23日、24日と知己・血縁者との対話が続き、平素はひっそりと暮らしているので、少々疲れて、今日は完全休養日。
目覚めたのは6月半だったが、今日の新聞を読んだ後、不在中にたまっていた新聞を読了。
ベッドを離れたのが、10時半であった。
4時間も同じ姿勢でいたので、腰にこたえた。腰骨が硬直した感じ、動かそうとすると痛い。が、10分もすると、回復。平常の動きに戻る。
朝食兼昼食の食事を12時に済ませる。
が、なんだか気だるく無気力である。最近テレビはほとんど見ない。(昼と夜のニュース以外は)
騒々しいのが嫌になった。みんな大きく口を開いて笑っているような番組が多すぎる。嫌なら見なければいいのだ。そもそも人生の半分近くは、テレビのない時代を生きたのだから。
題名だけ入れたブログがたまっているけれど、書く気にもなれない。
秋晴れの好天なので散歩に出かければいいと分かっていても、それにも気分がのらず、結局、椅子に座って様々に想いを反芻するだけ。視覚聴覚を休ませたい感じだ。ボーとして過ごす。
朝日新聞には、
瀬戸内寂聴のエッセイ『残された日々』が、毎月第二週目の木曜日に掲載されている。
今朝、ベッドで読んだのは、13日のものだったのだろう。
(私は、不在中にたまった新聞を読まずに資源ごみに出そうとは、今のところ思わない。大方は、ニュース性を失った記事となるが、読み物として楽しめる記事がかなりある。読まずに反故にするのはもったいない。スポーツ欄などは斜め読みし、<カープ6連敗>という記事には、そうそう6連敗があったと、その不甲斐ない連敗を思い出し、優勝が目の前なのに、最近も勝てないなと、想いを巡らせたりする。新聞や本は、物言わぬ静かな同朋! であり、話し相手の感じである。)
<………この執拗なわが生命は、この世に見苦しくしがみついている感じで、私の美意識に反することおびただしい。何とか、もういい加減にこの世におさらばできないものかと、真実思い悩んでいる。………>
全く同感である。1922年生まれの寂聴さんより11年遅くこの世に出てきた私なのだが、思いは同じである。世のため人のためになるわけでもなく生きている今が、決して快くはない。寂聴さんの方は、老いてなお大いなる仕事をなさっているのだが……。
昨日、妹たちと、リンドウの花は、十分開花しないのだろうか? と話した。
お供えした花の水換えをしようとして花立てを手にすると、桔梗のようなぱっとした開き方ではないけれど、少しだけ花芯を見せていた。
お供えの花
リンドウの花の半開き
完全休養日は、食事にも消極的で、いい加減になる。
遅い夕食を済ませ、庭に出てみると、冴え冴えと月が出ていた。
一日遅れのお月さまを眺める。
10時過ぎのお月さま