yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2019.2 大豆ファースト・ベジファースト+下半身運動・有酸素運動で隠れ血糖値=血糖値スパイクを予防

2019年02月13日 | よしなしごと

 先日、モーニングショーで冬の隠れ血糖値をパネル解説していた。少し前、NHKでも血糖値スパイクを取り上げていたし、食後の高血糖の危険性もしばしば報道されている。
 私が実践している血糖値対策では少し足りなかった。隠れ血糖値=血糖値スパイク予防の新たな知識を加え紹介する。

隠れ血糖値=血糖値スパイク予防 その1 食事は大豆ファースト
食べる順番は、「大豆+野菜」→「肉・魚」→「ご飯・パン」
①食物繊維の多い野菜や海藻などを最初に食べると、食物繊維が小腸の壁をコーティングし、ブドウ糖の吸収を緩やかにする・・これまで実践している。

②とりわけ大豆は食物繊維、タンパク質が豊富で、小腸に着くころには粘りけが出て、小腸の壁のコーティングに効果が高い・・これまでも水煮大豆は食べていたが最初に食べると効果が高いとは、新たな知識。
 そこで朝・昼・夕毎食の最初に、水煮大豆を10粒≒12gを食べることにした・・1日に30粒=36g、詳しくは別の機会に紹介するが、健康日本21では豆類の摂取は1日あたり100gを推奨している。水煮大豆36g+納豆45g+豆腐などで100gに迫れる。ただし水煮だから味は淡泊だが慣れればおいしい。

③大豆に続いて、食物繊維の多い野菜、納豆を食べる。

④次にタンパク質や脂質を含む肉、魚、卵を食べると、胃から腸へ運ばれる際、タンパク質や脂質に反応して「インクレチン」というホルモンが放出され、その働きで胃腸の動きが遅くなる→血糖値の上昇が緩やかになる。


⑤最後に、ご飯やパンなど糖質を含むものを食べれば、糖の消化吸収に時間がかかる→血糖値の上昇が緩やかになる。
 もちろん、過食は血糖値の上昇を招くので要注意である。ちなみに私は、毎回タニタの秤=キッチンスケールでご飯を計量していて、朝、昼とも90~100gにしている・・夜、お酒を飲むときはご飯を食べない、休肝日は夕食でご飯を<90gぐらいにしている。

⑥なお、朝食を抜くと昼食後に血糖値スパイクが発生し、朝食も昼食も抜くと夕食後にさらに大きな血糖値スパイクが生じてしまうことがわかってきたので、朝・昼・夕3食をとることが基本である。
⑦また、よくかんでゆっくり食べると血糖値の急上昇が抑えられ、血糖値スパイクの予防になる。目安は一口30回がいいそうだ。

隠れ血糖値=血糖値スパイクを予防 その2 下半身を動かす
食後のちょこっと運動+毎日の有酸素運動
①血糖値の上昇は筋肉でブドウ糖を消費することで抑えられる。全身の筋肉のほぼ70%は太もも+尻+ふくらはぎなどの下半身の筋肉なので、足を使った運動を食後に行うと血糖値スパイク予防の効果が高い。

②「食後」の時間を調べると諸説があるが、食後15~30分ぐらいすると胃腸の消化活動が活発になり糖の分解が加速されるので、食後15~30分ぐらいに手や足の筋肉を使った運動をすると血液が筋肉に奪われ胃腸の活動が低下して糖の分解を緩和させるらしい。
 「食べてすぐ寝ると牛になる」という俗説があるが、寝る→糖が消費されない→脂質が増える→牛のように太り動きがのろくなる、ということかも知れない。これも諸説あり。

③食事が終わって15分を過ぎたぐらいから、下半身を使った運動をすると筋肉で糖が消費され、隠れ血糖値=血糖値スパイクに効果があることになる。
 「運動」の目安は、1分100歩ていどの早さで10分ぐらいとの説もある。1分100歩×10分=1000歩は私からはゆっくり目である・・私の散歩は10分1200歩ぐらいの早足・・。
 ゆっくり目10分歩く代わりに、階段の上り下りやイスを使ったスクワットなどいいそうだ。少なくとも、食後の片付けなどで身体を動かす+下半身を大げさに動かす+足踏み・つま先立ちするなどで、身体を動かし糖の消費を心がけるようにする。
 現役の方は朝の忙しいときに10分歩いたりスクワットをする余裕はなさそうだ。マンション住まいの方はエレベータを使わず階段で降り、駅まで早足で歩き、駅でも階段を使うようにして、健康を目指してはどうだろうか。

④糖はエネルギー源として欠かせないが、余分な糖は脂質として蓄積されていく。毎日の有酸素運動で糖を消費するとともに筋肉量を維持すれば、健康で長生きにつながる。
 私は、荷物が無いときはエレベータを使わずマンションの11階から階段で下りている。1日に1回は11階まで階段を上るようにしている。また、午前と午後の2回、10分1200歩の早さで歩き、毎日8000歩以上を目指している。
 皆さんも、自分なりの運動法をルーティンにしてはどうだろうか。

なぜ、隠れ血糖値=血糖値スパイクが問題か?
 血糖値the blood sugar levelとは血液中のブドウ糖glucoseの量を表している。通常、食後に血糖値が緩やかに上昇し、血糖が過剰になった場合はインスリンinsulinが分泌されて、緩やかに正常値に戻る。
 しかし、ブドウ糖の過剰摂取、運動不足、ストレス、体調不良などが引き金となって、食後の血糖値がスパイクspike=釘状に急上昇することがある。急上昇してもインスリンが分泌され、血糖値が正常値に戻るため気づきにくい。健診などは空腹時血糖値を計るため、血糖値スパイクは見つけにくい。

 隠れ血糖値=血糖値スパイクが繰り返されると、
①慢性的な糖尿病に進行する
②急激な血糖値の上昇で有害物質の活性酸素が発生して血管を傷つけ、動脈硬化が進行し、心筋梗塞、脳梗塞を引き起こす
③インスリンの過剰な分泌で、がんや認知症を誘発する危険性がある
④血糖値の急上昇で強い眠気が起こり、急降下時には強い空腹感、イライラ感、集中力・判断力の低下などを引き起こす  などが明らかになっている。
 
 若いときは血管もしなやかで、膵臓もしっかりインスリンを分泌してくれるが、何ごとも限度がある。隠れ血糖値=血糖値スパイクが重なれば血管ももろくなり、膵臓も働きが鈍り、さらに加齢で負担が増し、リスクが高まる。
 大豆ファースト・ベジファースト+下半身を動かし、元気で長生き。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2018.7富士を歩く3 冨士浅間神社+富士登山口

2019年02月11日 | 旅行

<静岡を歩く>   2018.7 富士を歩く3 冨士浅間神社+富士登山口

 須山浅間神社Pを出る。まだ14:00過ぎなので、ホテルに戻る途中の須走にある冨士浅間神社を目指す(図参照)。国道469号線を北東に走り、国道138号線で北西に向かう。
 15:00ごろ、須走IC近くに富士浅間神社駐車場を見つけた。通りに面した駐車場は広々としているが、車は数台しか止まっていない。食事処?土産屋?があるが閉まっている。奥はうっそうとした樹林である。
 駐車場の中ほどに石造の鳥居が立ち、石碑には富士山東口 本宮冨士浅間神社と書かれている(写真)。
 観光地図をにらむと、富士急大井町線富士山駅、富士吉田IC近くに、北口本宮冨士浅間神社が見つかった。どうやら富士山の東側の浅間神社が東口本宮で、北側やや東寄りが北口本宮である。
 富士山の南側には本宮浅間大社がある。富士山との位置関係で、南の本宮、東の東口本宮、北の北口本宮と名付けられたようだ。しかし、西口本宮は見つからなかった。
 本宮浅間大社の湧玉池で富士登山者は禊ぎをするらしいから、東口、北口の本宮富士浅間神社も登山者が禊ぎで参拝するのかも知れない。とすると、登山路と関係しそうだ。

 富士山登山ルートを調べた(画像web転載)。一般向けは、富士山北側の富士スバルライン五合目から登る吉田ルート、富士山東側の須走口五合目から登る須走ルート、富士山南東側の御殿場口新五合目から登る御殿場ルート、富士山南側の富士宮口五合目から登る富士宮ルートになるそうだ。これらはそれぞれ五合目まで車を利用するらしい。
 麓から歩く場合は、吉田ルートに繋がる吉田口登山道と精進口登山道、須走ルートに繋がる須走口登山道、御殿場ルートに繋がる御殿場口登山道と須山口登山歩道・下山歩道、富士宮ルートに繋がる村山口登山道などがあるそうだ。
 江戸時代は、現在の須走ルートに相当する須走口登山道、現在の御殿場ルートに相当する須山口登山道、現在の富士宮ルートに相当する大宮口登山道、村山口登山道が修験道として整備されたそうだ。江戸時代の富士講隆盛で、現在の吉田ルートに相当する吉田口登山道、船津口登山道が整備されたらしい。といわれても富士登山に縁が無いので、どれがどこかはちんぷんかんぷんである。
 富士は霊峰であり、富士山信仰が広まっていたし、富士山噴火の恐れもあり、無事の下山を祈るためにも、それぞれの登り口に神社が祀られたのであろう。
 本宮浅間神社は富士宮ルートに繋がる村山口登山道・大宮口登山道の登山口に、東口本宮冨士浅間神社は須走ルートに繋がる須走口登山道の登山口に建立されたようだ。
 前述の須山浅間神社は御殿場ルートに繋がる須山口登山道の登山口に位置するが、さらに麓の御殿場駅近くにも新橋浅間神社がある。
 観光地図だけではこれ以上の推測は難しいが、徒歩だけの時代、列車が利用できる時代、車社会の時代に合わせて登山ルートも変化し、応じて浅間神社も栄えたり衰退したのかも知れない。

 冨士浅間神社駐車場の鳥居をくぐると、うっそうとした樹林のあいだに鎌倉往還と書かれた小径、浅間の杜と名付けられた散策路、水路が奥に伸びている。
 珍しい根元を見せた根上がりの樅、県の天然記念物に指定されたハルニレ、富士講の登頂祈念だろうか富士講碑群、亀には見えなかったが長寿亀石を見ながら散策路を進むと、表参道の鳥居に出る。こちらが正面だったようで、改めて太鼓橋を渡り、「不二山」と書かれた石造の大鳥居で一礼する(写真)。
 由緒書き、webによれば、東口本宮冨士浅間神社=冨士浅間神社は802年の富士山噴火のとき現在の須走地区で鎮火の祭事が執り行われたところ噴火が治まったので、以来信仰を集め、807年に社殿が建立されたそうだ。
 須走は駿河と甲斐を結ぶ街道にあたるため宿場ができ、富士山登山の須走口、富士講の人気で大いに賑わったらしい。寄進を受け1622年に社殿が改修されたが1707年の富士山噴火で被害を受け、1718年にも改修されている。由緒書きの境内図には、神門、神馬舎、神輿庫、恵比寿大国社、社護神社が並び、正面に社殿が建ち、かつての賑わいを想像させる。

 大鳥居の先に堂々たる朱塗りの随神門が構えている(写真)。楼閣をのせた楼門形式で、左右に随臣がにらみを効かしている。
 説明坂には1685年に改修され、富士山噴火後の1767年に再度改修され、現在に至っていると書かれている。手入れが行き届いているので、250年の歴史がありながら、古ぼけた感じはない。
 随神門手前の右は小山のような自然石で、頂上の親狗が崖から子狗を落とす構図になっている。親獅子が子獅子を千尋の谷に突き落とすイメージのようだ。
 参道正面に社殿が構えている(写真)。入母屋屋根に千鳥破風をのせた拝殿、続く幣殿、奥の本殿が一体となった権現造である。
 2007年、鎮座1200年祭にあたり鮮やかな色彩に修復されたそうだ。

 冨士浅間神社、本宮浅間大社、須山浅間神社は、由緒、歴史、富士山登山道、富士講など、富士山の文化的価値に欠かせない存在のとして世界遺産構成資産に含まれている。今日は朝から静岡県富士山世界遺産センター、本宮浅間大社、続いて須山浅間神社、冨士浅間神社を巡ったので、富士山信仰、富士山登山と浅間神社の強い結びつきが理解できた。
 拝殿に参拝後、車に戻る。国道138号線を北に走ると山中湖に出る。山中湖の外れから北に向かい、ホテルマウント富士に帰った。今日は車移動が長かったので歩数は8000歩を少し超えたていどであり足の疲れはないが、ゆっくり温泉を楽しんだ。

 夕食まで部屋で富士山を見ながらくつろいでいるとき、子どものころ東京都大田区大森の浅間あさま幼稚園に通った記憶がフッと思い出された。幼稚園の隣には浅間せんげん神社があった。たぶん、浅間神社の敷地に浅間幼稚園がつくられたのだと思う。
 近くには富士見橋など富士見の地名があったから、富士山がよく見え、富士山信仰の人たちが多かったことから浅間神社が建立され、戦後、幼稚園ができ、私も通うことになったのだと思う。
 幼稚園児には浅間神社は遊び場の一部であり、神社の例大祭はお菓子付きの演劇会のようにしか感じなかっただろうが、今日の浅間神社巡りで浅間神社が身近になった。  (2019.2)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

司馬著「覇王の家」続き 信長没後の家康と秀吉の駆け引きが続き、小牧山で勝利するも家康は秀吉に臣従し時機を待つ

2019年02月09日 | 斜読

book479 覇王の家 上下 司馬遼太郎 新潮文庫 2002年 ② (斜読・日本の作家一覧)

凱風百里  家康は、P253・・「これほどまで賑々しくもてなされたことはない」と信長が述懐するほど、信長の駿河訪問を歓待し、気配りをする。その返礼に、信長は家康を安土、京、堺に招く。そのころ秀吉は毛利攻めのため織田軍を率いていた。

脱出  信長は毛利攻めに向かう途中、本能寺に泊まり、明智光秀の襲われる。信長の同盟者家康は明智に狙われる。家康は復讐を思いつつ、井伊直政、服部半蔵らに助けられ、浜松に戻る。
 一方、いち早く信長の死を知った秀吉は中国大返しを始める。


甲州併呑  家康はP310・・復讐に向かって一日だけ、軍を進める。羽柴秀吉の行動は早く、明智光秀を倒し、信長の後を継いで天下を目指そうとする。
 家康は秀吉体制はいずれ瓦解すると見なし、甲州、信州の併呑、北条氏の撃退を進め、体制を固める。

初花  秀吉は報償を餌に賛同者を集め体制をつくりつつある。家康は、その秀吉に信長からもらった茶器初花を贈り祝意を示すが、秀吉の招きに応じない。
 天下統一を目指す秀吉と、秀吉に組みせず体制を固め戦況をにらむ家康の駆け引きが始まる。

下巻
不覚人  司馬氏は「徳川家康というのは、虚空にいる」と書く。続いて、「・・自分の存在を抽象的なものにしようとし・・」「・・自己まで客体化・・」そして「・・どれほどの想像力をもたず・・天才でもなかった・・」と書き、だから・・多くの天才たちと戦ってゆくには・・こういう自分をつくらざるを得なかったと分析する。この本は史実を追いながらも徹底して家康の思考法、思想、信念を解いていく。
 秀吉は天下を目指し、信望のある織田信長の三男信孝を、不覚人と異称される次男信雄に殺させてしまう。信雄は尾張、伊賀、伊勢に及ぶ107万石の大身代になる。
 信長の後継は誰か、秀吉の策略、信雄の野望、家康の恐怖がからみ、家康は秀吉に対抗するため信雄と密かに同盟を結ぶ。

清洲へ  家康は秀吉との決戦に備え、P43・・軍法、陣法を甲州流に変え、娘の督姫を北条氏直にとつがせ小田原北条氏との連携を強める。
 秀吉も、旧織田政権の有力者・池田勝入斎を抱き込む。家康、秀吉とも尾張平野を決戦の場と想定する。

第一線  家康は尾張清洲城を大本営とする。秀吉についた池田勝入斎は犬山城を落とす。
 家康は、P76・・勝てなくても負けぬ戦で1年持ちこたえれば、秀吉軍は烏合の衆なので内から崩れ、北陸、紀州、四国が攻め入り・・と信雄を勇気づける。

 尾張平野の真ん中に標高86mの隆起した小牧山があり、家康軍は急ぎ築城する。
 秀吉は家康の挑発に応じるなと軍令を発していたが、功を焦った一軍が勝手に小牧山に進軍する。諜報に秀でていた家康は、小牧山に向かう秀吉軍を奇襲し、快勝する。

尾撃  家康は小牧山を中心として東西に長い野戦陣地を築き、小牧山に陣を構える。秀吉も犬山城に入り、家康に負けない長城を築き、双方のにらみ合いが続く。
 秀吉は兵力8万の内2万を機動軍とし、隠密裡に三河岡崎城に攻め込もうとする。諜報に長けた家康は伊賀衆、甲賀衆からの情報で機動軍の動きを知り、家康・信雄同盟軍2万の内6500を小牧山に残し、14000で秀吉機動軍に大勝する。

 以下、安藤直次、蜻蛉切、石川数正、岡崎出奔、都鄙物語と展開する。家康、秀吉、信雄の駆け引きをからめ、家康の武将の動向を主題にしながら、家康の発想法を披露する。
 P279・・本多平八郎いわく「はじめはお肚がわからなくて困ったが、いろいろ考えてこれが最良と思うことをやってみると・・家来どもにすれば物事を考えるようになってよかった・・」ように、一事が万事、家康はハキとしなかったが行動は鮮明だったそうだ。
 また、司馬氏は、P291石川直正の暴言から「・・尾張では個人というものの利害の主張がやかましく・・三河国というのは異国の観であった」と記す。


 史実では、家康は秀吉に臣従し秀吉の天下になるが、秀吉没後、関ヶ原の勝利で家康が天下人になる。この展開は、「覇王の家」では触れていない。司馬著「関ヶ原」「城塞」に取り上げられているらしい。

その最後  家康は人一倍健康に気遣っていたが、74才の1616年に胃がんで死ぬ。そのときの細々と言い残したことが紹介される。
 末尾に司馬氏は、家康の死後3世紀近くも続く政権の体制は家康のつくりあげた原理と方法に依っている、といいきる。

 私も冒頭に記したように幕藩体制の硬直化の源である家康に距離を置いてきた。「覇王の家」を読みその感を強くもしたが、3世紀に近い体制の安定と町民文化の台頭は評価しなければならない。江戸時代を主題にした著作を読み重ね、各地の江戸時代の遺構を訪ね、思索を深めたい。(2019.2)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「覇王の家」① 司馬遼太郎は人質として育ったことと三河の風土が徳川家康の思考法を作ったと語る

2019年02月08日 | 斜読

book479 覇王の家 上下 司馬遼太郎 新潮文庫 2002年 ① (斜読・日本の作家一覧)
 徳川時代は1603~1868年の265年間も続いたにもかかわらず、その基盤をつくった家康(1543-1616)をこれまで敬遠してきた。
 秀吉(1537-1598)没後から大坂城落城までの家康の狡猾さが引っかかったのかも知れない。明治維新まで幕藩体制で日本を固まらせてしまったことも、非徳川に傾いた理由にあげられる。
 しかし、265年間の安定した発展、優れた江戸文化など評価すべきことも多い。司馬遼太郎著「功名が辻」(book450)、火坂雅志著「虎の家」には人間家康、知将家康の側面が描かれていた。
 そのことを念頭に浜松城、小山城、掛川城、駿府城の旧跡を訪ねた。
 さらに詳しく家康を知ろうといくつか本をめくったが、司馬著のこの本が私向きの気がした。司馬著「関ヶ原」「城塞」・・いずれもまだ読んでいない・・とともに、司馬遼太郎の家康三部作とされている。

 上巻では「人質として育ったことが家康の人生観に大きく影響したことに触れながら、強大な甲州武田信玄の圧力に耐えるため織田信長と同盟し、信長の援軍を期待して武田軍と戦うが三方原で大敗する。
 徳川滅亡と思われたが、信玄が病死し形勢が一転、信長が天下統一に動き出すも、天王寺で明智光秀に倒される。
 信長の招待を楽しんでいた家康はなんとか三河に帰る。毛利攻めの羽柴秀吉が中国大返しで光秀を討ち取り、天下制覇に動き出し、秀吉と家康の駆け引きが始まる」ところで上巻が終わる。


上巻

三河かたぎ  家康の祖は、奥三河から三河に出て来て松平を名乗り、岡崎城を手に入れる。このころ尾張から台頭してきた織田軍が再三、岡崎に攻め込んでいた。
 P10・・利口者の多い尾張に比べ岡崎は後進地帯だが、質朴で困苦に耐え、情義を重んじ、あるじに忠実で城を守らせれば無類に強く、戦場では退くことを知らず戦った。
 竹千代=松平元康=のちの徳川家康(1543-1616)は岡崎城で生まれる。P13・・そのころ、岡崎松平は駿河今川の庇護下にあった。松平は今川とのつながり強化のため竹千代=家康を人質として駿府に送ることにしたが、策謀で今川と敵対する織田の人質になる。
 その後、家康の父である岡崎城主が急死し、家康は人質のまま松平家の当主を継ぐ。2年後、織田と今川の人質交換で、数えで8才の家康は駿府今川に移され、岡崎城は今川預かりになる。1555年、今川の指示で家康は元服し、今川の家来の娘で10才も年上の娘=のちの築山殿と結婚し、1559年、長男・信康が生まれる。

 冒頭は人質として育った家康、三河の風土が家康の人生観をつくったことを語りながら、当時の政情のあらましや築山殿の伏線を記している。

三方ヶ原へ  今川義元の大軍が尾張織田に向かって進軍し、家康も小部隊を率いて参戦する。1560年、織田信長は桶狭間の本陣を奇襲し義元の首を討ち取る。
 義元の跡を継いだ氏真は愚昧で人望がなかった。家康は岡崎の城主となり、駿河を庇護下に置き、織田と同盟を結ぶ。家康と三河衆は、急成長する信長の征服を助け、各地で善戦する。
 強大な甲州武田信玄が駿河に侵攻する。家康は浜松城に移り、信長に援軍を頼み、三方原での決死の戦いを挑もうとする。

大潰走  武田信玄は家康の浜松城を相手にせず京に向かい進軍する。自分の領地を通る信玄に家康は勝算はないものの戦いを挑む。
 P93・・信玄は魚鱗の陣形、家康は鶴翼の陣を張るが、大敗し、家康は浜松城に遁走する。ところが信玄は陣中で病死し、武田軍が甲州に退いたため、家康は滅亡から救われ、信長も勢力拡大に弾みがつくことになる。
 家康は武田信玄にあこがれていて、甲州流を取り入れていく。


閨閥  信長は娘徳姫を家康の長男信康に嫁がせ、織田・徳川の結びつきを強めた。
 信康・徳姫、家康の正室・築山殿は岡崎城に暮らしていたが、築山殿は家康への不満が蓄積しているうえ、徳姫と折りがあわない。
 武田信玄の跡は信玄の庶子である勝頼が継いだ。築山殿は信康に甲州女をすすめるとともに、勝頼に信長、家康を忙殺する話を持ちかけた。

遠州二股の話  徳姫は築山殿の仕打ちを信長に相談する。築山殿が勝頼に通じていることも信長に知られる。
 信長は家康に築山殿と信康を殺すよう伝える。少なくとも我が子信康は濡れ衣と信じつつも、信長に対抗できない家康の苦悩が綴られていく。築山殿は介錯され、信康は潔く切腹する。


甲州崩れ  甲州武田の概要が語られる。信玄の跡を継いだ勝頼が浮き上がっているところに、信長、家康連合軍が攻め込み、武田は滅亡する。家康は甲州侍を大量に受け入れる。家康流が随所に紹介される。  続く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019.1 新春歌舞伎、中村獅童演じる「義経千本桜」、市川海老蔵演じる「幡随長兵衛」を観る

2019年02月06日 | よしなしごと

 定期的にメルマガで松竹の公演情報が届く。昨年11月に、新橋演舞場・新春歌舞伎公演の案内が届いた。
 昼の部は中村獅童の義経千本桜、市川海老蔵の幡随長兵衛ほかで、興味を引いた。勸玄くんも登場する。
 チケットはwebで購入できるが、有料会員の松竹歌舞伎会が先行予約するため、無料の一般会員はなかなか良い席が取れない。雰囲気だけでも味わえればと、web受付と同時に空席を探した。
 桟敷席17000円、一等席16000円、二等A席9000円、二等B席5000円、三階A席5000円、三階B席3000円である。懐と相談し二等B席を狙ったが、二等A席共々、ほとんど埋まっていた。桟敷席も一等席もかなり埋まっていたから、歌舞伎人気がうかがえる。
 花道は舞台に向かって左にあり、3階席も花道の見える右側は・・舞台の右側1/4は見えないにもかかわらず・・ほとんど埋まっていた。やむなし、3階の左側後方の席を予約した。
 この席からは舞台の右側3/4ほどは確実に見える。花道と舞台左の1/4はモニターを見ることになるが、臨場感は伝わろう(写真は開演前にカメラだけ身を乗り出した光景)。
 歌舞伎用語の「大向う」は舞台から遠い席のことで、歌舞伎では3階B席を意味するそうだ。
 3階B席は、舞台は見えにくいが料金が安いので歌舞伎好きの常連が利用するとされ、歌舞伎好きが感心するほどの名演技を「大向うを唸らせる」といい、意味が転じて大向うの客の掛け声も大向うというそうだ。
 私の席は大向うに近いから、歌舞伎通ではないがそれなりに歌舞伎が楽しめる席ということになる。
 市川團十郎、市川海老蔵、市川新之助ら市川一門への掛け声は屋号の「成田屋」である。
 成田屋についてもテレビの報道で触れていたが、2018.5のブログ「成田山は歌舞伎のお陰か、初代本堂薬師堂、2代重文光明堂、3代重文釈迦堂、4代大本堂と発展」で、初代市川團十郎が成田山新勝寺に祈願して跡継ぎを授かり、歌舞伎で成田不動尊を演じ、江戸に成田山参詣が広まったことを紹介した。
 江戸時代からの縁で成田山新勝寺の節分では市川海老蔵が豆をまくのが恒例になっている。

 年が明けて間もなく、市川海老蔵の13代目市川團十郎白猿襲名、長男勸玄の8代目市川新之助襲名が話題になった。ますます新春歌舞伎公演が楽しみになった。
 昼の部開演は11:30である。11時ごろ新橋演舞場に着いたら、入口は大型バスで着いた団体客でごった返していた。襲名披露の報道が歌舞伎人気をさらに盛り上げたようで、おしゃべりから勸玄とか團十郎とかが聞こえてくる。
 終了は3時近くになるので、昼食用に新橋演舞場の向かいで弁当を買う。館内はパラパラと空席があるが、ほぼ満席だった。

 11:30~12:10の「義経千本桜 鳥居前」は江戸時代から続く歌舞伎、浄瑠璃の演目である。といっても歌舞伎を見始めてから日が浅いから、義経千本桜は初めてである。
 中村獅童が静御前を守る佐藤忠信と源九郎狐を演じる。
 桜満開の伏見稲荷の鳥居の前で源義経が兄頼朝から逃げようとする場面、義経を慕う静御前に義経は静の同道を許さず代わりに初音の鼓を形見に渡し、家臣の佐藤忠信に静の護衛を頼む。
 ・・にわか勉強=桓武天皇のころ、雨乞いのため、千年生きながらえている雌狐と雄狐を狩り出し、その生皮でつくった鼓を打つと雨が降りだした。その鼓が初音の鼓である。鼓にされた雌狐と雄狐の子が初音の鼓を打つと現れるそうで・・、静が鼓を打つと佐藤忠信に変身した狐の源九郎が現れ、静を追っ手から守るという展開である。中村獅童扮する源九郎狐が大見得を切って、幕が下りる。
 駄句 初歌舞伎阿修羅のごとく見得を切る

 幕間に弁当を食べてから、3階から1階まで階段を上り下りし、足をほぐす。売店には歌舞伎のグッズが並んでいて、飲み物コーナーには升酒も置かれているが、幕間に飲むのは慌ただしいしので眺めるだけにして、席に戻る。
 12:35~14:11の「極付 幡随長兵衛 公平法問諍」は江戸末~明治の歌舞伎狂言作者河竹黙阿弥(1816-1893)の作である。
 幡随院長兵衛は、江戸時代1600年代に実在した任侠の元祖といわれている人物である。子どものころに本を読んだか?、まだ白黒しかなかったテレビで放映されたか?、映画を見たか?、あらすじは知っている。
 江戸っ子はこうした強い者、権力に立ち向かう、弱い者、町民の活躍が大好きだから、きっと江戸時代も歌舞伎や人形浄瑠璃で演じられたのではないだろうか。それを河竹黙阿弥が「極付 幡随長兵衛 公平法問諍」として再編成したようだ。ちなみに公平法問諍は「きんぴらほうもんあらそい」と読む。
 江戸の町奴を率いる幡随院長兵衛を市川海老蔵が演じ、女房を片岡孝太郎、子どもを堀越勸玄が演じている。勸玄君は長い台詞も朗々と語るなど、歌舞伎役者の素質を見せていた。
 幡随院長兵衛と敵対するのが、市川左團次演じる太平の江戸時代で堕落した旗本の水野十郎左衛門で、水野が長兵衛を忙殺しようと酒宴に誘う。
 長兵衛は命が危ないと知りつつ、水野を訪ね、「いかにも命は差し上げましょう・・・・命惜しむと言われては末代までの名折れ・・・・」と台詞を述べて槍を受ける。観衆の大喝采のなか幕が下りる。
 歌舞伎では割りきれる数を嫌い、割り切れない数に縁起を担ぎ幡随長兵衛と5文字につめるそうだ。これもにわか勉強、歌舞伎は歴史が長いだけ、奥が深い。

 14:41~14:54は、傘売りに化けた石川五右衛門を市川海老蔵が演じる傘の手妻芸=曲芸の「三升曲輪傘売」で、海老蔵が次々と手品のように色つきの傘を出し、華やかな傘の曲芸を見せてくれた。
 新春歌舞伎を堪能した。家に戻り、新春歌舞伎公演のパンフレットを眺めて舞台を思い出しながら、升酒ならぬ猪口酒をいただいた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする