のりぞうのほほんのんびりバンザイ

あわてない、あわてない。ひとやすみ、ひとやすみ。

お見通し

2010年03月03日 23時50分44秒 | 日常生活
2回目の転入会教育を受けるため、仕事帰りに教会へ。
今、通っている教会の牧師は、話がとても面白く
説明も分かりやすいので大好きです。
しかしながら、誰がなんと言おうと、人見知り体質のワタクシは
とても尊敬している牧師にもかかわらず、
まだまだ会話に慣れておらず、毎回、しどろもどろ。
牧師からの質問にも、四苦八苦しながら答えます。

1回目の教育では
「のりちゃんは、信仰でもっとも大切にしているものは何かな?」
という質問を受け、頭が真っ白に。

考える時間が1週間ほど欲しいんですけど。
と、答えたくなりましたが、
もちろん、そんなフザケタことが言えるわけもなく。
おずおずと
「祈りでしょうか・・・。」
と答えたのでした。
その答えを聞き、「なるほど。」と考え込む牧師。

・・・考え込まないでください。
とっさに思いついたのが「祈り」だっただけなのです。
深くは考えていませんから。
もっとも、「とっさに」思いつくあたり
やはり、ワタクシにとって、「祈り」が
もっとも身近と言えないこともないかもしれない。
ような気がしないでもないような。
しかしながら、決して決して、
牧師を考え込ませるような回答ではありません。
それだけは胸をはって言えますから。
と、挙動不審なまま、1回目の研修を終えたのでした。

というわけで、2回目は「祈り」について
牧師と聖書を読み進め、意見を交わし合いました。
その中で心に残った牧師の言葉。

・結局のところ、私のことは、私にすら分からない。
・信仰は神様を追い求めることではない。
 神様に包まれていることを知ることである。
・委ねる、ということは、神様に全部を任せてしまうことではない。
 神様が「しなさい」と言っておられることに、全力で取り組むこと。
 だから楽なことではなく、むしろ嫌だと思うことのほうが多いのだ。

この中でも特に「私のことは私にすら分からない」という言葉が胸に響きました。
「自分探し」という言葉が苦手で、
その言葉に対しておさまりの悪い気持ちをずっと抱いていたけれど、
でも、私自身も苦手と思っていた「自分探し」をしている人たちと
なんら変わりはなかったんだなぁ・・・と素直に思いました。

自分を棚に上げて人ばかり、見すぎてしまうところ。
理屈からしか入れないところ。
納得しないと動けないところ。
そして、
人から見られている自分を気にしすぎているところ。
こういった自分と向かい合えた気がします。
向かい合っても、なかなか受け入れられないし
まだまだ「向かい合えない自分」もたくさんいるわけですが。

勉強会の最後、牧師から
「何か聞きたいことある?わからんことない?
 何か感想でもいいけど。」
と、聞かれたので、正直に答えました。

「お祈りをするときは、今の自分をそのまま委ねることにします。
 神様の前ですら、ええかっこしいのお祈りしてしまうときがあるんで。
 ええかっこしいの自分が「正直」と言えば「正直」なんですけど。」

面白がりながらも、呆れる牧師。
「そういうの、無駄な努力って言うんやで。
 神様、絶対に
 『そんなん、無駄やって。あんたの考えとうことは分かっとうって。』
 って言いながら、笑いよるで。」

・・・確かに。
つくづく無駄な努力と縁がある人生です。