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おとらのブログ

観たもの、見たもの、読んだもの、食べたものについて、ウダウダ、ツラツラ、ヘラヘラ書き綴っています。

奈河彰輔さん

2014-10-17 23:52:18 | 訃報
 奈河彰輔さんがお亡くなりになりました。83歳でした。

 「歌舞伎美人」に掲載されているプロフィールです。
 1931年大阪市生まれ。大阪大学経済学部卒業後、松竹株式会社入社。京都南座支配人、演劇部部長、常務取締役を経て、現在演劇部顧問。日本演劇協会会員。
 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、『小栗判官車街道』など上方歌舞伎の埋もれた作品の復活上演や、『慙紅葉汗顔見勢―伊達の十役』『獨道中五十三駅』など市川猿之助の復活狂言の脚本、演出を多数手がける。
 大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。上方歌舞伎の生き字引。
 本名は中川芳三。中川彰のペンネームで中間演劇(新派と新劇の中間の新しい演劇)の演出や、上方歌舞伎の普及、啓蒙に関わる執筆も行っている。

 もちろん、直接は存じ上げませんが、少しご縁のある方でしたので、勝手に親近感を持っておりました。本ブログでも何度か書かせていただいているかと思いますが、奈河さんの弟さんと前の前の会社でいっしょに働いておりました。その弟さんを通じて何度か歌舞伎の切符を取っていただいたことがあります。松竹のエライさんだけあって、中座では花道横、七三で役者さんが見得を切ると目が合うお席でした。南座での福助襲名披露で桟敷席を取っていただいたことがあります。南座では孝夫さんが「ハムレット」をなさったことがあり、もちろん見に行っておりますが、それも取っていただいたのではないかと思います。

 それを覚えてくださっていたのか、後に、「孝夫好きな女の子ににあげて」といただいたのが下のテレフォンカードです。ワタクシ、家宝にしております。
 

 ここまで歌舞伎好きになるのなら、当時、直接紹介していただいておけばよかったと返す返すも口惜しゅうございます。と、言っても、弟さんのほうとも課は違うし、年齢もずいぶんと上でしたので、それほど親しいわけではなく、たまたま私の直属の上司が飲み友達だったので、その上司を通じていろいろお願いしておりました。関西松竹にいらっしゃったので、南街シネマ地下の本屋さんで何度かお見かけしたことがありました。

 心よりご冥福をお祈り申し上げます。 

 

 
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常磐津一巴太夫さん 【追記】あり

2014-08-17 23:39:36 | 訃報
 常磐津節浄瑠璃の人間国宝、常磐津一巴太夫(ときわづ・いちはだゆう)さんがお亡くなりになりました。83歳でした。

 今朝はバタバタとして朝刊も読まずに家を出たのですが、外出先でケータイのニュース速報で一巴太夫さんの訃報を知り、びっくりしました。先月の松竹座では昼の部の「女夫狐」、夜の部の「身替座禅」をお元気にお勤めでした。と何だか知ったかぶりして書いていますが、もともと「孝夫さ~ん」「玉ちゃ~ん」のミーハーファン、役者さんばかり見ているクチですので、浄瑠璃の方も鳴物の方もほとんどわからないんですが、一巴太夫さんは登場されると大向こうがかかりますので、お名前とお顔が何とか一致する数少ない浄瑠璃方さんでした。というような状況ですので、当然のことながら常磐津節に対する知識も聞く力もあろうはずがなく、一巴太夫さんの芸を「こうだ!」とちゃんと書けなくて、ひとつの記事としてUPしながら、申し訳ないことでございます。

 文化庁のサイトに掲載されていた一巴太夫さんのプロフィールおよび常磐津節の紹介です。
 明田昭(常磐津一巴太夫)氏は、昭和23年に本格的に修行を始め、同27年に常磐津一巴太夫を名乗り関西を中心に活動し、同53年に歌舞伎座初出演以後関東はじめ全国的に活躍しています。平成7年には常磐津節浄瑠璃の技法に精通し高度に体現していることから保持者に認定され、また一般社団法人関西常磐津協会理事長をつとめ常磐津節の普及・振興、後継者の育成にも尽力しています。
 常磐津節は、三味線音楽の語り物である浄瑠璃の一つで、主として江戸の歌舞伎舞台での出語りを主とする歌舞伎音楽として発達し音楽的に洗練され、さらに歌舞伎や舞踊の舞台を離れて独立した音楽としても演奏されるようになって現在に至っています。

 今回この記事を書くにあたって、一応ヤホーで「常磐津一巴太夫」を検索してみたのですが、一巴太夫さんご本人が教えてくださる常磐津のお教室の案内が引っかかってきまして、ちょっと習ってみたかったかも、って思いました。そういえば、住大夫さんも朝日カルチャーセンターでお教室をお持ちだったんですよね。皆さん、古典芸能を広めるため、親しんでもらうために非常に地道なご努力をなさっていらっしゃるんですね。私もせいぜい劇場に通って微力ながら古典芸能の振興に協力できたらと思います。

 常磐津一巴太夫さんのご冥福をお祈りいたします。

 【追記】
 吉弥さん(美吉屋さん)がご自身のブログで一巴太夫さんへの追悼文を書いていらっしゃいます。常磐津のご指導を受けられ、ごいっしょの舞台に立たれた吉弥さんならではのとてもお心のこもった文章です。一巴太夫さんの誠実で温かいお人柄が伝わってきます。ぜひぜひお読みくださいませ。  
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おかしやけいちゃん

2014-04-05 23:29:47 | 訃報
 蟹江敬三さんがお亡くなりになりました。69歳でした。

 新聞の訃報を見ると、野生的な風貌とイメージで昔は犯人役、悪役が多かったのが、水谷豊さん主演の「熱中時代」でエエ人のお巡りさんを演じてから、善人役もお演りになるようになったそうです。最近ではNHKの「あまちゃん」におじいちゃん役でご出演でした。犯人ばっかり演っていたイメージがかすかに残っています。最初、エエ人になったとき、違和感がありましたから。

 たぶん、その“エエ人”役を演じられるようになった頃にあたると思うんですが、タモリの「今夜は最高」のゲストとして出演されて、それまでは犯人、特に強姦する役が多かったということから、ご自分のことを「犯し屋敬ちゃん」とおっしゃって、「お菓子屋ケンちゃん」のもじりだと思うんですが、語呂があまりによすぎてとても印象に残っていて、本日のタイトルに使わせていただきました。それにしてもうまいこと言ったものだと思います。

 69歳なんてお若いですよね。まだまだ活躍していただきたかった俳優さんです。ご冥福をお祈りします。
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藤巻幸夫さん

2014-03-16 23:44:42 | 訃報
 参議院議員の藤巻幸夫さんがお亡くなりになりました。54歳でした。

 「参議院議員」と書きましたが、藤巻さん、いつの間にか参議院議員になっていらっしゃったんですね。藤巻さんと言えば“伊勢丹のカリスマバイヤー”、リ・スタイルや解放区といったいわゆる自主編集の売り場、またバーニーズニューヨークの立ち上げに関わられた方です。2003年に伊勢丹を退社後は、福助の社長に就任、傾きかけていた福助を再建されました。

 伊勢丹や百貨店のことを書いた本には必ず登場されていました。とてもエネルギッシュでバイタリティ溢れた方で(って直接存じ上げているわけではありません。あくまで本に書かれていた二次情報ですが…)、なるほどこうやって“ファッションの伊勢丹”はできているのね、と思った覚えがあります。フリーになられてからも時々はお名前を見かけていましたが、まさか政治家になっていらっしゃるとは、今回の訃報で知りそっちもびっくりしました。

 お亡くなりになってからこんなことを書くのもナンなんですが、藤巻さんが大阪伊勢丹を任されたら、どうされたのかしらとちょっと思ってしまいました。 

 それにしても54歳とはお若いです。政治家としてもこれからバリバリと活躍していただきたい年齢ですよね。ご冥福をお祈りいたします。
 
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安井昌二さん

2014-03-04 23:19:14 | 訃報
 劇団新派の俳優である安井昌二さんがお亡くなりになりました。85歳でした。

 私の中での安井昌二さんといえば、何をさておいても“チャコちゃんのパパ”です。チャコちゃんのドラマは、50年近く前のことなので、内容がどんなだったかは覚えていませんが、大好きなドラマだったことは確かです。毎週欠かさず見ていた記憶があります。チャコちゃんの四方晴美さんの本当のお父様で、ドラマにはお母様の小田切みきさんもママの役でご出演、本当の夫婦親子が夫婦親子に扮して出演していたドラマだったそうです。

 最近になって、新派も見るようになって、新派の俳優さんというのは存じ上げておりましたが、今回の訃報で安井昌二さんの経歴を初めて知りました。日本大学法文学部を卒業後、長谷川一夫さんの新演技座の研究生となり、その後俳優座養成所の3期に入所。卒業後は映画界入りし、1956年に市川崑監督の映画「ビルマの竪琴」に水島上等兵役で主演し、高い評価を得られました。劇団新派への客演がきっかけとなって、新派に入団、初代水谷八重子さんの相手役をお勤めになり、初代八重子さん没後は二代目八重子さん、波乃久里子さん、菅原さんと共に、新派の4本柱と言われているそうです。

 新派の舞台は3年前の「女の一生」、昨年の「東京物語」に行きました。どうしてもチャコちゃんのパパの印象が強くて、最初、ずいぶんとお年を召した(スミマセン)安井昌二さんが登場されたときは、若干の違和感がありましたが、安井さんの場面はすっと締まった感があって、安心して拝見できました。昨秋の「東京物語」のお父さんのお役もなんとも言えない哀愁といいますか、雰囲気があって、しみじみとした良質の舞台でした。

 ご冥福をお祈りいたします。
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波平さん

2014-01-27 18:29:34 | 訃報
 テレビアニメ「サザエさん」でお父さんの波平さんの声をなさっていた永井一郎さんがお亡くなりになったそうです。82歳でした。

 今、ヤホーのニュースで見てビックリしました。

 「サザエさん」にご出演の声優の方たちって、一部は交替されていますが、主だった方たちは番組当初から変わっていらっしゃいませんよね。「サザエさん」自体が放送年数45年ですので、例えば20歳で始められた方でも既に65歳です。皆さん、それなりにご高齢になっていらっしゃるのは聞いていましたが、こうやって現実にお亡くなりになったと聞くとかなりショックです。あの「ばっかもーーーん」はもう聞けなくなるんですね。寂しいです。

 永井さんの声じゃない波平さんってどうなるんでしょうか…。想像がつきませんが…。

 永井一郎さんのご冥福をお祈りいたします。
 
【追記】
 アニメの「サザエさん」も大好きなんですが、私の中のサザエさんの“原風景”は実写版、それも江利チエミのサザエさん、清川虹子のフネ、川崎敬三のマスオさんです。そのイメージが強烈で、その後の星野知子、浅野温子、観月ありさの実写版はあえて避けています。「サザエさん」と書いたら、そんなことを思い出しました。
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山崎豊子さん

2013-09-30 23:51:43 | 訃報
 小説家の山崎豊子さんがお亡くなりになりました。88歳でした。

 “すっごいファン”というわけではないんですが、結構好きでよく読んでいます。私の中では山崎さんの小説は「ハズレがなく、とりあえず最後まで飽きずにちゃんと読める」という認識があり、海外旅行の際によくお供として持って行きました。

 ウィキペディアで作品リストを見ましたが、そんなにたくさん書いていらっしゃるわけではないのですね。キャリアの割には少ないような、そのかわり、ひとつひとつの作品が長編なんですが。

 私が読んだのは「暖簾」「女の勲章」「女系家族」「白い巨塔」「仮装集団」「華麗なる一族」「不毛地帯」です。最近のは読んでいません。「運命の人」は外務省の機密漏洩事件がモデルになっていると聞き、興味があるので読みたいのですが全4巻という長さが読めるのか?という不安と、ちょうどテレビドラマ化されていたので、そういうのに引きずられて読むのが個人的に「潔し」と思わない人なので、結局まだ買ってません。これを機に読んでみようかなぁとちょっと思っています。

 山崎さんの小説は大体がテレビドラマ化あるいは映画化されています。その中でも1976年にテレビドラマになった「女の勲章」には孝夫さんがご出演でした。4人の女性を手玉に取る悪いヤツです。でもね、それって4人もの女性が放っておかないエエ男ってことなんです。歌舞伎で言うところの“色悪”ですね。本当にはまり役で、とってもステキでした。1976年ってことは、ワタクシまだ女子高生でしたが、そういう色悪の孝夫さんのすっかりファンになってしまいました。

 テレビドラマと言えば「華麗なる一族」にもはまり(1974年のほうです)、わざわざ原作本を買って読みました。1974年ってことは、ワタクシまだ女子中学生、さすがに女子中学生には刺激の強い本ではありましたが、ドキドキしながらもしっかり最後まで読みました。これを必死で読んでいる時、同じクラスのいいなぁと思っていた男子が「かもめのジョナサン」を読んでいて、じゃあ私もと思って買ったけど、私には全然面白くなくて、「あんなドロドロとしたドギツイ小説のほうが好きなワタシって…」と些か落ち込んだ思い出がございます。

 今年の8月から「週刊新潮」で連載小説「約束の海」を執筆されていたそうですが、予定していた20回分は既に書き上げていらっしゃったそうです。すごい方です。このことを会社の夕刊で読んで、いつもは「明日できることは明日しよう」でテキトーに仕事を切り上げるんですが、今日は思わずあと15分頑張って仕事を終わらせてきました。きちんと生きよーってちびっと思いました。

 山崎豊子さんのご冥福をお祈りいたします。
 
 
 

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川瀬白秋さん

2013-08-03 11:09:50 | 訃報
 川瀬白秋さんがお亡くなりになりました。83歳でした。

 川瀬さんは生田流箏曲白秋会家元で、琴・三味線・胡弓の三曲演奏家として歌舞伎にも非常に御縁の深い方でいらっしゃいます。玉ちゃんが「阿古屋」をお勤めになるときにも三曲をじきじきにご指導されました。

 5月に亡くなられた演劇研究家・河竹登志夫さんのご著書「日本の古典芸能」の中で、川瀬さんは河竹さんと対談されています。「胡弓」って日本の伝統楽器だったんですね。私、これを読んで初めて知りました。てっきり、中国の楽器かと…。それにしてはなぜ「阿古屋」で演奏されるんだろう?と思っていたのですが…。

 日本で唯一の擦弦楽器だそうですが、私みたいに中国の二胡と混同する人が結構いらっしゃるようで、胡弓の普及活動にも熱心に取り組まれました。胡弓のリサイタルっていうのもいろいろ企画されているようで、ちょっと聞いてみたいと思いました。

 歌舞伎役者さんへのご指導の機会も多く、玉ちゃんはもちろんですが、歌右衛門さんや吉右衛門さん、勘三郎さん、時蔵さんもお弟子さんだそうです。玉ちゃんのことを「ただごとじゃない勉強家」と褒めていらっしゃいました。でなければ、あの「阿古屋」はできないんでしょうね。

 ご冥福をお祈り申し上げます。
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茂山千作さん

2013-05-23 23:52:30 | 訃報
 狂言の茂山千作さんがお亡くなりになりました。93歳でした。

 プロフィールです。
 大正8(1919)年、三世茂山千作さんの長男として京都に生まれ、13年に「以呂波」のシテで初舞台。昭和41年に当主名である十二世茂山千五郎を襲名し、天衣無縫の芸と圧倒的な芸格で多くの人から親しまれていらっしゃいました。
 戦後、狂言界が低迷するなか、父や弟の千之丞さん(平成22年死去)とともに学校巡演を積極的に行い、観客の裾野を広げる活動に邁進。昭和29年には武智鉄二さん演出の「東は東」で女優と共演、その後も千之丞さんとともに異流派とも共演するなどタブーに挑戦、旧態依然とした能楽協会から一時は“退会勧告”まで出たそうですが、あまりの人気に沙汰止みとなったそうです。
 平成元年に人間国宝となり、3年に日本芸術院会員。6年には長男に千五郎の名前を譲り、自身は隠居名の四世千作を襲名。その後も精力的に舞台に立ち、19年には狂言界初の文化勲章を受けられました。

 「存在が狂言」と言われていました。舞台に登場しただけで、何もしなくても、座っているだけでお客さんがニコニコ顔になります。狂言師になるべくして生まれてきたお方でした。枝雀さんが将来どんな落語家になりたいか聞かれたときに、「高座に上がって、30分間何もしゃべらずにニコニコして、そして下りる」というようなことをおっしゃっていましたが、千作さん、その理想像にとても近くていらっしゃったと思います。

 何度かナマの舞台を拝見しています。印象に残っているのは千之丞さんと共演された「宗論」です。歌舞伎の「連獅子」の途中に入るアレです。お二人がとても楽しそうに演じていらっしゃいました。「福の神」を演じられたら、「そうそう福の神ってこんなんやわぁ」と万人が納得、本当にお目出度い気分になれました。それと、やはり、“This is 狂言”の大笑いも外せませんね。聞いているこちらまでスカッとします。 

 昨年3月の京都・金剛能楽堂で開かれた春の茂山狂言会が千作さんの最後の舞台となったそうですが、私が拝見したのは平成21年10月の秋の茂山狂言会でした。その記事はこちら

 千之丞さんが先に逝かれてかなりショックを受けていらっしゃたとお聞きしていましたが、今頃はあの世で再会され、早速狂言のお稽古でもされているんでしょうか。その前に「まず一献」でしょうか。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
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市川團十郎さん

2013-02-04 23:55:05 | 訃報
 市川團十郎さんがお亡くなりになりました。

 もうびっくりしました。いつもなら、寝る前にネットをチェックするんですが、昨夜は遅かったのでそのまま休み、今朝テレビをつけたら、いきなりこのニュースで…。そういえば、勘三郎さんの時も、朝起きぬけのニュースで訃報を聞きましたね。あれから2ヶ月、たった2ヶ月の間に歌舞伎界の大きな星が二つも墜ちてしまうなんて…。前の歌舞伎座が閉場してから、富十郎さん、芝翫さん、雀右衛門さんが続けてお亡くなりになった時に、「歌舞伎座を建替えた呪いだ」と実しやかに囁かれていましたが、それでも、この人間国宝お三方はご年齢もご年齢でしたので「そんなぁ…」ぐらいに思っていましたが、勘三郎さん、團十郎さんが続くと、やはりここはお祓いでもしてもらわないといけないのかしらと、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、ちょっと本気で思ってしまいます。

 團十郎さんは、歌舞伎座が閉場してからよく関西にお見えでした。私が必死で歌舞伎を見るようになった頃と重なるので、ここ3年の間はよく拝見したように感じます。特に、5月の「團菊祭」は、関西で見る機会がほとんどなかった江戸歌舞伎のショーウィンドーのようで、上方歌舞伎ばかり見てきた者には非常に新鮮で楽しませていただきました。昨年の團菊祭で、菊五郎さんの山陰右京、團十郎さんの奥方で「身替座禅」がかかりましたが、團十郎さんはコワ~イ奥方なんですが、どこかチャーミングで可愛らしく、ほのぼのとした「身替座禅」でした。團十郎さんのお人柄が表れた奥方でした。

 新聞やテレビのニュースを見ていると「おおらか」と皆さん表現していらっしゃって、本当にそのとおりだなぁと思います。細部にあまりこだわらないような(←おそらくご本人はきちんと考えていらっしゃると思いますが)、ざくっとした、わさっとしたイメージがあります。「春風駘蕩」っていう言葉がぴったりのような…。

 最後に拝見したのは昨年12月の南座顔見世「勘九郎襲名披露公演」でした。「石切梶原」でこれぞ歌舞伎役者!のような梶原平蔵景時を演じていらっしゃいました。極彩色の背景に負けないご立派な役者振りでした。「口上」では勘三郎さんは湿っぽいのは嫌いだからと「哲(のり)ちゃんとは、夜遅くまで、いえ朝早くまでいっしょに飲んでおりました」と座を和ませてくださっていました。あの世で哲ちゃんとまた夜遅くまで(朝早くまで)飲みにいらっしゃってるんでしょうね。

 読売新聞朝刊の「評伝」に「現代劇の手法を取り入れるなど、歌舞伎を活性化させる試みは盛んだが、團十郎のような生真面目さが伝統を支えてきたことも忘れてはなるまい」とありました。エビサンはこれまではその新しい方にばかり目をむけていたように思いますので、これからは伝統のほうに向き直って、ご精進いただきたいものです。それが團十郎さんに対する何よりのご供養かと思いますので。

 市川團十郎さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
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