ぶらぶら人生

心の呟き

診察日、そして自分へのおもてなし

2014-07-31 | 身辺雑記
 内科の検診を受ける。
 T 医院には、今日も、花々の鉢が置いてあった。
 静かな、ひそやかな形で。
 大げさに存在感を主張しない花々。
 私の好みに花々。
 
 以下、その花の写真をとどめておく。
 花の名前を教えていただき、多分間違いないと思うものには名前を付けておいた。


           
                    レンゲショウマ

       
                レンゲショウマとその花

       
           ムラサキシキブ         菊の一種 

            
                    カヤ(斑入り)

      
      左から、マツカゼソウ・?<メモの字が読めない>・サギソウ


 7月を無事に過ごすことができた。
 検診の後、街へ買い物に出て、ついでに、自分へのご褒美の食事をしてきた。
 グラントワのポニーにて。(ライスつき)
 おいしくいただく。
 おいしいと思えることに感謝しつつ。

        

       

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母を偲ぶ

2014-07-29 | 身辺雑記
 今日は、母の祥月命日である。
 
 昨夜、母のことを思い出しながら、国民学校五年生の頃、音楽の時間に習った歌を口ずさんだ。

    ♪ 母こそは 命の泉
      いとし子を 胸に抱きて
      ほほ笑めり 若やかに
      うるわしきかな 母の姿


 1番だけは歌えるけれど、その後の歌詞は出てこない。
 作詞家・作曲家は誰だろう?

 私は、上記の歌詞を小声で歌いながら、PCで検索した。
 <歌 母こそは ?>と記入して。

 題名「母の歌」 野上弥生子作詞・下総皖一作曲
 文部省唱歌として、昭和18年に作られた歌と分かった。

 私の記憶は、間違っていなかった。
 私はその年、国民学校の五年生であった。
 その当時は、野上弥生子(1885~1985)という、有名な小説家の名前さえ知らなかった。
 もちろん作曲家・下総皖一(1889~1962)についても。

 2番、3番の歌詞は、下記のようになっている。

    ♪ 母こそは み国の力
      おの子らを いくさの庭に
      遠くやり 心勇む
      雄々しきかな 母の姿

      母こそは 千年(ちとせ)の光
      人の世の あらんかぎり
      地にはゆる 天つ日なり
      大いなるかな 母の姿


 昭和18年といえば、戦争末期。
 息子を戦場に送る母をあえて賛美し、鼓舞する目的もあったのであろう。
 特に、私の記憶からは消えていた2番の歌詞には、作詞の目的があらわである。

 戦後は、歌われることのなかった歌に違いない。
 したがって、この歌を習ったのは、ごく一部の世代であるはずだ。

 私にとっては、1番の歌詞だけでいい。
 PCの曲に合わせ、繰り返し歌っているうちに、母の姿が重なった。

 母の慈しみ、深い愛に包まれて育った日々が、思い出された。
 私は長女で、どこか間抜けていたし、体も弱く、不器用でもあった。
 手のかかる子供だったにちがいない。
 それでも、母は、私のありのままを重んじて育ててくれた。
 厳しかったのは、しつけだけだった。

 先週、NHKの<あさイチ>が、「母が重い」というテーマで、母と子の関係を採り上げていた。
 母との距離の取り方に、悩みを抱えている人が多い、というのだ。
 私にとっては、驚きであった。
 私は子どもを持たないので、母と私の関係でしか、母子の在り方を考えられない。
 が、私が母となっていたら、果たして私の母のような母でありえたかどうか、その番組を見ながら、考えさせられた。

 母と娘の関係は、現代社会に存在する病巣の一つかもしれない、と改めて考えた。
 戦後69年、じわじわと、母と娘、娘と母の在り様も、変わってきたということなのだろう。

 話が逸れてしまったが、母の祥月命日の今日も、慈母として母を偲べることを幸せに思う。

 (余禄 作曲家・下総皖一は、「ほ、ほ、蛍が灯をともす」の<蛍>を作曲した人でもあることを、PCで知った。)



     今朝、近所の庭に咲いていた百日紅と桔梗の花。

      

      

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集い (初対面の坊や)

2014-07-28 | 身辺雑記
 昨日、妹宅に帰ってきた家族10人と、海の見える<とみ>で、会食した。
 私を含めて、11人。

 そのうち、子どもが3人。
 中3の少女と、中1の少年。
 それに加え、2013年生まれの坊や。
 1933年生まれの私からすれば、80歳若い坊やである。

 妹の子どもたち3家族が、こぞって土田海岸にゆき、夏の海を楽しんだ後、みんなで食事会ということになった。
 そこへ私も、招かれたのだった。
 
 初対面の幼い坊やは、初めての海遊びに疲れ、<とみ>に着くまでに寝てしまい、そのまま寝続けた。
 途中で寝返りを打ちながら、2時間余のお昼寝。

 その間、(みんなで食事をして)、姪の撮った、スマホの写真を見せてもらった。
 海辺で遊ぶ、三家族親子の楽しそうな様子が、多数写されていた。
 いい思い出になるだろう。

 
 
 坊やは、目覚めると、行儀よく食事。
 実におとなしい。
 幼子の初々しさ、愛らししぐさに見とれて、時間が過ぎた。

 3人の子どもには<お盆玉>を、坊やのパパとママには、心ばかりのお祝いを渡した。

 残念なことは、カメラをバッグに入れていたのに、写真を撮り忘れたことだ。
 どこか抜けている。


              三家族三様のお土産(お菓子) 

        

             会食の部屋に入った時、窓の外を撮った写真と
             帰宅後見上げた、秋めいた空の写真。


           

           


 大阪へ帰る一家を空港まで送った後、妹から電話があった。
 坊やが、朝から発熱し、気がかりなまま帰阪したと。
 二日、海で遊び、昨夜はみんなで花火を楽しんだ様子。
 遊び疲れが出たのだろうか。

 午後、帰阪した甥から、お礼の電話があった。
 坊やの様子を尋ねると、坐薬で様子を見ている、それでも熱が下がらなければ、かかりつけの病院で診てもらうとのことだった。
 幼児には、ありがちなことことかもしれない。
 明日になれば、きっと元気が出るだろう。
 そう願っている。

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猛暑日続く

2014-07-26 | 身辺雑記
 昨日今日と異常な暑さだ。
 各地で、38度を超えたと報じられた。
 極熱地獄に身を置くような感じだろう。
 それに蒸し暑さが加われば、健康な人だって、こたえるようだ。
 40歳男性の、熱中症による死も伝えられていた。

 当地は、昨日のほうが暑かった。
 クーラーのない部屋にゆけば、温度計が33度をさしている。
 おまけに、むっとした暑さだった。
 我慢の限界を超える暑さで、苦手なクーラーの部屋で過ごすしかなかった。

 そんな昨日に比べれば、今日は、ずいぶん過ごしやすかった。
 昨日との温度差は2度。
 その2度が、こんなに体を楽にするものかと、驚いた。

 外に出て空を仰ぐ元気もあった。
 なんだか秋めいた空だ。

       

 庭のアオキの傍に、捩花を見つけた。
 茎は傾いで、盛りを過ぎていた。

 昨年も一本。
 今年も一本。
 増えもせず、消滅もせず。

            


 今日は、意外なものにも出会った。
 腹を上にした蝉。
 亡骸かと触ったところ、勢いよくロウバイの木影に姿を消し、私を驚かせた。

              

 何蝉だろう?

 好きな鳴き声は、ヒグラシとツクツクボウシ。
 騒々しくて暑苦しいのが、ミンミンゼミ、アブラゼミ、クマゼミ。
 上記の蝉の声なら、聞き分けることができる。
 しかし、7月も終わりが近いのに、まだそれらの声を聞かない。

 声で区別はできても、姿から種類を見分けることはできない。
 分かるのアブラゼミだけである。

 『昆虫』図鑑を開けてみた。

      

 私の目にした、瀕死の蝉は、<ニイニイゼミ>であった。
 小型だし、羽の文様に特徴がある。
 その名は知っていたが、「チー」と鳴くことは、図鑑で知った。
 確かに、チーチーの声が、あたりに満ちている。
 ニイニイゼミだったのだ。

 もうヒグラシが鳴いてもいいはずなのだが、まだその声が聞けない。
 朝夕の気温が高いせいだろうか。 

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今日は<大暑>

2014-07-23 | 身辺雑記
 暑い日が続く。
 今日は、<大暑>。
 暑くて当然である。

 これからが本格的な夏。
 自愛の日を過ごそうと思う。

 過日(17日)、午前中にかなり激しい雨があり、気温は比較的低かった。
 その日、体調に異常を感じた。
 家の中にいて、顔に、かつて経験したことのない汗をかいた。
 脈拍の数も異常であった。
 頭の芯に違和感もあって…。
 これは大変と思いつつ、エアコンを入れ、水分を補給して、ひと休みした。
 発汗と脈拍の異常は収まったが、就寝まで頭の芯にある不快は消えなかった。

 その症状が、<熱中症>への危険信号であったのかどうかは分からない。
 大事に至らず、幸いだった。

 熱中症については、他人事のように考えていたが、諸注意を意識し、嫌いな夏を無事のりきりたい。 


       
                 大暑の日の空


 今日の読売新聞に、黒井千次さん のエッセイ「時のかくれん坊」 (毎月一回掲載)が載っていた。
 黒井千次さんと私はほぼ同年なので、月々のエッセイを読むと、心に底流するものの一致点が多い。

 今日の題名は、「年齢と気分 乖離大きく」であった。

   老いるということは、自分の年齢と折り合いをつけることではないか、と考えるようになった。
                                                  (冒頭の文)

   ……考えてみれば、年齢というものは常に初体験なのである。一年の間は便宜上の区切りに
   よって同じ年だと呼べたとしても、何年何か月何日生きてきたかに着目すれば、現在とはその先に
   延びていく時間なのであり、これは常に新しい体験を孕んでいる。たとえ同じことの繰り返しに過
   ぎぬ日常生活であると見えたにしても、どこかの先に恐ろしいことが待ち構えていないとは限らな
   い。いや、一つだけは未知の出来事が必ず人を待っている。……


 つまり、この先にある、避けがたい病や死。
 それを非常に身近に感じ始めるのが、80歳という年齢なのであろう。
 観念的な死ではなく、観念しなくてはならない死。

 それでも与えられた命は、少しでも輝いて生きねばならない。

 
 一昨日の朝日新聞で、「お盆玉」(新語であろう。お年玉に対しお盆玉)の、<ぽち袋>が、郵便局で売られていることを知った。
 昨日、草刈り・草取り代金の払い込みに出かけ、その<ぽち袋>を求めてきた。
 いろいろ種類があったが、入手したのは、夏空と向日葵のある風景。

             

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7月の庭 (槿<ムクゲ>の花)

2014-07-22 | 草花舎の四季
 草花舎に槿の花が咲いていた。
 二種類の花が隣り合って。
 
 この花の出番が来たのだ。
 「槿花一日之栄」という言葉通り、一日で凋落する。
 今日見た花を、明日また見ることはできない。
 槿も、はかない花だ。

           

           

 窓辺と入口の花瓶に、向日葵の花が活けてあった。
 透明感のある黄色い花びら。
 初めて見る、軽やかさが心地よい。
 ゴッホの向日葵や燃える夏陽の中に咲く向日葵の、あの重厚さがない。
 

        

 カウンターの小さな花瓶には、捩花が活けてあった。
 槿も捩花も、今年初めての出会いであった。

 (帰宅後、家の槿を確かめた。先日の剪定で見事に刈り込まれ、蕾なし。傍らのジューンベリーの木が優先されて。)

 今日はコーヒーとケーキをいただく。

       

 (草花舎は、7月28日~8月8日、Yさん不在のためお休み)

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文は人なり、言葉も然り

2014-07-21 | 身辺雑記
 7月初旬、山口に出かけた時、書店で外山滋比古さんの本を見つけた。
 作者は、私より10歳も年上の1923年生まれである。
 お元気で、執筆を続けられているのを嬉しく思いながら、本を求めた。

 『大人の言葉づかい』 (KADOKAWA・2014年4月刊)

          

  人はことばで生きる。
  ことばがなくては生きられない。
  人間はことば次第である。
  「文は人なり」(ビュフォン)という、よく知られたことばがあるけれども、より広く、
  そして深い意味において「ことばは人」ということができるように思われる。

       (…… 略 ……)
  人は生身の顔のほかに、もうひとつ、ことばの顔をもっている。
       (…… 以下省略)     <ことばの顔――はしがきにかえて>より

 8章からなっている。

  第1章 大人の話し方のできる人・できない人
  第2章 敬語はむずしい
  第3章 武器としてあいまいな日本語
  第4章 得することば・損することば
  第5章 知性がバレることばの基本
  第6章 あなたのことばは、あなたの「履歴書」
  第7章 品性は「文書」にあらわれる
  第8章 ことばは礼節のあかし

 章題からも、本の内容をある程度想像することができる。
 とにかく平易な言葉で書かれているので、外山滋比古さんの話を聞いているような気分になる。
 そして、首肯する。

 ただ、私は、自身の吐露した言葉で、私自身が傷つき、恥ずかしくなることがある。
 人間ができていない、と。
 余生は、一言一言に、心をこめたいものだ。

 だが、老いからくる体調不良の日もあり、そんな時は言葉も乱れて品性を欠き、自己嫌悪を深めたりする日常である。
 日々反省。

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寸感 (慈育ということ)

2014-07-20 | 身辺雑記
 報道を通して、哀しいニュースに触れるたび、やりきれない思いになる。
 事件は枚挙にいとまがないほどだ。

 何か大切なものが、人間社会に欠落しているのではあるまいか?
 <愛>や<慈しみ>など。

 理性などという後天的なものではなく、この世に生を受けた後、どういうふうに慈育されたか、その深浅が、人間の人生に色濃く反映されるのではあるまいか。
 

 最近、不条理な事件に遭遇するごとに、<慈育>の欠如ということについて、考える。つれづれの思いとして、……。

              (この稿は、7月上旬にしたためたもの)

    
                             
                                    夏椿の蕾 

                              
                                  夏椿の花(雨に濡れて)

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庭木の消毒

2014-07-19 | 身辺雑記
 庭師のO夫妻に、庭木の剪定をしてもらった日(15日)は、天候が定まらなかった。
 そのため、し残しとなっていた消毒と花壇の土入れを、今日をし終えてくださった。

 やっと天候が安定し始めた。
 梅雨明けの日も、近そうだ。

 O夫妻は、花壇の土を耕し、新たな土を追加してくださった。(下の写真)

  


 万両の花が、開き始めた。
 シロシキブも、小さな花を残している。

  

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Sさんの思い出として

2014-07-16 | 身辺雑記
 お世話になったSさんが亡くなられて、2か月余りが過ぎた。
 忌明けの際、届けられた注文書から、私の選んだのは、<玄関床>であった。

 玄関の、床と土間の段差は、今のところまだ気にならないのだが、いつの日か、その上がり下りが難儀になるか知れない。
 目移りのするさまざまの商品から、これがいいと選んだのが、<玄関床>であった。

 その商品が、今日届いた。
 早速、玄関に置く。(下の写真)

      

 床下には、4足の靴を収められるゆとりがある。
 幅も、奥行きも、色彩も、あつらえたように調和している。

 荷物をほどき、<玄関床>を置くべき場所に収めながら、亡きSさんを偲んだ。

 

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