とも思わず、あすはお天気らしいと、明るい予兆さえ感じ続けてきた。
 とにかく、幼い心にしみ込んだ先入観の威力は大きいらしい。今晩のフクロウも、やはり「ノリツケホーセ」と鳴いているように聞こえる。


 テレビの天気予報では、今晩から明日の午前中は雨、と予報していた。夜更けの部屋の中にいると、雨が降っているのかどうか分からない。もし降っているとすれば、音なしに降る、しめやかな雨なのだろう。
 私は失敗で意気消沈した深夜に、フクロウの声を聞いて、急に嬉しくなり、ブログ原稿の書き直しも、苦痛ではなくなった。そして、明日は予報と違って、お天気になるだろうと信じた。
 亡き母に、「明日はお天気ですよネ」と言ってみる。
 「フクロウが鳴いてるんでしょ。いいお天気に決まってる」との答え。
 白い割烹前掛けをした和服の母がいて、伸子張りを手伝う少女の私がいた光景は、遠い遠い昔の話になってしまった。

 今日の天気は快晴とまではいかないが、洗濯物を外に干せる日和となった。
 フクロウの予報は当たったようだ。

 添付の写真は、松江のフォーゲルパークで撮ったもの。


この記事をはてなブックマークに追加

色と形の美 欅並木

2006-05-22 | 身辺雑記

 今朝の朝日新聞・「天声人語」には、二十四節気の一つ「小満」の日に、東京・新宿御苑を歩いた記者が、そこで見たもの、感じたことを書いていた。あの字数の限られたコラム記事の中に、新宿御苑の風物が眼に浮かぶように書かれているし、その歴史やオジギソウを小泉総理に結び付けてあげつらう話など、実に面白かった。その展開の妙を、さすがだと思った。

 全文を読んだ後、私の眼は、再び第三段に戻った。そこには、次の文章があった。

<吹き渡る風にそよぐ葉の緑は、深く濃くなったり、浅く淡くなったりする。いったい、目の前に何種類の緑色が広がっているのだろう。若草、萌黄、松葉、青緑、常磐、若竹色……。心身ともに癒される。>

 
「常磐色」とか「松葉色」とかは、私の色表現にはない言葉だ。
 記者が、<……>で省略した色には、どんなものがあるだろう? と考えてみる。
 即座に浮かんだのは、「薄緑」「深緑」「エメラルドグリーン」くらいだ。まだまだあるはずだ。語彙の貧弱さを嘆きながら、長らく書棚に眠らせている一冊の辞典を取り出してきた。
 それは小学館の「大辞泉」

 私は辞書類が好きで、発行されるごとに求めてきた。手元には、岩波の「広辞苑」これは版が改まるごとに買い換えてきた)、講談社の「日本語大辞典」三省堂の「大辞林」などがある。
 現在は、軽便な「電子辞書」を使うことが多く、重たい辞書は飾り物同然になっている……。

 久しぶりに「大辞泉」を開いた。
 辞書にはそれぞれの特色がある。
 「大辞泉」は、付録の形で、色を詳しく取り上げている。
 「カラーチャート 色名358」と題して、色の詳細が掲載されている。
 <赤系の色><橙・茶系の色><黄系の色><緑系の色><青系の色><紫系の色><白・灰・黒系の色> 計、七種類に分類されている。
 今問題の<緑系の色>は、188番~233番まで、実に46種類に、色分けされている。
 記者のとりあげた色や私が思い出した色は、勿論出ている。その他、思い出せなかったが、ごく普通に使う「草色」「抹茶色」「柳色」「暗緑色」「緑青色」「コバルトグリーン」等々、様々な色表現をあげている。
 ついでに「常磐色」の説明を見ると、「マツやスギなどの常緑樹の葉のような色」とあり、「松葉色」は、「マツの葉のような色。古くは深緑の名として用いられた。」と書かれている。
 色の表現は、実に豊かである。

 「心身ともに癒される」緑の美しい風景として、私の脳裏を掠めたのが、山口パークロードの欅並木であった。
 新芽が伸び始めたばかりの頃、柔らかな黄緑色の、小さな葉が、点描で描いたように空を彩る様は、本当に美しい。今は、比較的細めの枝が撓るほど、葉がみずみずしく成長し、緑も濃くなっているが、それはそれで美しい。
 欅の美は、樹形にもある。すっくと直立した幹の美しさ、枝を空に向かって扇型に広げた形のよさは、一樹としての個の美であるが、幾本もの樹が、街路樹として存在する総合の美も、すばらしい。
 山口県立美術館前の欅は、私にいつも安らぎをくれる街路樹でもある。 


この記事をはてなブックマークに追加

こんなところに、ラフカディオ・ハーン

2006-05-21 | 旅日記

 4月28日、「日展」を観るため松江に行った。

 久しぶりの好天。私が松江に行くときは、妙に宍道湖が不機嫌で、濁り水の波立っていることが多い。
 この日は妹夫婦に会い、一緒に日展を観に行くことになっていた。まずは昼食を済ませてからという予定だったが、予約時間に少し間がある。そこで、食事処に車を置き、堀川端に出た。
 今年は春らしい春の到来が遅かったが、ようやく川の水も、空も、春の色を帯びてきた。街路樹の花水木が紅色の花をつけている。

 川を遊覧する舟が通り過ぎてゆく。
 一昨年、昔、職場が一緒だった友人と四十年ぶりに再会し、二人で遊覧船に乗った。ふとその時のことを思い出し、彼女は元気だろうか、と一瞬思う。
 今は、一年に一度、賀状で近況を報じあうだけの交わりが多くなり、思い出は濃いのに、疎遠になりがちな友人が多い。彼女もそのひとりだった。が、同じ県内に住んでいても、出雲と石見の隔たりがあり、機を逸すると生涯会えないままに終わるかもしれない、そんな思いから、出不精な彼女に声をかけ、私の方が松江に一泊して、彼女に会ったのだった。
 あれからまた二年が過ぎている。私はその間、幾度も松江に出向いているが、彼女には会っていない。ホテルから電話したのは、昨年の暮れだったなと、どうでもいいことが胸をよぎった。

 川面からの風のそよぎが、頬に心地よい。
 回想から解き放たれて、後ろを振り向くと、向こう向きに歩いてゆく、後ろ姿の男のレリーフが眼に入った。私の訝しげな様子をみて、
 「ラフカディオ・ハーンですよ」と、義弟。
 「ラフカディオ・ハーンですよね」
 その後ろ姿は、まさしくハーンだった。
 こんなところで、小泉八雲に出逢うとは!

 私たちのいる場所は、「カラコロ広場」というのだそうだ。
 木橋だった頃の松江大橋を人が下駄で渡る、その時のカラコロとなる音を八雲は愛したという。
 八雲でなくても、幼い頃の履物であった下駄には、私自身郷愁を覚えるし、その音は思い出しても、懐かしい響きだ。
 「カラコロ広場」とは、いいネーミングだと思う。八雲が、日本的なものに心を引かれた一面を、下駄の音のカラコロという擬音語で表したところがいい。そういえば、松江には、「カラコロ工房」というのもあるようだ。
 
 後ろ姿というものには、なんともいえぬ寂しさがある。別れを意識するからであろうか。ハーンは、両手に重そうな荷物を下げて、どこに向かうのだろう。松江から去るときの姿だろうか。いったい誰の作品なのだろう? 
 そのレリーフをデジカメに収めて帰ったものの、なんだか気になり、どんな謂れがあるのか妹に尋ねてみた。
 妹は、松江市役所の観光振興課に電話で問い合わせてくれたようで、<船で同行したウェルドンの原画を元に、工事担当者が制作したもの>ということだけを知らせてくれた。ウェルドンについても、詳しいことは知らない。

 像の右下のプレートには、 ラフカディオ・ハーンが次のように紹介されている。

 「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲、1850~1904)は、明治期の日本文化の魅力を「知られざる日本の面影」や「怪談」などの作品で世界に啓蒙した。松江では、英語教師として1年3ヵ月滞在し、この地で妻セツと知り合った。」と。

 名前のみ知って、実を伴わないことが、私には実に多い。ラフカディオ・ハーンについてもそれがいえる。知っているのは、ごく常識的な知識に過ぎない。
 高校の時、英語の副読本で、「怪談」を読んだ程度である。
 それから、ハーンといえば横顔の肖像写真。
 この度、後ろ姿のハーン像が加わった。
 恥ずかしいほど浅薄な知識である。
 1年3か月という短い期間ではあっても松江で過ごし、島根にゆかりのある人だから、もっと勉強すべきかもしれないが、したいことが無尽蔵にあって、なかなか手が届きそうにない。耳学問程度で我慢しておこう。

 日展の各種部門の作品は、いつもの事ながら数が多く、個々の美との瞬間的な出会いを楽しむ程度に終わった。それはそれでいいと思っている。
 作品を観終わって、宍道湖畔に出ると、西に傾きかけた日差しが、湖面に穏やかな色を注いでいた。
 水のある風景はいい。いつもと同じ思いに浸った。 
 
 


この記事をはてなブックマークに追加

山口県立美術館「ウイーン美術アカデミー名品展」

2006-05-20 | 旅日記

 雨がよく降る。今日(5月17日)も、雨。
 小さな旅に出かけよう、と決心したのは、朝になってからだった。一日中雨が降るだろう、と天気予報は言っている。でも珍しく、早朝に目覚めたのだから、好機を逸してはならない。急いで支度する。嵐はいやだが、雨はもともと嫌いではない。雨の山口を歩くのもいいだろう……。欅並木が雨にぬれている光景も、雨が降っていてこそ、眺められる風景なのだから。

 駅前通りの銀杏並木も、若い葉を広げていた。樹木は、今が一番美しい時なのかもしれない。傘を差してパークロードに向かう。いつもは、四つ角を右に折れて、好みの喫茶店にまず憩うのだが、今日はまっすぐ美術館に向かった。
 初めから、美術館の喫茶室(? 室という言葉は当たらない。以前は休憩所として、広々とした空間に、椅子がゆったりと置かれていた。そこで、椅子に坐って、展覧会を観た後、作品を心の中で反芻したり、大窓の風景を眺めたりしたものだ)で、コーヒーを飲みながら、一休みして会場に向かう予定だった。
 荷物をロッカーに預け、パンフレットなど、カウンターにあった資料は全部貰って、椅子にかけた。そして、コーヒーとケーキで寛ぎながら、予備学習(?)をした。多数の作品を均等に観ていては疲れる。見落としたくない絵画を心に留めておく。幸い、展示作品のカタログもテーブルに置いてある。
 また、ルーベンスの絵に出合えると思うと、気分が高揚する。レンブラントもある。ファン・ダイクの、若き日の肖像画もある。

 絵画はひとりで見るのが一番いい。ゆっくりと絵に対峙できる。
 美術館には意外と一人を好んで出かける人も多いが、周囲に必ず、幾組かの夫婦、友人、恋人同士などのカップルがいる。連れの傍には、どうしてもささやきの声があって、うるさい。絵についての話であっても、鑑賞者にとって、人のおしゃべりは邪魔である。
 今日の会場には、平日なのに、かなりの人がいた。が、話をする人を避けて観ることが出来る程度の込み具合なのは、ありがたかった。

 
 第1章 ようこそ マリア・テレジアの ウィーンへ
       18世紀ウィーンの華やかな世界へご招待。
 第2章 芸術の都ウィーン
       アカデミーにゆかりのある作品をご紹介。
 第3章 バロックの巨匠たち
       華麗なる17世紀の絵画をご案内。
 第4章 花・鳥・宴―ネーデルラント絵画の楽しみ
       17世紀のネーデルラント(ベルギー・オランダ)の絵画をご紹介。
 第5章 クラナハ―北方ドイツ・500年前の宮廷趣味
       およそ500年前のドイツへご案内。
 第6章 ヨーロッパ風景画物語
       16世紀ネーデルラントから19世紀ウィーンまで、ヨーロッパ風景画400年の旅。

 入り口で貰った案内書きの解説文が、個性的で、ユーモラスな一面もあり、なかなか面白い。まず、絵を自分の眼で観、次に立ち止まって、その説明文(時には、私にとってどうでもいいことも書かれているけれど)を読んで参考にし、また絵を見直す。
 こんなにゆったりした時間が持てるのは、地方の美術館のよさなのだろう。
 
 特に第3章は、長く立ち止まることが多かった。
 まず、ファン・ダイクの、若き日に描かれた「15歳頃の自画像」、レンブラントの「若い女性の肖像」、ルーベンスの「三美神」「軍旗をめぐる戦い」など。
 更に、ムリーリョの「サイコロ遊びをする少年たち」。
 第5章のルーカス・クラナハ(父)<今まで知らなかった>の「ルクレティア」は、やや衝撃的で、印象に残った。同じ作者の「不釣合いなカップル」は、ユーモラス。
 第6章の風景画には、心の静まるような絵が多かった。
 その中で、異色だったのは、ミヒャエル・ヴィッキー。彼のヴェスヴィオ山の噴火を描いた二枚の絵は、強烈な印象を与えた。暫く、あの独特な火の色を忘れることが出来そうにない。
 クールベの、静謐さの漂う「オルナンの近くの岩場の風景」も、好きな絵だった。

 館外に出てみると、雨は午前中より激しさを増していた。
 樹木の緑が雨に濡れる様は、一枚の、大きな風景画であった。
 
 


この記事をはてなブックマークに追加