ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



キリスト教って、世界宗教なんだろうけど、自分たちが神によって選ばれた特別な民族だとか、聖書に書いてあるんでしょ。選んだ民族しか愛してくれない神さまなんて、ちょっとついていけないなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 また、『聖書』の一部である『旧約聖書』において、イスラエルの人びとと神との契約の流れを見るにつけても、信じがたいものが数多くあります。
 いちばん問題があると思えるのは、モーセが「出エジプト」をなしたときのことです。当時、ユダヤ人の壮年男性が六十万人ほどいたと記録には遣(のこ)っています。その数が事実だとしても、この壮年男性六十万人を導いた神が、ユダヤ人、イスラエル人だけを守護し、イスラエル人とだけ契約し、異民族や、他宗教を信ずる者たちを排撃する神であるとするならば、この神がほんとうに造物主であり、唯一の神であり、世界を創った全智全能の神であると、みなさんは信じられるでしょうか。(中略)
 民族神は造物主にはなれません。民族神は、全世界を創り、全世界の人びとを幸福に生かすことはできません。民族神の使命は、限られた民族の幸福を願うことです。その民族神の上に、全民族、全世界の人びとを幸福に導こうとしている霊人たちがいます。これが霊界のほんとうの姿なのです。
 したがって、数の上では世界の十数億の人びとのあいだに広まったとされるキリスト教であっても、その信仰の原点のところにおいて、「民族神を造物主と誤ってはいないか」という論点があるのです。
 さらには、キリスト教のなかにある「選民思想」──現代でいうならばナショナリズムともいうべき右翼的思想が、唯一神の考えだと思われたために、その後の数千年の歴史のなかで、どれだけ多くの血が流れたことでしょうか。『旧約聖書』を読めば、モーセを導いた神は、「カナンの地を自由に奪い取ってよい」「イスラエル以外の民族を打ち殺して、土地を奪ってよい」と教えています。きわめて偏狭でナショナリスティックな指導をしています。オールマイティーの神ではありません。
 神がそのように、「暴力を振るい、人びとを殺して、土地を奪ってよい」と言っているから、その後のキリスト教徒たちの流れを見なさい。その教えを広げるために、どれほど植民地主義的行為をなしたか。どれほど多くの人びとを苦しめたか。アフリカ大陸をケーキのように切り取ったのは誰であったか。キリスト教徒たちではなかったか。アメリカの地において、父祖伝来の地に住んでいたインディアンたちを、ほとんど絶滅の危機に陥れたのは誰であったか。クリスチャンの仕業ではなかったのか。
 それは、その教えのルーツ(根源)において、ゼネラル(普遍的)な神の思想ではないものが入っているからです。(中略)
 しかし、キリスト教を、このような偏狭な思いから救い、世界宗教になすために、歴史上、大きな力が働いています。これが、ローマ帝国以降、ヨーロッパにキリスト教が広まっていくときに働いた、霊天上界の力、愛の力、愛の教え、愛の神エル・カンターレの指導です。
 古代ユダヤの預言者たちを地上に出したときに、「エロヒム」、あるいは「エル」という名で彼らを指導したのもエル・カンターレです。そこには、カトリックのもとである普遍主義、普遍的なる教えがありました。しかし彼らは、肉を持つ人間の悲しさとして、それを理解しきることが、なかなかできませんでした。
(24~27ページ)

キリスト教の方には信じがたい話だろうと思いますが、ここで大川隆法先生は、大変なことを説いておられます。

キリスト教には、イスラエルの民族神の教えと普遍的な神の教えが混在しているが、この普遍的な神である「エロヒム」や「エル」こそが、実はエル・カンターレであったのだ、というのです。

『黄金の法』をひもといてみると(279~280ページ)、ここでイスラエルの民族神と言われているのはヤハウェと呼ばれる神であり、実は「エンリル」という九次元霊であったことが明かされています。

従来のキリスト教では、神は唯一神のはずなので、ヤハウェもエロヒムやエルもこの唯一神のことを指しているとしか理解されませんでした。

でも、九次元という最高霊域に10体の大霊がおられ、いずれも「神」と呼ばれてきたことを知ることで、ここでのお教えの意味がよく分かってきます。

また、キリスト教は普遍的な愛の教えを説くはずなのに、なぜに歴史上たくさんの過ちを犯してきたのかなど、多くの宗教的疑問が解消されてきます。

さらに、「日本発世界宗教」と表現される幸福の科学が、日本人について、旧約聖書に言う意味での“選ばれた民”などと位置づけていないことにも改めて気づかざるを得ません。

そして、その理由についても、今日のお教えでよく理解できた気が私はしているのです。 

 

『信仰告白の時代』

 大川隆法著



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