ぶらぶら人生

心の呟き

Tさん宅の皇帝ダリア

2006-11-30 | 身辺雑記

 11月も今日で終わりだ。
 今年も後ひと月、と呟いてみる。意味もなく。
 ここ数日、心が冴えない。人間の心は、どうしてこんなに波立ちやすいのだろう?
 こんな日は、出歩くにかぎる。
 そうだ、お天気はいいし、Tさん宅を探しながら、ひと昔、勤めの関係で住んでいた町の辺りを散歩してみよう、と外出した。
 
 「草花舎」で、Tさんに初めてお会いしたのは、先週のことだった。その時、客はTさんと私の二人で、それぞれのテーブルで食事をしていた。
 まるで知らない客同士なのに、「草花舎」のカレーの美味しさについて言葉を交わしたりしているうちに、
 「家の庭に、皇帝ダリアが咲きました!」
 と、Tさんは、表情に喜びを隠しきれない様子で語られた。
 <皇帝ダリア? ダリアは夏の花では?>と不審に思った。<皇帝ダリアとは、また豪勢な名前だな>とも思った。
 
 「皇帝ダリアは初冬の花なのです。当分咲くはずですから、見に来てください」と、誘われた。
 「11月中は用があって留守がちなので、できれば12月に入ってから……」とも言われた。
 塀の外からも見える位置に、その花があるらしいことも、語らいの中で察しがついた。その花を見せていただくために、多忙らしいTさんのお邪魔をする手はない。外から眺められるのなら、そっと見学させてもらおうと、その時から考えていた。

 まず軽い昼食を済ませると、一応はTさんに電話してみた。在宅なら、ご挨拶はしておいた方がいいだろう、と思って。が、やはり留守であった。
 そこで、軒先に記された番地を頼りに、Tさん宅を探した。思いのほか早く見つけることができた。言葉の端から想像していたとおり、Tさん宅は豪邸であった。

 Tさんの話にあったとおり、皇帝ダリアは、家前の道路からも、高い塀越しに眺められる位置にあった。正面側と側面からと。が、何しろ広いお庭なので、奥まったところにある皇帝ダリアをカメラに収めるのは容易でなかった。
 添付の写真は、側面から撮らせていただいたものだが、近景にある南天の赤い実が目立ちすぎた。奥まったところには立派な蔵があり、その白壁も目立っている。

 写真では、皇帝ダリアの存在感が希薄である。しかし、なかなか気品のある大型の花であった。丈が高く、がっしりとした茎のようだ。Tさんが自分の腕を指して、「私の腕くらい」と言われたが、その頑丈な茎から更に枝分れして、たくさんの花を咲かせているようだ。距離があるので、その数はよく分からないが、20余の花が咲いていそうに見えた。ピンク色というより、淡紫色といった方がよさそうな色調である。大型の花にしては優しさも兼ね備えている。
 インターネットで調べたところ、メキシコ産のようだ。日照時間の短くなる、この季節に咲く<短日植物>であるとも紹介されていた。

 皇帝ダリアに巡りあえ、それを眺めている間は、幸せな気分であった。
 人の世に疲れると、もの言わぬ自然と対峙している方が、心長閑である。 


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公孫樹の落葉とベンチ

2006-11-29 | 旅日記

 再び、「雪舟への旅」展を観に、山口県立美術館へ行ってきた。
 前回は前期展、今回は後期展。
 国宝の「天橋立図」ほか、前回の展示では観ることのできなかった作品に接する楽しみもあったが、一度観た作品に、十分な時間をかけて観賞する喜びもあった。再び雪舟の、こうした大規模な展覧会を見る機会はあるまいと考えながら……。
 会期の終了も迫っていて、入館者が相当多かった。ひとりでに、一つの絵の前で長く佇むことになった。それでも、会場は上手に設営されているので、無駄な時間を過ごしているような苛立ちはなかった。むしろ、雪舟の一つの絵に、味わう時間をたっぷり与えられているような、満ち足りた気分だった。

 美術館前の道には、公孫樹の落葉が散り敷いていた。
 置かれたベンチには、人影がなかった。

 急に人影をみる思いがした。
 私ばかりでなく、なつかしい人影もあった。
 思い出の幻影に過ぎない……と分かりながら、一瞬過去にいざなわれた思いが、現実的な形として見えた。まるで異次元の世界に誘い込まれたように。

 公孫樹の落葉のせいだろうか。
 人のいないベンチのせいだろうか。
 無は、却って想像をかきたてるのかもしれない。


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賢い犬

2006-11-28 | 散歩道
 朝の散歩道では、色々な犬によく出会う。
 その中で、写真の犬は最も大型である。大型犬であるうえに、それを連れた人が、かなり年配の女性であることを、私はものめずらしく眺めていた。
 犬の苦手な私には、あんな大きな犬と一緒に歩く人が、不思議なことに思えたのだ。突如、犬が走り出したりしたら、制御するのが容易ではあるまいと、余計なことを心配して、初めのうちは、見ていても気が気ではなかった。
 出会うたびに、それとなく観察を繰り返していると、この犬の性格が次第に分かってきた。いつ見ても、大変柔和である。小型犬のように、気まぐれに駆け出したり、横道にそれたり、無謀なことはしない。道々、臭いをかいだり、片足を高くあげて放尿したりの、気ままな行動も少ないようだ。
 犬の中ではお利口な類なのだろうか? 躾が徹底しているため、お行儀がいいのだろうか? 単に高齢で動くのが億劫なだけなのだろうか?
 この犬を見ていると、様々な疑問がわいたものだ。

 今朝、犬と連れの女性に挨拶をして通り過ぎようとしたとき、その女性から話しかけられた。今までは、お互いに散歩道で会う人、というだけの関係だったのだが。
 話してみると、同じ町内の人と分かった。
 この犬が、ゴールデンレトリバーだということを知った。盲導犬、警察犬などとして活躍する、あのゴールデンレトリバー! 私は改めて犬を眺めなおした。
 12歳とのことだから、犬としては、かなり高齢の方なのだろうか。
 雌雄の別や名前は聞かなかったので分からない。
 飼い主と私の話が長引くと、犬は少々退屈したのか、私に近づく気配を見せた。怖さの先立つ私が一歩後ずさりすると、飼い主の女性が、「おすわり」と、静かに声をかけられた。すると、犬はお行儀よく、お座りをした。(写真)
 飼い主に従順な犬のようだ。お行儀のよさをほめると、飼い主は、私の心配を想像したかのように、
 「歩く時も、私の後ろを歩くようにと言えば、きちんと守ってくれます」
 と、話された。
 なんと利口なことだろう! それなら大丈夫! と、私も安堵した。

 人間よりも聞きわけのいい犬もいる、ということらしい。
 犬について無知な私は、身近な場所で利口な犬に相対して、ひとしきり感心した。

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ネコジャラシも枯色

2006-11-27 | 散歩道
 休耕田のネコジャラシも、枯色になった。(写真)

 草々の呼びかはしつつ枯れてゆく  相生垣瓜人

 本当に、このところの野の移ろいの様は、この句の感じだ。夏草として生い茂っていたものは、この季節、誘い合わせたように、例外なく枯れてゆく。自然の摂理というものなのだろう。
 擬人法の表現が生きている。
 

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初冬の眺め

2006-11-27 | 散歩道
 雨ならば散歩は中止と思っていたのに、なかなか休める条件が整わない。
 新聞を読み終えて外を見ると、雨は降っていない。それならばと、支度にかかった。

 考えてみると、朝の散歩を始めて、ちょうど三か月が過ぎたことになる。嵐の日と特殊な日を除いては、早朝散歩を継続した。気まぐれ人間にしては、よく続いたと思う。肝心の体脂肪減には、今のところ何の効果もなさそうだ。
 しかし、朝の散歩は思いのほか楽しい。
 たくさんの発見(?)があったし、自然の移ろいを眺めるだけでも、心が弾んだ。人や犬との出会いなども、家にこもっていては味わえない喜びだった。

 十一月も残り少なくなり、自然は、日々、蕭条とした趣に変わってきた。
 国道9号線沿いの崖の草々も、すっかり枯色だ。(写真)
 華やぎだけが美ではない。そんなことを思うのは、私が初老の人生を生きているためだろうか。私も、枯れたものだけが持つ美を生きられたらと思うが、現実はただ醜さの一語に尽きる(?!)ようだ。

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敬語の問題

2006-11-26 | 身辺雑記

 過日、朝日新聞で、文化審議会国語分科会が「敬語の指針(報告案)」をまとめたことを報じていた。その改革案の概要も説明されていた。
 今まで、<尊敬語・謙譲語・丁寧語>の三つに分類していたものを、更に細分化したものであった。
 尊敬語は従来どおりとし、謙譲語を一と二に分け、丁寧語を丁寧語と美化語に分け、五分類にするという案であった。
 敬語を知識として、学問的に分類して理解することと、日常の生活の中で、正しく遣うこととは別問題であり、正直なところ、改革の必要があるのだろうかと、疑問に思った。

 朝日新聞では、「敬語指針を問う」と題して、有識者の意見を掲載し始めた。
 その第一回目(11月21日)は、作家の出久根達郎氏であった。
 見出しの言葉が、出久根氏の意見の概要を集約している、と思う。

 思いやる心あればこそ
 分類より身近な具体例で解説を

 と、いうのであり、改革案に対して、消極的な姿勢が示されている。
 ほぼ同感である。
 出久根氏の提案として、指針が 謙譲語を一と二としているのに対し、どうしても分けるのなら、謙譲語と丁重語に分類したらどうかという意見が述べられていた。
 (丁寧語については、丁寧語と美化語に分類することが、指針に示されている。)
 確かに、謙譲語を内容上二つに分けるのなら、一と二といった曖昧な形より、出久根氏の提案どおり、謙譲語と丁重語に分けた方がすっきりすだろう。
 ただ私としては、五分類に細かく分類する必要はなく、今までどおりで差し支えないという考えである。
 (少なくとも、学校でそこまで細かく分類して教える必要はない、という考えである。指針が指摘するように、謙譲語、丁寧語は仔細に見れば、内容上分化できる要素をはらんではいる。が、それは教師が理解していて、指導の中で上手に生かしてゆけばいい問題だと思うのだが……。)
 特に敬語は、人の心と心の結びつきの上で大切な表現形式であり、学問的に分類できる知識を教えたり学んだりは、それほど必要なことではない、と考えている。

 私自身、いつ敬語について学んだのか、よく思い出せない。口語や文語の文法については、時間をかけて学習させられた記憶があるのに……。
 日常の会話は、生まれ育った環境の中で、ひとりでに身につくものであり、同じことは、敬語についても言えるのではないだろうか。
 (口語文法は、日本語の成り立ちを正しく知る上では必要な学習だと思うが、それを知らないから読み書きできないということではない。古典の学習をする上で、文語文法との関連上、学ぶ意義は十分あるとは考える。)
 
 敬語の歴史についてはよく知らないが、封建時代の身分制度や儒教などが背景となって、敬語という言葉の仕組みが生み出されたのでは、と考える。
 が、敬語が過去の遺物だなどとは思わない。今は平等の時代であるから、敬語など必要ない、とも思わない。人と人との人間関係を円滑にするための潤滑油として、自然な形で敬語が遣われるのは大切なことだと考える。

 茨城県生まれの出久根氏の文章を読んで驚いたのは、日本の中に無敬語圏が存在するという話だ。茨城に限らず、関東の北部、東北南部もそれに含まれるという。
 現在もそうなのだろうか。
 教育やテレビの普及で、今は少し事情が異なるのか、どうか?
 無敬語圏でも、方言の言い回しの中に、敬語に代わるニュアンスがあって、人間関係がスムーズに保たれている、ということではないのだろうか?

 私は自分の生い立ちを考え、その点では恵まれていたのだろうかと思う。家の中で、母が父に語る言葉、父母が祖父母に語る言葉を通して、世の中に出て不自由を感じない程度の敬語をひとりでに身につけていたように思う。
 したがって、敬語が三種類からなることを、長じて知識として知り、自分の遣う敬語を分類するのは簡単なことであった。
 職場で、新たに身につけた敬語法といえば、職場内での上下関係が、部外者に対しては身内と同じに扱わねばならないといったことくらいだ。
 (私が、父のことを人に話すときに、尊敬語で語ってはならないように、上司のことを人に話すときも同様である、ということ。)
 
 先日、『知恵蔵2007』を求めた。
 それには、三つの付録がついていた。
 「手帳2007」・「知っておきたい日本語常識 ドリル550問」・「壁に貼って使える世界地図/日本地図」の三点。みなありがたいプレゼントだった。
 昨日、早速、日本語常識ドリルの<パート4 使っていますか●敬語常識●編>の50問に取り組んでみた。
 全問正解であり、はてな? と、考える必要もなかった。
 自慢しているのではなく、70年も人生を生きてきた人であれば、誰にとっても、ごく常識的な問題であった。
 (更に500問、漢字の常識問題が示されている。こちらは満点というわけには行かないと思う。年のせいと、パソコンを使い始めたことで、特に漢字力は弱ってきている! 読む方は問題なくても、書けない漢字はありそうだ。)

 敬語を細分化して、その分類を理解するより、朝日新聞社が『知恵蔵』の付録として提供してくれたドリルふうな問題で、場に応じた敬語を身につけるのが、有意義な方法のように思う。しかも、この付録には、なぜ例文の使い方が間違っているのかを、懇切丁寧に説明してくれている。

 お偉方の思考の中には、形を整えれば、万事うまくゆくという錯覚があるのではあるまいか。
 教育基本法についても然り!


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ピンクスターマドンナ

2006-11-25 | 散歩道
 昨日、散歩の途次、挿し木にせよといただいた花を、暫く花瓶に挿して楽しむことにした。それは、花作り名人の勧めでもあった。
 いただいた花は、<ブルースター>と<チョコレートフラミンゴ>だと教えてもらった。
 二つとも、私の初めて見る花である。

 今朝、また家の前で主に出会った。
 「昨日は嘘の名を言ってしまいました。ブルースターではなく、<ピンクスターマドンナ>でした。オーストラリアの花です」
 「ピンクスターマドンナ、ですね」
 私は花を思い出しながら、名前を心に刻んだ。この方が、あの花の名にふさわしい。ブルーではないのに、ブルーとはおかしな名前だと思っていた。ピンクのお星様のようなマドンナなら、話が分かる。ちょっと気取りすぎた名前ではあるけれど。
 写真の手前側が、それである。
 インターネットで確認したところ、間違いなさそうだ。ただその名の前に、「サザンクロス」がついていた。恐らく、「サザンクロス」と呼ばれる花の種類はいろいろあるのだろう。
 写真の上側の花は、<チョコレートフラミンゴ>だと教えてもらった。こちらは、インターネットでは、今のところ探し出せていない。ハイビスカスの仲間には、<レッドフラミンゴ>というのがあったけれど。
 花よりも葉の裏側は、チョコレート色そのものだから、その名にチョコレートがつくのは理解できる。
 何しろ花名人は、たくさんの花を育てておられるから、名前に不確かなところがあっても不思議ではない。

 二つとも、挿し木でよく育つとのことだが、私の手でうまく育てられるかどうか。暫く、間近に楽しんで、その後、土に下ろしてみることにしよう。

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浜辺の焚火

2006-11-25 | 散歩道
 浜辺の焚火を見るのは、今朝が初めてだった。
 海辺まで歩いた私が、引き返し点と決めている辺りの磯に、火は勢いよく燃え盛っていた。風のない朝、火は素直に上空に燃え上がり、煙も同様、まっすぐに立ち上っていた。
 東方遥かに、二人の人影があった。ビニール袋らしいものを提げ、前屈みになりながら、砂浜に押し寄せられた木切れなどを収集中らしい。ボランティア活動なのだろうか。
 人影のある辺りには、火をつけられたばかりの、もう一つの焚火がくすぶっていた。

 いつ来てみても、この海岸が清潔を保っているのは、影の奉仕者があるからなのだろう。放置しておくと、海岸はごみの集積所になってしまいかねない。韓国や中国のものと思しきものまで、この海岸には打ち寄せられるのだから。
 

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朝の海と空

2006-11-25 | 散歩道
 空はいつも変幻自在である。
 が、今朝の空は面白みに乏しく、鉛色に統一されていた。雨が降り出しそうなほど重い空ではなかったけれど。

 水平線の見える位置に立ったとき、頭上のそれとは異なる空が見えてきた。明らかに二層に分かれている。明と暗。(写真)
 こんな光景も珍しい。しかも、直線で、故意に二分したような空模様だ。
 水平線の近くが晴れやかで、高島の遥か向こうは、夢の国、おとぎの国につながっていそうな趣だ。
 風はなく、波もまずまず。ゆったりと間隔を置きながら、白波が波打ち際に押し寄せていた。
 

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赤い実 8 (檀の実)

2006-11-24 | 散歩道
 この木は、以前から存在を知っている。初夏のころ、花を眺めながら、何の木だろう? と、思ったことがある。カメラにも収めたはずだ。
 今朝の散歩で、赤い実がたくさんついているのに気づいた。毎朝、木の傍を通りながら、今まで気づかなかったのは、反対側の崖に咲く菊の花ばかり眺めていたかららしい。
 赤い実をカメラに収めた。(写真)
 ちょうどその時、顔だけは見知っている人に出会った。
 朝の挨拶を交わした後、
 「この木は何でしょう?」
 と、尋ねてみた。
 「まゆみ、です。……白い実のなる木もありますよ」
 と、教えてくださった。
 「あれも、まゆみ。あちらは実が少ないですね」
 指差された方向を見ると、数歩離れた位置に、少量の赤い実をつけた木があった。
 「暫くすると、実がはじけて結構きれいです」
 とも、教えてくださった。
 はじけた実は、どんな姿になるのだろう? 朝の散歩の楽しみが、また一つ加わった。
 <ああ、これが、まゆみ>と、もう一度眺め直し、急に一木に親しみを覚えた。長年、その名を知りながら、そして、その木を眺めていながら、まゆみとは知らなかった私は、今日新たに、友人を得た思いだった。これからは、四季折々、この木との語らいをすることになるだろう。

 「まゆみ」は、漢字では「檀」や「真弓」の字が当てられる。別名では「山錦木」とも言うそうだ。
 その材は、将棋の駒やこけしを作るのに使われ、昔は弓を作るのに使われたことから「真弓」の字が当てられたらしい。
 女の子の名前にもよくあり、音の響きがかわいらしい。

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