yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1987「身近な資源を再発見」=ポイントは思い入れ+文化の落差+相乗効果

2017年03月20日 | studywork

1987年農林水産省広報誌AFFに依頼された原稿である。30年経つがいまも通用すると思うので全文を再掲する。写真はホームページ参照。
1987「身近な資源を再発見」 AFF97.11号
1 思い入れが地域資源を掘り起こす
  町づくり、村づくりのワークショップで「身近な地域資源を探してみましょう」と声をかけると、決まって、「いろいろ思い浮かべたけれど、ここには何もない、今さら探したって見つからない」と言う方がいます。「そうだ、そうだ」とうなづく人も多く、村の人の実感としては「自分の村には価値のある地域資源はない」ようです。果たしてそうでしょうか。私から見ると、「これはいい、あれも使える、もったいない」と思えるほど地域資源があちらこちらに見えることが少なくありません。つまり、よそからきた私には見えるけれど、地元の人には見えない、ということになります。
 その原因は、ほとんどの場合、地域資源は誰が見ても光り輝いて見えるもの、と勘違いしていることにあるようです。たいがい、村づくり、地域おこしを始めるときは、まず、先進地を調べます。予算の関係で現地に行けない場合でも、資料を取り寄せて成功の秘策を探ろうとします。先進地の勉強は参考になりますから大いに結構なのですが、落とし穴に注意しなければなりません。何故なら、村づくりに成功しているところ、地域資源を上手に生かしているところはどこも、地域資源が生き生きしていて光り輝いて見えます。そういう成功例と自分のところを比較すれば、「自分の村にはそんな魅力的で輝いている地域資源は見あたらない、みんなみすぼらしいものばかりでこれではとても村づくりは難しい」、と感じるのは当たり前です。その結果、「何か目新しいもの、人目を引くものを新たに作るしかない」、と思いこんでしまうようです。
 でもよく考えて下さい。その成功している村は昔から地域資源が魅力的で、生き生きしていたでしょうか。写真は愛媛県内子にある古民家です(愛媛県内子町の石畳の宿/古民家を修復整備した宿、地元の食材も楽しく、山に抱かれて実にのんびりできる)。宿泊ができ、地元の方が食材を持ち寄り大変なご馳走を用意してくれます。最初のうちはなかなか村づくりがうまくいかず、何度も壁にぶつかったけれど、そのたびに、ここは爺さん婆さんの暮らした村であり、自分たちの子どもたちが育っていく村だ、自分たちが村づくりをしなければ爺さん婆さん、子どもたちの村がなくなる、自分たちで作ろうと、知恵を出しあったそうです。そして、空き家になった古民家を移築し、建築家の応援を得て、写真のように修復しました。少し登ると水車小屋があり、たたずむと風の音に水車の音が重なり、都会の生活で積もりきったストレスが一つ一つ解きほぐされていく感じです。
 夜、囲炉裏を囲んで苦労話を聞くと、みんな異口同音に、「村づくりをあきらめて村を出た人も少なくなかったけれど、自分の村だからこそ自分たちが踏ん張った」、「空いている民家を再利用しただけ、あとは、村への思い入れだけ」と笑いながら話してくれました。みんな、自分たちの村を自分たちが作りだしているという自信に満ちています。
 先進地から本当に学んで欲しいのは、人々の村への思い入れです。爺さん婆さんの暮らした村、自分の子供たちが育っていく村を自分たちで作ろう、この意気込みです。自分の村に踏みとどまる気持ちがはっきりしてくると、「いまさら探しても何もない」と思っていた同じ村のあちらこちらで、「これは古くさいけれど何かに使えないか」とか「何もないことが素晴らしい魅力になりそうだ」と発見が始まります。ここまでくれば、村づくりは半分成功したようなもの、地図の上に発見を並べ、年次計画をたてて実行開始です。

2 文化の落差は地域資源を魅力的にする
 発見した地域資源をどのように活かすか、幾つかキーワードを紹介しましょう。その一つが、文化の落差の活用です。
 文化とは、その土地にしかない個性としての側面もあります。その土地らしさ、と言うこともできますし、ほかの土地では見られない魅力と理解してもよいものです。
 村づくりのきっかけをつきつめると、多くの場合、村の人が都会に次々と流出し、村の活力が失われてしまうことにあるようです。都鄙の言葉があるように、昔から都会へのあこがれがあったかも知れません。そのため、いつも気持ちの奥底に都会との落差があり、何とか都会に追いつこうとしてきたのではないでしょうか。しかし、いくら頑張っても都会との差は歴然です。放っておいても各地から人々が集まり、勢いよく経済が発展しているところと、人が次第に少なくなり経済力が低下しつつあるところでは、少々、テコ入れしても追いつきっこありません。いくら力を入れても追いつかないのであれば、むしろ、その落差を村づくりに活かすことを考えた方が得策ではないでしょうか。都会との落差を積極的に強調し、都会では感じることのできない文化を地域資源にする方法です。これなら新たな開発を必要とせず、しかもいままでの暮らしや技術を応用でき、みんなが村づくりに参加できるのです。
 写真は福島県舘岩村の茅葺き民家群です(福島県舘岩村の茅葺き民家群/自然とともに暮らす智恵の宝庫、囲炉裏端で頂く岩魚、赤カブ、そばは最高)。少し民家に詳しい人なら、全国でもこれだけ茅葺き民家が集まっている例は少ないことに気づかれるでしょう。しかも、ほとんどが馬屋を設けてある曲屋で、外観は地域の歴史や生活文化を十分に表しています。入り口を入ると広々とした土間が展開し、その先に囲炉裏のある板間、板間の次はもう一つの囲炉裏がある広間が続いていて、建具をはずしたときの開放感は、とても都会の住まいでは想像できません。村ではいち早くこの文化資源の活用に着手、保全活用に乗り出したのです。まず見習いたいのは、この着眼の早さでしょう。都市民をターゲットにした地域資源の活用で着実に入り込み客が増加しているそうです。村の魅力にひかれ毎年訪れるリピーターも少なくなく、ついにはペンション経営などをしながら住み着いた人もいるそうです。
 村では、地域資源をより魅力的にするため、茅が痛んでトタンを被せた住まいには補助金を出して茅葺きの修復を図りました。続いて、住まいの様子を知ってもらうため、空き家になった曲屋を移築して公開することにしました。さらに、観光客のためのトイレを曲屋にあわせたデザインとし、そのうえ、地場のそばをこの風景の中で味わってもらおうと、放置されていた桑畑をそば畑に転作するとともに、別の曲屋を移築修復して案内所を兼ねた食堂にしたのです。
 舘岩村は文化の落差を逆転の発想で活かした成功例の一つといえます。この場合、文化の落差が大きいほど魅力度は高くなるわけですから、文化の落差を強調することがポイントになります。都会からかけ離れた文化を大いに磨いて下さい。

3 相乗効果で地域資源の魅力を高める
 地域資源を活かす第二のキーワードは相乗効果を狙え、です。具体的な方法は言葉通り、幾つかの地域資源を集約して魅力を際だたせたり、中心的な地域資源に様々な付加価値を集積し、魅力を高めていくことです。
 写真はその一つで、山形県高畠町のまほろば緑道です(山形県高畠町のまほろばの緑道/木漏れ日の中を親子でサイクリング、広介記念館で一息、むくどりの湯もなかなかい)。この緑道は廃線になった軽便鉄道の線路敷きを利用したもので、現在はサイクリングロードとして活かされています。この軽便鉄道は、明治時代、製糸工場の発展に伴い敷設されたもので、そのため、当時の面影を残す漆喰塗りの倉庫群や現地産の石材を用いた旧駅舎などが線路敷きに沿っていまでも見られます。
 そもそも高畠町は最上川流域の低地を水田地帯とし、山に向かう斜面に桑畑やぶどう畑、梨畑が展開していました。山形-米沢を結ぶ奥羽本線は最上川の近くを通っており、軽便鉄道は低地に位置する奥羽本線、現在は山形新幹線の現高畠駅から、傾斜地に位置する旧高畠駅に向かう路線として設置されました。これが結果として幸いし、線路敷き、つまりいまのまほろば緑道からは、広々と展開する水田から傾斜地の展開するぶどうや梨畑、そしてかつては製糸で賑わった市街地と、実に変化に富んだ景観を楽しむ構成になったのです。しかも線路敷きですから、多少のカーブがあり、ときどき道路と交差することはあっても、おおむね一本道を車の心配をせずにサイクリングすることができます。
 これだけでも都会人からみれば魅力的な緑道ですが、町ではこの緑道に沿ってまず七百本の桜を植えました。春の賑わいが想像できましょう。緑道を走る人も楽しいのですが、田んぼや畑で働く人にとっても、満開の桜は疲れをいやしてくれます。続いて、この町の出身者である童話作家で、日本のアンデルセンといわれている浜田広介記念館を緑道沿いに建てました。子どもたちは、まほろばの緑道を通り、安心して広介記念館を利用することができます。
 そのうえ、広介記念館に隣り合わせて「むくどりの湯」と名づけられた温泉浴場も建てられました。広介記念館が子どもたちの夢を広げるものならば、むくどりの湯は町民の疲れをいやしてくれる場です。いろいろな人が、緑道を利用することになり、緑道が生き生きしてきます。軽便鉄道の跡地をサイクリングロードとして活用するだけでなく、桜を植え、広介記念館を建て、さらに温泉浴場を設ける、このように一つ一つでも魅力的なものを、まほろばの緑道を中心のコンセプトとして集約することで、さらにお互いの魅力を高めあうことができます。
 まほろばの緑道の入り口にあたる山形新幹線駅には「太陽の館」と呼ばれる温泉の併設された物産館があります。そして、まほろばの緑道を走りきった旧高畠駅の先には大規模自転車道が整備されていて、万葉時代を彷彿させる阿久津八幡宮やキャンプ場のある蛭沢湖があり、時間と体力にあわせて楽しむことができるように工夫されています。このように、様々な仕掛けを組み合わせて多様な現代人のニーズに対応させるのも、地域資源を息づかせる巧みな方法ではないでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2011宮代のまちづくり「公共施設マネージメント計画」=宮代スタイルによる公共施設再配置の提案

2017年03月19日 | studywork

2011 宮代のまちづくり「公共施設マネージメント計画」    宮代スタイルによる公共施設再配置の提案 /2011.12 フルページはホームページ参照。図写真なし。
                             
公共施設マネージメント計画の必要性
 毎日の暮らしに保育園、幼稚園、学校、行政施設、図書館やホール、福祉施設、公園などの公共施設、道路、橋、水道、下水道などのインフラは不可欠である。
 公共施設やインフラを正常に機能させるには保守管理が欠かせないし、耐震性を高め、最新の機能を取り入れるには改修が必要になる。老朽化すれば作り替えなければならない。そのための財源を確保しなけらばならない。
 埼玉県宮代町では、1960年代~の高度経済成長期に人口増加が続き、行政需要が増え、公共施設やインフラ整備が集中的に整備された。それから50年経ち、公共施設やインフラの老朽化が進んでいる。その一方、少子高齢化が進み、町の財政力は減衰傾向にある。
 そこで、財政を健全に保ちつつ、良好な生活に欠かせない公共施設・インフラの維持・更新を長期的に展望する公共施設マネージメント計画を検討することになった。
 有識者、公募町民による7名の委員会が組織された。2011年4月から6回の会議、および現地調査、ワークショップを重ね、今後の公共施設のあるべき姿を「宮代スタイルによる公共施設再配置の提案」としてまとめて、12月に「公共施設マネージメント計画」を答申した。

「公共施設マネージメント計画」目次 ・・略・・

会議での発言要旨 6回の会議での私の発言の一部 ・・略・・

公共施設の規模と機能の2側面 ・・略・・
 
公共施設再編の基本的な考え方
公共施設の規模について
a 絶対的な総量(延べ床面積)の削減
 人口、そして財政規模の縮小が見込まれる一方で公共施設の管理運営経費は増加傾向にある。将来にわたり公共施設を維持管理し続けるためには、その規模をこれらに応じたものへと転換を図る。
b 公共施設機能の移転・集約
 これまでは、個々の目的に合せて公共施設が整備されてきた。公共施設に求められるのは「機能」、即ち「使われ方」にあると考えられるので、可能な限り移転・集約を図ることで総量の圧縮に努める。
公共施設の機能について
a 公共施設機能の廃止と転換に取り組む
 社会環境などに変化により設置当時に比べて役割が薄れた施設については、その用途の廃止や転換に取り組む。
b 将来の新しい需要にも対応できる柔軟な施設構造が求められる
 現在、各公共施設に求められている機能が未来永劫も必要とは限らない。公共施設の再編にあたっては、その時代の行政課題、住民ニーズに合った機能への転換がスムーズに行えるような建物構造にしておくことで後年度の財政負担の抑制につながる。
新たな価値の創造
a 新たなコミュニティの創造、町民に愛される建物デザイン
 「機能を分散させる」という考え方から「複合化」するという考え方に発想を転換させることで、新たなコミュニティや価値を生み出すことができる。公共施設は利用の有無に関わらず町民みんなの財産であり、町民に愛されるデザインとすることで建物に対する愛着や誇りが生まれ、大切にされていくと考えられる。
b 長寿命化、コスト低減への取組み
 建物施設は年々劣化が進む。この結果生じる修繕や改修、建替えを全く回避することは出来ないが、メンテナンスによりこれを先に延ばしていくことは可能である。また、環境に配慮した省エネ型の施設運営で維持管理にかかる経費の抑制が可能になる。

 以上の議論を踏まえ、更新モデルを提案し、宮代スタイルによる公共施設再配置の提案として答申した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1985年埼玉の農村集落調査=南入り南面指向・北の屋敷林は風土の規定

2017年03月18日 | studywork

1985「屋敷構えにおける風土的規定について」 日本建築学会関東支部研究報告 図、フルページはホームページ参照。
1 はじめに
 我々は、国有の風土の中で生活をくり返し、時には風土に手を加え、国有の空間を形づくってきており、集落空間の計画を進める場合、風土的視点を欠かすことができない。
 即ち、風土は生活基盤を大きく制約しており、生活の各面で合理的な対処・風土的な秩序性が作り出されることになる。また、風土は生業をも大きく規定しており、生業の各面においても合理的な対応・風土的な秩序性が作り出される。
 生活・生業の合理的な有り様は、一定の土地を成立基盤とする集団の意識・行動を規範し、集団を秩序づけることになる
 生活・生業、集団が風土と相互に関わりながら、歴史的に一定の了解を積み重ね、結果として共通の空間概念が形成され、今日の集落空間を秩序づけていると考えられる。それ故、集落空間計画においては、この風土的な秩序性の解読が大きな課題となる。

 本稿は、空間構成の仕組みを実証的に明らかとする一稿として、埼玉県内の水田を主体とする7地域を取りあげ、主としての宅地・屋敷構えにおける風土的な規定について考察した。・・略・・
2 宅地群の立地 
・・略・・ 宅地群の立地が、いくつかの共通の指向を見せながらも、各地域固有の風土的特性に拘束された傾向を示していることがわかる。

3 屋敷構え 

<屋敷林>東粂原・伊佐沼などの宅地が連統する場合は、一続きの宅地群を囲んで、北側を中心に東・西の3方向に喬木を主とした林が配される。
 東粂原のように北側にさらに空地が丘状に続く場合は、林は厚みを増し屋敷林を呈す。南側を林とする例は比較的少なく、代わって高生垣とする場合が多い。また、連続する宅地群の境に林を配する例も少なく、生垣や軽微な仕切りを置く場合が多い。
 伊佐沼のように宅地が密集する場合は、東~北~西の3方、さらに南を含めた四周に、宅地を囲む形で林が配される。住戸が2~3戸連続する場合でも、住戸の境に喬木を配し個々の住戸を林で囲もうとする傾向が見られる。
 ヒヤリングから、かつては燃料・建築資材にも用いたが、季節風を防ぐ、水塚など地盤を固める、洪水時に水の勢いを弱めたり、家屋の流失を防ぐため、などの回答が得られており、宅地の四周を囲む屋敷林が風土から生活を守る屋敷守であることをうかがわせる。
 ・・略・・
<附属屋>主屋に附属屋が含まれていたり、宅地と離れて置かれることもあり一様ではないが、おおむね一つの宅地に1~4棟の附属屋が置かれる。
 散居で宅地にゆとりがある場合は、観賞庭・作業庭・軽微な菜園などにして空け、これを囲む形で附属屋が配置される。
 しかし、集居で宅地の幅が充分とれない場合は主屋と並んで附属屋を置くなど、宅地の形状によっては変形の配置とすることも多い。
 また、宅地の一部をさらに高くする水塚形式の場合は、多くが庭を避けて主屋の背面に形成されるため、倉は主屋の背後の配置となる。いずれの場合も、附属屋は屋敷林・隣接の家屋とともに、庭を最大現確保しながらも、囲みをより強調していることがわかる。

<宅地の入り>主屋の向きを、南を中心に東または西に多少の振れを見せる南向きとし、応じて主屋の入口を南側とする南入りのケースが圧倒的に多い。
 即ち、主屋の南側に庭を配した南向き南入りが一般的な形となる。これに対し宅地へのアプローチをとる接面道路の位置を見ると、宅地が道路の北側立地となる南側道路→南の庭→南向き南入りの主屋の配列が他の型に比べ比較的多く見られる。
 一方、宅地の北側に接面道路がある場合は宅地の東または西側を回りこんで、接面道路が東または西側の場合は宅地の南端を回って、主屋の南側にアプローチする方法がとられる。
 このことは、接面道路にかかわらず、南向き南入りの主屋→南の庭の配列を固守しようとすること、言い換えれば、道路に対する宅地の立地よりも、主屋の南向き南入りが優位であることをうかがわせる。
 また、この主のアプローチの他に、宅地の四方に通り抜けのできる細い道が屋敷林や生垣の間に設けられており、作業性や隣戸とのつながりを強めている。

 以上の如く、散居の場合により顕著に見られるような、風土的な規定に対応した屋敷の構え、結果として固有の作り方をうかがうことができる。
4 おわりに 
 以上の宅地群の立地、屋敷構えにみられるように、地域に共通の風土的規定への合理的な対応によって、地域固有の空間的秩序が形成され固有の空間構成として継承されていることが理解できる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「パーフェクト・キル」はパンナム機爆破のテロを下敷きにしてクリーシーが社会悪を正す活劇

2017年03月17日 | 斜読

book436 パーフェクト・キル A.J.クィネル 集英社文庫 2000 /2017.3読  (斜読・海外の作家一覧)
 2014年にイタリア紀行を書き出し、イタリアを舞台にした本を探しているときクィネル著の「燃える男」(book380)を見つけた。
  主な舞台はイタリアで、もと傭兵だったクリーシーが心身ともに疲れ切って無二の親友であるグィドーを訪ね、紹介してもらった実業家の娘ピンタのボディガードを引き受けるが、多勢に無勢で瀕死の重傷を負い、ピンタは誘拐後に殺されてしまう。
 グィドーの妻の出身地であるマルタ共和国・ゴゾ島で傷を癒やしたクリーシーはピンタの敵を討つためにイタリアに戻り、単身でマフィアを壊滅させる。
 動機は復讐だが社会悪だけを標的にし、最後は勝利する展開はたいへん評判がよく、クリーシーシリーズとして連作された。

 クィネル自身もマルタに住んでいるし、私も1999年にマルタを訪ねていてそのときゴゾ島にも渡っているから、舞台設定が良く理解でき、親近感を覚えた。
 「パーフェクト・キル」はクリーシーシリーズの2作目である。ゴゾ島で回復を図るとき、グィドーの妻の妹ナディアと知り合う。ピンタの復讐を果たしたあと、ゴゾ島に戻りナディアと一緒になり、娘ジュリアも生まれ、平和で和やかな暮らしをしていたらしい。
 ところが、ナディアとジュリアの乗ったフランクフルト発ロンドン経由ニューヨーク行きのパンアメリカン航空103便がスコットランド上空で爆破墜落し全員が死亡、墜落したロッカビー村人15人も犠牲になった・・この爆破墜落は実際のテロ事件である。クィネルは、事実を下敷きにしているし、下調べも詳細で、臨場感にあふれた物語になっている・・。
 クリーシーは、この爆破がパレスチナ解放人民戦線総司令部PFLP-GCの議長ジブリルによるテロと見抜き、復讐を決意する。
 しかし、厳重に警護されたPFLP-GCに一人で立ち向かうのは不可能と考え、助手を養成しようと考える。白羽の矢が立ったのがゴゾ島の孤児院で育ったマイケルで、訓練をするために養子にしようとするが、両親がそろっていないと養子がとれない。
 そこでロンドンに住む仕事のあまりない俳優レオーニと契約結婚する。最愛のナディアを亡くしたばかりで再婚するのだから結束の強いゴゾの島民は冷ややかだった。物語の前半はマイケルを養子にするためのレオーニとの再婚を軸に展開していく。

 クィネルの特徴はいくつかの場面が同時進行で展開することにある。アメリカの上院議員で大金持ちのグレインジャーの妻ハリオットも同じパンアメリカン航空103便に乗っていて、爆死していた。
 ローリングズという詐欺師がグレインジャーに近づき、敵をとるといって25万ドルをせしめていた。クリーシーはグレインジャーに詐欺師の正体を教え、敵討ちの共同戦線を持ちかける。
 クリーシーはカンヌでローリングズを見つけ出し、グレインジャーの金を取り戻し、ローリングズの小指と一緒に送る。グレインジャーはクリーシーを信じ、敵討ちを支援することにする。

 パンアメリカン航空103便の爆破を指示したPFLP-GC議長ジブリルはパレスチナ・ヤッファの生まれで、イスラエル国の成立で生まれ故郷を失ってしまった。
 ジブリルはシリア陸軍に入り、力をつけ、パレスチナ解放人民戦線を結成し、スイス航空機の爆破やパンアメリカン航空機など、過激なテロを実行していた。

 前半を読み進むうち、クリーシーとマイケルがグレインジャーの支援を受け、テロリストのジブリルを倒すといった物語の構図が分かってくる。これもクィネルの本の特徴で、読者はいつの間にかクリーシーとともに敵討ちに同行している気分になってくる。
 クリーシーに命を助けてもらったにもかかわらず、ローリングズはクリーシーとグレインジャーがテロ実行犯を捜している情報をジブリルに流してしまう。
 ローリングズの裏切りを知ったクリーシーはローリングズを始末するとともに、仲間を集め24時間体制でグレインジャーの警護を当たらせる。
 クリーシーの仲間があちらこちらで登場するが、これもクリーシーがもと傭兵でありながら、誠実で正義感が強く、人情味にあふれているとの設定による。おそらくクィネルの理想像であろう。

 グレインジャーを誘拐拉致するため、ジブリルの依頼で、モレッティ・ファミリーが動き出す。モレッティの動きを察知したクリーシーと仲間は罠を仕掛け、グレインジャーを含めて入念な準備をして迎え撃つ。
 マイケルの訓練の話や、レオーニとの紆余曲折もていねいに描かれるが割愛、やがてクリーシーはレオーニを愛するようになり、敵討ち作戦に参加することになった。
 ところが、かつてクリーシーの部下だったが悪さをしたためクリーシーに痛めつけられたデヴィッドが、ジブリルの金目当てでレオーニの車を爆破する。

 レオーニを亡くしたクリーシーとマイケルはダマスカスに潜入し、厳重な警護の届かない520mも離れた屋根からジブリルに向かってライフルを構える・・・。
 合法的には手の出せない敵討ちを非合法で果たす、社会悪を正す、といったクィネルの狙いが活劇とともに盛り込まれた物語である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペイン・ムルシアは農業で栄え、大聖堂は流行のゴシック・ルネサンス・バロック・新古典を採用

2017年03月16日 | 旅行

スペインを行く44 2015年ツアー11日目 ムルシア セグラ川 ウエルタ 大聖堂博物館 セマナ・サンタ カルデナル・ベルーガ広場 大聖堂 塔 写真はホームページ参照。
 2015年10月30日・金曜、・・略・・ 8時半にバスに乗り込む。
 目指すは、グラナダの北東300kmのムルシアMurciaである。走り出してまもなく、郊外に出る。彼方のシエラ・ネバダ山脈は山頂あたりが白い。光が何かで反射しているだけかな?。sierraはのこぎりのような山脈、nebadaは降雪のことで、最高峰は3478mだからもう雪が降ってもおかしくない。やはり雪かもしれない。
 走り始めの外気温は16℃だったが日差しが強く、すぐに18℃を超えた。周りはなだらか~急傾斜の起伏で、茶色が優勢な荒れ地~果樹園~緑が優勢な畑地が繰り返す。
・・略・・
 外気温は20℃を超えた。畑地~果樹園が続く。露地野菜、キウイ、オレンジ、レモン、オリーブなどが広がっている(写真)。ときどきため池が見える。このあたりは農業が盛んなようだ。
 12時ごろ、ムルシアMurcia市街を流れるセグラ川沿いの市庁舎前広場に着いた。セグラ川Rio Segura一帯はもともと肥沃だったらしい。イベリア半島に侵攻したイスラム勢力はこの地域を支配下に置き、825年、後ウマイヤ朝時代にムルシヤ(後のムルシア)と呼ぶ町を建設した。
 間もなく灌漑用水路ネットワークを構築し、灌漑農業地帯ウエルタhuertaが形成された。以来、ムルシアの主産業は農業になった。バスから見えた畑地~果樹園はウエルタの一部だったようだ。

 1243年、カステーリャ王アルフォンソ10世(1221-1284)によるレコンキスタでムルシアはカステーリャ王国領となった。間もなくカルタヘナに置かれていた司教座がムルシアに移され、聖週間の祭礼セマナ・サンタ・・復活祭イースターに先立つ1週間・・では盛大な行列が出るようになった。産業は、農業に加え絹織物も盛んになり、18世紀には大いに栄えた。
 市庁舎(上写真)前の広場で現地ガイドが待っていた。ガイドは、広場の右手の大聖堂博物館Museo de la Catedralを指さし(下写真)、午後は閉館になるので?先に案内するという。・・略・・館内には聖週間セマナ・サンタの行進で山車に乗せられて運ばれる等身大の人形が所狭しと展示されていた。キリストの受難像、聖母子像、12使徒像などで、それぞれ著名な芸術家の作らしい。
 かなりリアルで十字架のイエスや受難のイエスは見るからに痛々しい。衣類も金糸銀糸を用いた手作りだそうだ。・・略・・
 市庁舎と博物館のあいだの細道を抜けるとカルデナル・ベルーガ広場Plaza del Cardenal Bellugaに出る。cardenalは枢機卿の意味だそうで、広場の南側に司教館が建っている。・・略・・ 赤みを帯びた司教館はルネサンス様式で、赤みの壁には絵は描かれているが、風化していて題材はよく分からない。
 広場の西の奇抜なデザインの建物は新市庁舎だそうだ。・・略・・ 歴史的な大聖堂と現代的なデザインの新市庁舎が広場を挟んで向かい合っているとは、ムルシア人は進取の精神に富んでいそうだ。

 新市庁舎に向かい合う大聖堂Catedralは1394年に着工され、1465年に主要部分が完成したらしい。ゴシック様式で工事が進められたが、17世紀にルネサンス様式、18世紀にはバロック様式、新古典主義で工事が加えられたそうだ。
 カルデナル・ベルーガ広場に面した正面ファサードは、新古典様式の円柱が立ち並んでいる(前頁写真)。壁面は曲面で縁取られ、上部の聖母被昇天、中段の聖母子を始めとする立体的な彫像で埋められている。これは典型的なバロック様式である。
 ムルシアは農産業、絹織物業で18世紀に大いに栄え、セマナ・サンタは17~19世紀に盛り上がったという記録からも裏付けられるように、資金が潤沢だったため時代時代の先端の様式を取り入れて大聖堂を仕上げていったのであろう。

 =鐘楼も下層部はゴシック様式だから大聖堂と同じ時期に作られ、中層部はルネサンス様式だから16世紀に増築され、上層部はバロック様式で18世紀に完成した(写真)。92mの高さを誇る。
 カルデナル・ベルーガ広場は周りを建物で囲み閉鎖的な空間を作ったうえで、大聖堂に向かってやや広がった形になっている。その正面に白亜の大聖堂が配置されている。
 低層部だけの塔=鐘楼と装飾の無いゴシック様式の大聖堂はおとなしすぎたのであろう。塔をかさ上げし、ルネサンス様式で飾ったがまだ物足りない。さらに塔を高くし、バロック様式の華やかな飾り付けを施すと、広場に入った瞬間、目を奪われる構成になった。ムルシアの人々の造形力に頭が下がる。

 ・・略・・
 大聖堂は南側の門から入る。カルデナル・ベルーガ広場からは見えないためか、ゴシック様式のままで、アーチヴォルタ飾り迫り縁が採用されているが、アーチ型の壁ティンパノ=仏語タンパンはない(写真)。迫り縁下部の左右4人の聖人像は、カルタヘナの守護聖人らしい。
 ムルシアは、もともと後ウマイア朝時代に建設された町だから、レコンキスタまでカトリック教は認められていないので守護聖人もいなかったのであろう。レコンキスタが成功し、カトリックの司教座をカルタヘナから移すとき、カルタヘナの守護聖人を借用した?のかも知れない。

 堂内の天井は高く、石積みの角柱、尖塔アーチ、交叉リブヴォールト天井など、ゴシック様式を基調としていた(写真)。
 堂内のほぼ中央、身廊と内陣のあいだに、スペインの聖堂に共通する高位聖職者席=聖歌隊席coroが配置されていて、堂内を見通すことはできない。
 内陣のベレスの礼拝堂Capilla de los Velezは、14~15世紀の有力者だったベレス家の礼拝堂で、ゴシック様式にルネサンス様式を融合させた豪華な装飾だった。聖具室の扉は銀細工=プラテレスコ様式で装飾されていた。堂内もゴシック様式を基調にしながら、先端の様式を取り入れた装飾が加えられていた。

 ・・略・・ 2時半ごろ、ランチを終えて、大聖堂の北、トラペリア通りCalle Toraperiaを散策する。人通りの多い商店街で、少し北に歩くとカジノがあった(写真)。19世紀末?20世紀初頭?、農業で財をなした人たちの社交クラブとして作られ、いまはカジノになっている。
 農業者の社交クラブというのが、主産業が農業のムルシアらしい。財があったから、いろいろな様式を融合させた豪華な作りにできたのであろう。確かに外観は新古典+バロック、入口ホールはムデハル+新古典のデザインで、金箔の縁取りをした大鏡が多用され、きらびやかだった(写真)。

 そのまま広い通りまで歩き、サン・アンドレス教会の近くでバスに乗った。ムルシア見学はこれで終了、次は今日の宿泊地、およそ240km北のバレンシアである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする