仏教では、たとえ悪人であっても、すべての人が成仏できるって考えてるんでしょ。成仏って、仏になるってことだよね。人間は仏性を等しく持ってるんだし、御仏の慈悲がすべての人を救いたもうのは、当たり前の話なんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
仏性とは「悟りの性質」という意味です。ですから、みなさん一人ひとりの心のなかに仏性があるということは、言葉を換えるならば、「一人ひとりに悟りの性質がある」ということです。これは「悟りの可能性」と言い換えてもかまわないと思います。
ただ、ここで心すべきことは、(中略)「すべての人に、仏になる可能性がある、悟りの性質がある」ということは、必ずしも、「すべての人が、如来になれる、仏陀になれる」ということではないのです。それまでのあいだに、きちんとした適正なる過程を経なければならないということが、一つの注意事項として入る、ということを忘れてはいけません(中略)
新宗教であれ、伝統宗教であれ、共通した傾向性として、「仏性という思想について誤解をしている」ということがあると思います。(中略)「みんなが努力して仏にならなければいけない」という考え方から、仏の基準を引き下げてしまうことによって、「だから、みんな仏になれるよ」と言っている、そういうところがあるのです。
たとえば、「人間は、大海を漕ぎ渡って、向こうの大陸まで渡ることが可能である」という考え方があるとしますと、(中略)それを言っても誰も船出をしないので、ついには大海の定義を変えてしまって、「人間は水たまりを飛び越すことが可能である」というような、小さなレベルに下ろしてしまっているわけです。(中略)
人間が雨後の田舎道にできた水たまりをひと跨ぎで越えるぐらいのことに、いったいどれほどの手柄がありましょうか、功績がありましょうか、喜びがありましょうか、また修行がありましょうか。そうではないのです。
たとえば、太平洋をヨットで横断するのならば、その間には、非常に艱難辛苦を伴います。雨も降る。太陽も照りつける。食糧がなくなる。水がなくなる。筋肉は痛む。身体はジリジリと日焼けしてくる。そのなかで、苦労をしながら大海を渡ると、その間の、たとえようもない試練のなかで、魂が鍛えられることもある。そして人生が磨かれることがある。また雄大な海のなかで思想を深めることができる──。
そういう、他の誰もが経験していないようなことを経験できた人がいて、海を渡っていく素晴らしさを懇々と説いたところ、「なるほど、私たちも海を渡れるのか」ということで、最初の頃の人たちは、努力して、ボートを漕いだり、ヨットに乗ったりして、湾のなかで練習をしていた。ところが、それが二千数百年後には、いつのまにか、「水たまりをひとっ飛びに渡ることが悟りである」というような思想になって広がっていたとしたら、どうでしょうか。
最初に太平洋を渡って、その素晴らしさを人々に伝えた人は、それを知ったらどうなりましょう。「私は水たまりを飛び越すことをもって悟りとは言わなかった。そんなことではなかった」と、きっと言うに違いありません。
今、釈迦が、現時点での日本の仏教のあり方をみたら、これとまったく同じ思いがして当然であると私は思うのです。
(48~53ページ)
仏性とは「悟りの性質」という意味であり、「悟りの可能性」と言い換えられる。
「すべての人に悟りの性質があること」が即ち、「すべての人が、如来や仏陀になれる」ということではなく、それまでのあいだに適正なる過程を経なければならない。
ところが、多くの宗教は、この仏性の思想を誤解し、仏の基準を引き下げてしまうことによって、「だから、みんな仏になれる」と言っているところがある──。
既存の仏教では、たとえ悪人であっても、念仏さえ唱えれば仏になれると説いている宗派が最大と言われいると思います。
でもその教えは、お釈迦様(釈尊)の当初の考えからは、かなり外れてしまっているということだと思います。
いくら人間には等しく悟りの性質、仏になる可能性があるといっても、やはり、大宇宙をつらぬく「縁起の理法」(「原因・結果の法則」)があるわけです。
適切な修行を積むことで、今世、悟りを開くこともあるでしょう。また、そういった修行を重ねて行き、長い長い転生の間に、如来や仏陀に至ることはあり得ることだと思います。
しかし、「適正なる過程」と大川隆法先生が説かれているような、適切な修行を何もすることなしに、念仏を唱える程度では、一足飛びに仏(仏陀)になるようなことは起こらない、ということなのだと私は理解しているのです。
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『心の挑戦』
大川隆法著 |
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