ぶらぶら人生

心の呟き

草花舎 『北原順子 個展 〜 一変 〜』  3

2020-03-03 | 掌編
 2月24日、『北原順子 個展』の最終日に。(草花舎で)
 展示作品を眺め、北原順子さんやYさんともお話をし、愉しみの時間を過ごすことができた。さらに美味しいコーヒーやケーキをいただき、それぞれ、場を得て飾られた椿の花などを眺めて……。

 
 コーヒーとチョコレートケーキ
 
 以下、椿の花々。

  
  猫柳と椿。

  

 

  
  影とともに。

 
 乙女の気配。

 同日(2月24日)、草花舎のひととき(展示会のことなど)を、一つのブログにまとめて投稿したところ、投稿が受け付けられなかっただけでなく、下書き原稿もみな消去された。(このことについては、[草花舎 『北原順子 個展 〜 一変〜 』1]で書いた。
 そこで、昨日と今日にかけ、一編のグログを三回に分けて投稿。
 無事であった。が、三度も書き換えたら、文章はますます良くなるだろうと思うのは間違いで、最初に書いたものが一番良かったような気がする。

 さて、過去にもこういうこと(投稿したつもりの原稿が消去されていること)があったのだろうか? と、最近のものを確かめると、2月20日の稿は、題名だけで、中身が全くない。
 駄文であっても、私自身は心を込めて書いたつもりだったのに……。考えてみると、その日のブログも写真が多く、長文すぎた? それでも、原稿くらいは残しておいて欲しい、と思うのは私ばかりではあるまい。(!?)
 ブログの約束事を無視した私が悪いのだが、その規定が、私には未だよく分かっていない。
 とにかく、短くまとめることと、投稿したものを確認する習慣をつけよう! と、今は思っている。
コメント (2)
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ああ、いい言葉!

2020-01-09 | 掌編
 帰宅すると、まず溜まった新聞を読む。
 今日の新聞から、順次遡って。

 9日、8日の新聞を読み終え、7日の新聞を手に取る。
 一面のニュースは、大体二つ、多くて三つ。
 一面にはコラム記事が二つ。<『折々のことば』鷲田清一>と『天声人語』。
 読む順序は、いつも上から下へ。したがって、ニュース記事を読んだあとは、『折々のことば』から『天声人語』へ。

 7日の『天声人語』には、中高校生から応募された「私の折々のことばコンテスト」についてのエッセイであった。
 その最後に、

 ▼部門賞に選ばれ昨日の紙面に載った中に「応援しとるよ」があった。高2の岡野芽依さんが母からもらった手紙に書かれていた。「がんばれ」の文字を消しゴムで消した跡がある。どんな言葉を選べば気持ちが伝わるか。迷いや悩みが、そのまま物語になる。
 
 「応援しとるよ」 「ああ、いい言葉だ!」と、私も思った。
 「がんばろう」とは、自分の心に向かっては言えても、他人に対しては、あまりにも形式的な励ましの言葉だと思っていた。うっかり遣ったときは、なんとなく後味が悪く、その場しのぎのいい加減な言葉を言ってしまったような気まずさが、心に淀んだ。
 岡野さんのお母さんも、「がんばれ」と書いて消しておられたという。それを消して、「応援しとるよ」と書き直しておられる。
 お母さんが、子どもに寄り添っておられる感じが、ひしひしと伝わる。

 6日の新聞を開くと、1ページを使って、天声人語に記されていた,入賞作品が紹介されていた。
 中高生からの応募数は、2万4998作品もあったという。
 鷲田清一さんの『折々のことば』にならって、<私の折々のことばコンテスト>は、5年前から始められたのだという。
 言葉は、人と人をつなぐ大事な力を持つ。
 その言葉に、敏感であり、思慮深いというのは、とても大切なことであり、いい試みだと思う。

 最優秀賞に選ばれたのは、中学1年生の鈴木心晴さんの、
 「次に必ず会えるかはわからない。気持ちよく別れよう。」
 であった。
 家族とけんかし、無言で家を出ようとする朝、玄関の前で(お母さん)から言われたことば。

 特に、私のような高齢になると、上記のことばは、常に心の中にある。
 (施設と家を行ったり来たりするようになって、3年が過ぎた。その間、一旦帰宅してまた施設に戻ったとき、一週間前まで同じ階におられたと人が、不在となっているという体験を幾度繰り返したことか! お別れのときは、本当に計りがたい。)

 選ばれた作品は、みな心を打つものであった。
 が、上記の二つに、もう一つ、私好みの言葉を選ぶなら、

 「ことばぐすりをありがとう」という入院中のおばあちゃんのことばである。
 それを耳にした中学3年生の清水彩日夏さんは、<ことばは、人を傷つける「毒」になるだけではない。「薬」にもなると意識した。>という感想を述べている。
 その気づきもすばらしい!

 上掲の記事を読みながら、中高生に限らず、人はみな、言葉に対して鈍感であってはならないと考えつつ、自省もした。
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2019年大晦日

2019-12-31 | 掌編
 2019年、最後の日となる。
 今日が終われば明日になる、というのはいつものことだが、12月31日・大晦日は、新しい年を迎えるという意味で、いつもの日々とは気分が異なる。

 新たな気分で新年を迎えたいという思いから、掃除などにも少し念を入れる。
 比較的体がよく動き、最低の仕事は成し遂げた。
 室内の掃除、庭の見廻りなども。
 
 庭の掃除は、ちょうどいい時期(今月20日)にしてもらったので、落ち葉(主に紫陽花)を拾い集める程度。

 前庭のノボタンが新たに開いていた。
 元来、一日花なのだが、上側の花は帰宅時に咲いていた花だから、もう三日は咲いていることになる。
 下側の花は、今日開いたものである。
 こちらは間違いなく、二年跨ぎで咲き続けることになるだろう。

 (か弱げな蕾がまだいくつかついているが、寒冷の中、咲ききることができるかどうか? そういえば、ノボタンの落葉はこれからである。)

 



 私用の「おせち用料理」(と言えるかどうか?)も作った。
 思いのほか、身体が動いてくれた。身体が動く日は、心も軽い。


 親鸞聖人は「死ぬ」ということを、「娑婆の縁つきて」と言ってもおられるという。
 親しい人はみな、とっくに逝ってしまい、私だけがとり残されているような寂しさも感じるが、「娑婆の縁がまだ尽きぬ」ということなのだろう。

 新しい年(2020年)は、もう1時間後である。
 身体の声を聞きながら、娑婆の縁尽きる日まで、楽しんで生きられたらと願っている。
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『老〜い、どん!』

2019-12-21 | 掌編
    樋口恵子著
  『老〜い、どん!』
あなたにも「ヨタヘロ期」がやってくる


   
     (帯を外して)

   
(帯つきの本・上野千鶴子さんの感想が記されている。)

 12月19日の朝日新聞、<折々のことば>(鷲田清一)に、『老〜い、どん!』から、

  楽しくなくても楽しげに生きるのが、早く死んだ人への感謝で供養じゃないかしら。
                           樋口恵子

 が、引用されていた。
 樋口恵子さんの名前はよく聞き知っているが、その著作を読んだことはない。年齢も知らなかった。が、調べてみると昭和7年5月生まれ。私は8年1月生まれだから、同学年ということになる。
 急に親しみを覚え、本をアマゾンへ注文した。
 と、早速20日の昼前には配達された。

 一日にすべきことは、あらかじめ頭の中で考えてはいるのだが、骨の折れることは後回しにし、たちまち予定を変更しがちである。
 易きに流れるのは、やはり心身の老化によるものであろう。

 手にした本は、堅苦しさが全くなく、楽に読めるうえ、「ヨタヘロ期」(ヨタヨタヘロヘロ)の真っ只中を生きている身にとっては、大いに興味深い本でもあった。
 

 女学校に入学した年に終戦を迎えた私たちの年代は、戦争の怖さ惨めさを間接的に体験し、記憶にもしっかり留めることのできる年齢に達していた。
 上掲の文中にある<早く死んだ人への感謝であり供養>という表現には、同じ世代に生まれ、生まれたばかりで命をなくしたり、戦争で他界した人たちへの想いが潜んでいる。
 広島、長崎の原爆による犠牲者ばかりでなく、東京大空襲を始め、各地の戦火で命を奪われた同年代の人は多いし、今からは想像できないほど、わけなく小さな命を奪う怖い病気も戦前戦時下には多かった。
 樋口恵子さんも私も、肺を患うという経験をし、さらに私は幼少(3、4歳)のころ、兄妹の誰も患わなかったジフテリアにも罹っている。かなりひ弱な子供だった。
 それでも、この年に至るまで生き延びている。86歳という想像を超えた年になるまで!
 そこで、上掲の樋口恵子さんのことばに容易にうなずけるのである。
 老いゆくことは、決して楽しいことばかりではない。
 でも、生きているかぎり、生き得なかった人の分まで、<楽しくなくても楽しげに生きる>ことを心がけて………と、樋口さんは書いておられるのだ。

 この本は、作者の実体験(老いにまつわる)が記されているので、同学年者としては似たような苦い体験もあり、老いのプロセスには類似の経験をすることも多いらしいと苦笑したり……。(例えば、わけもなく転倒したり)

 生きることは、若くても老いても大変なことである。
 が、四捨五入すれば<90>という長い年月を生かされたのだから、日々を可能なかぎり自ら楽しめるように生き、そして、楽しくなくても楽しげに生き、さらに老いれば、いずれだれかのお世話を受けざるを得なくなるのであろうから、<ケアされ上手なお婆さん>になりたい!
 以上が、この本を読んで、特に自らのこれからのあり方として考えたことである。

 (書きたいことは、他にもたくさんあるけれど、根気が続かないのでここまで。)
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椋歯科医院へ

2019-10-30 | 掌編
 椋歯科医院で定期検査を受け、駅前バス停まで歩く。
 街路樹の紅葉が始まっている。

         

         

 人通りのない寂しい道。車社会のせいもあるが、子どもや生徒の姿もない。
 とぼとぼ歩いているのは、私のような老人ばかり。その数も少なく。
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9月の庭(昼食・facebook)

2019-09-15 | 掌編
 昨日、二つの要件を兼ねて、草花舎に出かけた。
 昼食をいただくことと、<facebook>の扱い方について、Tちゃんの教えを請うことと。

 昼食はサンドイッチとコーヒー。
 美味しいものを美味しくいただけるのは、このところの快調を意味するのだろう!?
 たとえひと時の気まぐれであっても、嬉しいことだ。

     

 新たに始めた<facebook>が、気分を高揚させているのかもしれない。
 分からないことが多いので、今日もTちゃんに教えていただいた。
 消去したい画面の処理、投稿した原稿の間違いの直し方(誤記脱字の推敲)など。
 僅かなことができるようになっただけで嬉しい。
 老いの倦怠感防止は、日常の生活の中で、少しだけ目先を変えることかもしれない。
 (心が喜ぶことでなければ、無意味なことだが……。)

 今日はタブレットも持参し、そちらでも<facebook>が見られるということは、<facebook>を使用しての投稿も可能なことを教えてもらった。
 ブログもそうだが、タブレットが使用できれば、画面も大きく、入力も楽である。

        草花舎の前庭に咲いていた花

     

     

 この時期、花が少ない。特に今年は……。
 蝉の声がすっかり減り、草むらにすだく虫の声が増えた。
 季節は、確実に移ろいつつあるようだ。

            室内の花

     

     

     
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