私自身が今日の朝、ふと思いついたのだが、前回の「フロイトに問う」の心理分析、
この風景がふっと頭の中を風が通り過ぎるようによぎったのである。
写真は伊万里大川内山の水車小屋であるが、一子相伝で有名な大分県日田市の小鹿田焼
など日本各地の陶芸の郷で見かける水車小屋の風景は、地元で採れた土を乾燥させ槌で
打って小さな粉にして水簸作業(不純物を取り除くために、水に浸し何度も上水を濾す
作業を繰り返す)を行い乾燥さえせて保存する。
陶芸の一連の作業工程の中でも当時釉薬作りは何とか協力を得てこなし、土灰・藁灰も作った。
しかしこの地元の土を使った粘土作りだけは、物理的にも体力的にも唯一体験できなかった作業です。
これをしてれば一応の流れは全て・・・自分で・・・との思いを抱くこと十年弱。
このことが、もしかして砂に化けたり、そば粉に化けたり、幽霊のごとく我が脳ミソを
彷徨い歩いているのか???
自分が望んでもできなかったことに対する潜在的憧れへの心象風景なのだろうか?
しかし所詮正解のない疑問、推測でしかないので、どこまでもいつまでも広がり続けてとりつくのである。
そういえば、1~2週間前本人(私)は生米を10粒ほど小さな器の水に浸け、米ぬかを落としたつもりであろうが
生のまま前歯でバリバリ食いだしたので、家人たちはついに来るべき時が来たと思ったらしい。
しかしこの不可解な行動も衝動的欲求のマエブレであったのだ!!今度は蕎麦の実を食ってみよう。
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