今年は細々と読書を復活させます。
去年はスマートフォンを手に入れたおかげで他人様のブログを読み漁ることにはまってしまい、読書にまったく時間が割けなかったのです。今年は1か月5冊を目標に読み進められたらいいな。とりあえず図書館通いは昨年末から復活しました!
久々にじっくり心を落ち着けて、本の中の世界を楽しみます。
1.未成年/イアン・マキューアン
◇ストーリ
輸血を拒む少年と、命を委ねられた女性裁判官。
法廷で様々な家族の問題に接する一方、自らの夫婦関係にも悩む裁判官の元に、信仰から輸血を拒む少年の審判が持ち込まれる。聡明で思慮深く、しかし成年には数か月足りない少年。宗教と法と命の狭間で言葉を重ねる二人の間には、特別な絆が生まれるが・・・。
◇感想
教会友達が貸してくれた本です。貸してくれた時に「この本はのりちゃんと感想を共有したい」と言われたにも関わらず、読み進めるのがきつくて、なかなか読み終わらず、とうとう年を越えてしまいました。きつかった・・・。
中盤までは、宗教って一体なんなんだろう?と思いながら読み進めていました。私はクリスチャンだけれど、敬虔という言葉とはほど遠いクリスチャンです。神様より自分の生活をついつい優先させてしまう、それでいて弱っているとき、辛いときは聖書の言葉や教会の存在に心励まされる。つまり宗教を自分の都合のよいように使っているといっても過言ではない身勝手なクリスチャンです。「神様」を主語にできず、ついつい自分主体で動いてしまう。そんな私にとって、「エホバの証人」である主人公やその家族たちが自分や自分の愛する息子の命よりも神の教えを優先させる姿勢は「よく分からない。でもわかる部分も少しある気がする。でも、やっぱり分かりたくない。分からない」という身近なような、まったく理解できないような存在でした。畏怖の対象、という言葉が少し近い気がします。
私は宗教というものは人が生きることを応援するものであるべきだ、と思います。
人が生きていくうえで、心の支えになるものだと思っています。
「生きる」ことを阻むものであってはいけない、と思っています。
そうあってほしい、と思っています。
世の中にはいろんな宗教があって、私は、それらの宗教を否定するつもりは毛頭ないし、できることならば他の宗教を信じる人たちともお互いに尊重し合い、いつくしみ合って生きていきたい、そう願っているけれど、それはその宗教が人の命を大切にしていることが大前提だと思っています。
信じる人の理解が足りなくて、つい自分の命を粗末にしてしまう、そんなこともあるかもしれないけれど、でも宗教には「生きよう」と声高に言ってほしい、と改めてそう思いました。
ただ、読み終えて一番強く心に残ったのは「誰かにかかわること」の怖さと支えを失った人のもろさでした。
誰かに関わるのであれば、中途半端はよくないし、覚悟を決めて、真摯に向かい合うべきだ、と思わされました。そして、そういった覚悟がない自分の弱さをずっと突き付けられながら読み進めました。私が主人公であっても、きっとこの小説のヒロインと同じように少年と向き合うことができず、それを大人のずるさでごまかしていただろうな、と思うと、やりきれなくなりました。
人が生きていくには支えが必要なのだ、と改めて思いました。
支えとなるものは宗教であってもいいし、自分にとって大切な誰かの存在であってもいい。なんでもいい。
けれど、それを失った人間はこんなにももろいのかと哀しくなる物語でした。今もまだもやもやしています。
去年はスマートフォンを手に入れたおかげで他人様のブログを読み漁ることにはまってしまい、読書にまったく時間が割けなかったのです。今年は1か月5冊を目標に読み進められたらいいな。とりあえず図書館通いは昨年末から復活しました!
久々にじっくり心を落ち着けて、本の中の世界を楽しみます。
1.未成年/イアン・マキューアン
◇ストーリ
輸血を拒む少年と、命を委ねられた女性裁判官。
法廷で様々な家族の問題に接する一方、自らの夫婦関係にも悩む裁判官の元に、信仰から輸血を拒む少年の審判が持ち込まれる。聡明で思慮深く、しかし成年には数か月足りない少年。宗教と法と命の狭間で言葉を重ねる二人の間には、特別な絆が生まれるが・・・。
◇感想
教会友達が貸してくれた本です。貸してくれた時に「この本はのりちゃんと感想を共有したい」と言われたにも関わらず、読み進めるのがきつくて、なかなか読み終わらず、とうとう年を越えてしまいました。きつかった・・・。
中盤までは、宗教って一体なんなんだろう?と思いながら読み進めていました。私はクリスチャンだけれど、敬虔という言葉とはほど遠いクリスチャンです。神様より自分の生活をついつい優先させてしまう、それでいて弱っているとき、辛いときは聖書の言葉や教会の存在に心励まされる。つまり宗教を自分の都合のよいように使っているといっても過言ではない身勝手なクリスチャンです。「神様」を主語にできず、ついつい自分主体で動いてしまう。そんな私にとって、「エホバの証人」である主人公やその家族たちが自分や自分の愛する息子の命よりも神の教えを優先させる姿勢は「よく分からない。でもわかる部分も少しある気がする。でも、やっぱり分かりたくない。分からない」という身近なような、まったく理解できないような存在でした。畏怖の対象、という言葉が少し近い気がします。
私は宗教というものは人が生きることを応援するものであるべきだ、と思います。
人が生きていくうえで、心の支えになるものだと思っています。
「生きる」ことを阻むものであってはいけない、と思っています。
そうあってほしい、と思っています。
世の中にはいろんな宗教があって、私は、それらの宗教を否定するつもりは毛頭ないし、できることならば他の宗教を信じる人たちともお互いに尊重し合い、いつくしみ合って生きていきたい、そう願っているけれど、それはその宗教が人の命を大切にしていることが大前提だと思っています。
信じる人の理解が足りなくて、つい自分の命を粗末にしてしまう、そんなこともあるかもしれないけれど、でも宗教には「生きよう」と声高に言ってほしい、と改めてそう思いました。
ただ、読み終えて一番強く心に残ったのは「誰かにかかわること」の怖さと支えを失った人のもろさでした。
誰かに関わるのであれば、中途半端はよくないし、覚悟を決めて、真摯に向かい合うべきだ、と思わされました。そして、そういった覚悟がない自分の弱さをずっと突き付けられながら読み進めました。私が主人公であっても、きっとこの小説のヒロインと同じように少年と向き合うことができず、それを大人のずるさでごまかしていただろうな、と思うと、やりきれなくなりました。
人が生きていくには支えが必要なのだ、と改めて思いました。
支えとなるものは宗教であってもいいし、自分にとって大切な誰かの存在であってもいい。なんでもいい。
けれど、それを失った人間はこんなにももろいのかと哀しくなる物語でした。今もまだもやもやしています。