Harumichi Yuasa's Blog

明治大学専門職大学院ガバナンス研究科(公共政策大学院)教授・湯淺墾道のウェブサイトです

タクシーメーターと柳原博光

2024年09月11日 | 自治体

電車やバスと比較すると、タクシーに関する資料は非常に少ない。その中で佐々木烈『日本のタクシー自動車史』(三樹書房、2017年)は貴重な一冊である。しかし、本書にも記載されていないことがある。その一例は、タクシの料金メーターを導入することになった経緯である。

東京のタクシーの料金について、戦前は料金メーターが取り付けられておらず、海外の一部で現在でも採用されているようなゾーン制料金となっていた。 

しかし実際には、運転手と顧客の交渉で決まっていたということは、さまざまな本に記述がある。 

「円タク」という名前があるように、都内は1円が基本であったが、交渉次第でそこから値切ったり、遠い場所に行くときには多く支払ったりというのが実際の料金の決め方だったようだ。たとえば流しのタクシーを手を挙げて呼び止めるとき、5本の指を広げて挙げるときは50銭で乗るという意思表示であったらしい。 

阿川弘之『山本五十六』には、山本五十六が、タクシーに乗るときに、白手袋をして5本の指をひろげたように見せて乗車し、いざ料金を払う段になると「俺は3本だ」といって値切ったというエピソードがある。山本五十六は、海軍兵学校を卒業して少尉候補生として日本海海戦に従軍した際、戦傷で左手の人差し指と中指を喪っていて、左手は三本しか指がなかったからだという。 

東京のタクシーにメーターを取り付けるようになったのは、日中戦争が始まって燃料事情が悪化するようになったことと、昭和15年に開催される予定になっていた東京オリンピックで、外国人客に公明正大に料金を請求する必要があったこととされている。 

「石油消費規正」の観点からタクシーのメーター導入を主導したのは、海軍から商工省燃料局第2部長に出向していた海軍機関大佐の柳原博光で、『石油の波を想う』(原書房、1964年)という回顧録の中に、「東京オリンピックと自動車タクシーメーター」という章があり(もともとはス水交社の雑誌『水交』162号に寄稿したもののようだが、現在調査中)、旗幟鮮明でない内務省、取締りの困難性から難色を示す警視庁、航空部品製造優先の見地からタクシー用メーターに資材を取られることに中島知久平大臣自身が反対していた鉄道省などを説得して導入にこぎ着けたという。 

ただ昭和15年3月9日に開催された第75回帝国議会衆議院特別委員会では、政府委員として柳原が答弁しているが、石油消費の節減のためタクシーには木炭自動車や天然ガス自動車を奨励したいと述べていて、メーターの話は出てこない。 

またメーター自体については、石油連合から50万円を出資してもらって自動車計器株式会社を設立し、製造に当たることになったという。 

ということなのだが、前述の佐々木烈『日本のタクシー自動車史』にもこの間の経緯の記載がなく、メーターの専門会社である矢崎グループの関係資料を見ても自動車計器株式会社についての話は出てこないので、さらに調査が必要のようだ。 

なお燃料の専門家だったので、戦地に赴き海戦の指揮を執るということはなかったようで、海軍中将で終戦を迎えている。 戦前の海軍の機関将校の中で燃料関係は要職の一つで、雨倉孝之『帝国海軍将官入門』(光文社)は「燃料廠の廠長も機関科将校としては栄職の一つ」としている。柳原博光も第1燃料廠長を務めている。 

柳原博光と柳原家との関係であるが、元老院議長を務めた維新の元勲のひとりの柳原前光伯爵が。芸妓との間でなした子が有名な歌人の柳原白蓮である。爵位を継いだのは長男の柳原義光で、その妹の愛子は大正天皇の生母として「二位局」と呼ばれた。義光は、岡山藩池田家宗家10代当主で最後の藩主であった池田慶政の五女の銀子と結婚した。義光と銀子との間には男子がなく、長女の福子の婿養子として、公家出身の華族である大原重朝伯爵の三男の義質を迎えた。これが柳原博光である。 

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