yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1994米沢市芳泉町の歴史的町並み調査=緩急、広狭、分節、樹木で心地いい雰囲気

2017年03月25日 | studywork

1994「米沢市芳泉町・歴史的町並みに学ぶ空間デザイン手法」日本建築学会東海大会 /1994.9

1 はじめに
 旧武家作宅街である米沢市芳泉町は、上杉藩により17世紀初頭から開拓が着手されたところである。当時、上杉藩は極度の困窮状態にあり、城下の困窮をしのぐため芳泉町を始め、周辺の南原五ケ町などの開墾が行われた。
 芳泉町は、あわせ、町東側を流れる松川(最上川)の氾濫を防ぎ城下を水害から守ること、会津へ抜ける街道からの敵襲を第1陣として防ぐことを任務とした。
 その結果、160余の武家住宅が、南北方向の街道に沿った短冊状の屋敷地に整然と並び、防水の用を果たす石垣、食用となるうこぎ垣、食用・薬用・燃料などに用いられる樹木を街道側に連ねた環境順応型の町並みが形成された。
 町並みの全長は1.2km強、高低差は14mほどあるが、しかし、距離や高低差を感じさせないほど歩きやすく、変化に富んでいて心地よい雰囲気を感じさせる。
 緑の豊かなことも一因であろうが、空間の組み立てが大きな理由と考えられる。本稿はこのことに着目、快適な町並みが形成される根拠について、空間デザインの観点から検討する。

2 視界の分節
 町並みの南端P55と北端P00のあいだを便宜上20mごとに、街道上に計測点P00~P55を定め、各点からの見通し距離を測定した(図2)。
 南端(松川上流側・仮想瞰側)から順に説明すると、南端までは町並みの様子は見えない→南端からP50までは緩やかなカーブのため視界は60~90mにとどまる→P50を過ぎると、升型P30までおよそ390mを見通すことができる→升型では東と西に道が分かれ、東側は曲折があって視界は30~80mだが、西側は直線の道で視界は170mとなる→升型からP15あたりまでは視界が200mから90mに減少する→P14を過ぎて視界が開け、再びP08に向かって視界が170mから90mに減少する→P07で視界が開き、再度PO2に向かって視界が閉じていく。
 逆のアプローチでも視界の分節は基本的に同じであり、視界の分節によって、町並み景観にシークエンス性が附加され、上手(上町)と下手(下町)に景観的差異による個性が生じ、升型では東・西の道を選ぶことで異なった景観を楽しむことができる空間構成となっている。

3 道空間の演出
 町並みの両端の高低差は14mあるが歩いても苦は感じない。視界の分節や樹木・草木の効果のほかに道の構造が仮定されるので、レベル(図3)と幅員(図4)を測定した。
 最も低い北端P01からP07たりまでの傾斜度は0.005とほぼ平坦である。P07過ぎるとP12までは傾斜が0.018となり、続いて升型までは0.013とやや緩くなる。升型のあいだは再び0.017ときつ<、P31から南端までは0.015を中心に、始めはやや緩く、P35あたりで少しきつく、また緩く、P42付近で少しきつく、再び緩く、そしてP48で少しきつくなる。下町では緩・急・緩、升型は急、上町では緩・急・緩と急の組み合わせがうかがえる。
 幅員は、P01で5.7m、P03あたりで4.3m、P05で5.5m、P10で4.2m、そしてP12で4.9mと広・狭が繰り返され、その後は升型まで4.6m前後で一定して、升型直前で6.0mほどに広がる。升型の西側は2.2m~3.9m、東側は4.9m~5.2mのあいだで変化し、升型直後は4.8mからP33の5.2mまでいったん広がって、その後はP44の4.2mまで狭くなり、もう一度P50あたりで6.1mに広がって、南端で4.4mになる。
 下町では1.4m幅員差で3分節、上町では1.9mの幅員差で2分節がうかがえる。また、升型の直前と直後で幅員が広くなり、升型と上・下町の道空間の差異が強調されている。

4 樹木配列の景観
 各屋敷は、街道側に石垣を平均高さ0.5mほど、うこぎ垣を1.7mぐらいの高さに設け、芳泉町の歴史景観を特徴づけている。武家の遺構を残す住まいも少なくなく、町割りも原型がよく保存され、町並みには整った歴史的構成が保持されている。
 しかも、街道沿いの樹木は、食用・薬用等を基準に選定されたため93種と多様で、年間を通して花や実が楽しめ、その配列も視覚的に変化に富んでいて、町並み景観の表情を豊かにしている。
 すなわち、樹木の位置と高さの簡略を見ると(図5)、下町では升型まで3~13m、5~10本のまとまりが交互に繰り返す配列をとり、升型では6~20mの樹木がうっそうとし、上町は4~20mの樹木が連続的に並ぶ構成となっている。また、東側は西側に比べ本数・高さとも卓越し、景観的な差異を強調する。
 平均5~6mに1本の配置であるが、視界が分節される下町では応じて幾つかの群に、升型では林のように、視界の開けている上町では連統し、それぞれの景観を個性的にしている。

5 おわりに
 芳泉町は武士集団によって開拓、防御、水防にかなう町として計画整備されたが、視界の分節や緩急を組み合わせた傾斜面の空間構成は、1.2kmの距離や14mの高低差を感じさせない作りとなっている。
 また、広狭を繰り返す幅員や変化に富んだ樹木の配列は、列状計画村の単調になりがちな空間構成に場所性と個性を作り出している。
  視界の分節や傾斜の緩急、幅員の広狭、樹木配列の定量的な検討や相互の連関による効果については結論を得ていないが、景観からの町並み整備が課題となっている今日、芳泉町の空間デザインに学ぶ点は多い。

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2006吉林省延吉から山東省青島に飛び、ドイツの都市計画による歴史街区を調査

2017年03月24日 | 旅行

2006 中国・青島の歴史街区 /2006.9

 2006年9月、吉林省延吉で朝鮮族の住み方調査を終えたあと、長春経由で青島に向かう予定だったが、延吉-長春-青島便キャンセルの連絡が入る。大あわてで現地航空会社に駆け込み延吉-青島便を確保、同時に延吉ホテルのキャンセルと青島ホテルの予約を行う。R先生、留学生・Wさんのお陰である。
 23日夜に青島着、T理工大学のS先生夫妻が出迎えてくれた。翌24日朝、いつも通訳をお願いしている日本語専攻のS君と空港に向かい、青島の調査に参加する2名を迎える。ホテルにチェックイン後、さっそく、旧市街に出かけ、調査を開始する。

 研究課題の一つは、中国では地図資料の入手がきわめて困難であり、1900年代初期のドイツ占領下、日本占領下で作成された地図をベースに、文献に収録されている占領下で建設された主要建物の確認作業である。
 これによって、ドイツの都市構想を読み取るのが狙いである。そのためにも主要建物の標高が気になるが外国人が標高の入った地図を入手することはできないので、O研究室のGPSを借用し、標高の測定も行った。
 その結果、1897年ドイツ進駐後、青島港に面して見通しの良い標高98mの山に信号が設置され、以来ここが信号山と呼ばれるようになったこと、信号山のふもと、港の眺望がよく、近づきにくい立地の標高42mに総督官邸が予定されたこと(竣工1907)、桟橋と信号山、総督官邸を結ぶ中ほどの標高28mに、海に面し、山を背にする立地の総督府(竣工1907)がおかれ、総督府を中心として八方にのびる基幹道路が計画されたこと、総督府後陣に海軍本部(竣工1899、写真)、その奥の総督官邸に至る道筋に高級ドイツ人住宅(竣工1901~、ケーニッヒ邸など)が建設されたこと、桟橋付近の海岸沿いには亨利子飯店(竣工1905、取り壊された)や亨利子飯店旅館(竣工1912)などのホテル、レストランが建ち並び、一本奥の道路沿いにドイツ人アパート(竣工1903、写真)や連続住宅(竣工1914)などが建ち、ドイツの居留区を構成していたことなど、ドイツ占領下の都市構造がいまもよく保存されていることが確認できた。

 研究課題の第2は、いまもよく保全されている「中国人街」における住み方調査である。2004年に街区単位で囲み型住居を構成するG街区の住み方調査を実施しており、今回は街区構成の異なるBCFH街区を対象に5戸の住み方を調査した。
 その結果、居住空間の狭さを克服するために天井下に子供室用・物置用のスペースを取ったり、中庭側回廊に炊事空間を設けるなどの改造が一般化するなど、居住空間、居住環境への不満がうかがえた。
 しかし、歴史街区については肯定的な意見が強い。こうした住み方、住志向はG街区の調査結果ともほぼ一致しており、「中国人街」全般に共通すると考えられる。

 次の調査で、住志向に関する詳細な調査を実施したうえで、歴史街区「中国人街」の保全的改善計画提案を検討したいと考えている。
 「中国人街」でも調査を好意的に受け入れてくれた。数回にわたり調査で訪れているため、顔見知りも多く、政府の約束した住宅改善をいつから始まるかと聞かれることもあった。調査成果が有効に還元されるためにも信頼度の高い提案を考えたい。

 29日朝、空港に向かうマイクロバスが高速道路上でエンジンストップ。やむを得ず高速道路でヒッチハイクを試みる。帰国を諦めかけたころ、親切な中国人がとまってくれた。謝謝の連続、なんとか飛行機に間に合い、予定通り日本に帰ることができた。会う人、会う人、みんな好意的であったことを強調したい。

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2006中国・延吉で朝鮮族の住み方調査=東は作業空間、中~西が床暖房の家族室~寝室

2017年03月23日 | 旅行

2006 中国・吉林省延吉の朝鮮族 /2006.9

 延吉は中国北東部、吉林省延辺朝鮮族自治州の都市で、北緯は札幌とほぼ同じくらいのおよそ43°である。北朝鮮の国境が近く、早くから朝鮮族が住んでいた。
 幸い、N大学の留学生が延吉出身であり、3年秋学期からのゼミにO研究室を志望したことから調査が具体化した。O研究室では留学生を含む9名の院生・学生が参加し、16日から延吉郊外の調査に入ることになった。
 私は、16-17日に農村計画学会があるため、19日出発になった。同行学生は4年1人。成田を朝出発し、昼ごろに北京に着く。乗り換えまで5時間もあるため北京の知人にお願いし、天安門付近などを駆け足で見て回る。
 2008年開催のオリンピックに向けた整備が急ピッチのようで、およそ5年前の北京よりも明るく整った感じである。
 夕方に空港に戻り、延吉に向かう。ほぼ満席で、耳を傾けるとハングルのようである。夜半に延吉に着く。O先生の出迎えで、ホテルにチェックイン。やはり中国語とハングルが併記されていて、朝鮮族の町をうかがわせる。O先生、共同研究者の1人であるO大学・R先生と、現地調査の様子について情報交換を行った。

 翌20日から24日まで、延吉市郊外の中泉坪を対象集落とする民家の空間構成に関する観察調査と住み方に関する聞き取り調査を実施した。
 中泉坪は延吉中心部から南西に車でおよそ1時間、北朝鮮の国境に添った集落で、東側には北朝鮮の山並みが連なる(写真、遠くの山並みが北朝鮮)。朝鮮族から見れば、故郷の見える地ということになろう。
 中泉坪に朝鮮族が住み始めたのは満州王朝時代に米を献上した頃との聞き取りもあったが、裏付ける記録は少ない。O大学R教授の検証を待ちたい。
 古老の聞き取りでは3代前からここに住んでいるとのことであった。現在の戸数は56、うち55戸が朝鮮族、1戸は漢族だが妻は朝鮮族で、集落は朝鮮族で占められているといえる。

 主たる生業は稲作で、調査中、集落で昼食を毎日取ったが米の味はいい。満州王朝に献上した話しがうなずける。
 周辺は一面に稲穂が広がり、豊かさを感じさせる。しかし、現金収入がほかにないためか若者の市街地流出が進んでいるようで、かつては105戸ほどだったがいまや半減である。

 北朝鮮の国境は川であり、その支流から用水を得ているそうだが、洪水による被害のたびに少し高い土地の方へ移転する住戸が出ているうえ、中国政府による区画整理がすすみ、およそ東西25m×南北20mの敷地が整然と並ぶ集落形になっている。
 母屋は東西10m弱、南北5m弱が一般で、敷地北側に建ち、南側を菜園にする。接 道位置・アプローチにかかわらず、母屋は東に倉庫ウサバンとかつての牛小屋ウサガン、続いて中ほどにジョンジ、西側に上の部屋ウッパン、小さい部屋コバンの構成を取り、これを六間屋と呼んでいる(写真、民家を改装した老人会館、手前青い板の下がカマドの焚き口)。

 規模の大きい母屋は、ジョンジの次にウッパン、アレコバン、西側にハヌッパン、ウッコバンが並び、八間屋と呼ばれている。強いていえば、東:作業空間、中:家族空間、西:寝室など奥空間となるが、まだ確証はない。
 ジョンジには床下を80cmほど掘り下げて焚き口アグンイを設け、ここにかまどを設置し、炊事用の廃熱を床暖房に利用する仕掛けになっている。
 韓国のオンドルと発想は共通するが、形態は大きく異なる。韓国の民家を特徴づけるデチョン(またはマル)もなく、母屋は閉じた空間構成をとっている。寒さが厳しいことが理由であろう。冬になると1日に数回、かまどに火を入れるそうだ。

 集落の人々は総勢13名になる私たちを歓迎してくれ、調査にも好意的に協力をしてくれた。大いに感謝したい。

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2017鎌倉七福神+江ノ島を歩く① 北鎌倉駅から浄智寺+布袋尊を経て鶴岡八幡宮+弁財天へ

2017年03月22日 | 旅行

2017年1月19~20日 鎌倉七福神+江ノ島を歩く ①
 鎌倉の七福神もよく知られているそうだ。今年は日本橋七福神、与野七福神に続き、鎌倉七福神も出かけることにした。2017年1月某日、湘南ラインに乗り北鎌倉駅で降りた。およそ1時間半の乗車だから、ずいぶんと便利になった。新宿渋谷を過ぎるころから空席が目立ってきた。横浜あたりになると、ほとんどが日帰り旅を楽しむシルバーになった。
 2008年にも鎌倉古都巡りをしていて、そのときは鎌倉駅から歩き始めて北鎌倉駅に向かったが、今回は北鎌倉駅から鎌倉駅に向かうことにした。

北鎌倉駅から歩き始める
 11:12 北鎌倉駅から南に歩き始める。県道22号線は交通量が多いのに歩道がなく、歩きにくい。左手、湘南ライン・横須賀線の向こうの森の中に円覚寺の石段が見える。臨済宗円覚寺派の大本山である。2008年に教科書にも登場する国宝舎利殿を始めとする伽藍を見て回った。京都の貴族社会の寺院とは違い、武家社会の質実剛健を表す寺院としても知られる。が、今回は石段だけを眺め通り過ぎる。
 右手に臨済宗円覚寺派東慶寺の表示があった。説明板には、1285年北条時宗夫人の覚山志道尼が開祖した寺で、駆け込み寺として知られ、後醍醐天皇の皇女・用堂尼や豊臣秀頼の娘・天秀尼などが住職になった格式の高い禅寺だそうだ。鈴木大拙、高見順、西田幾多郎、前田青邨、小林秀雄、和辻哲郎などの墓があるとも記されていた。階段を上がった向こうに山門が見え、林の中に参道が伸びている。本堂にお参りし、奥の墓園まで足を伸ばしたが、かなり広い墓園で著名人の墓を見つけるのは難しそうなので戻った。

浄智寺/布袋尊
 11:40 通りから少し奥まって、臨済宗円覚寺派淨智寺の石橋、石段、三門が見える。杉林がこんもりとし、静かなたたずまいである。石橋のほとりに、鎌倉十井の一つとされる甘露の井の説明があった。鎌倉は山が深く、湧水に恵まれていたようだ。石段はすり減っていて、歴史を感じさせる。創建は13世紀末、 鎌倉幕府五代執権・北条時頼の三男・宗政が若く没したので八代執権・北条時宗が弟の菩提を弔うため建てた寺だそうだ。当初の伽藍は焼失し、,室町時代に再建され、関東大震災で倒壊し、再度、三門、2回に鐘楼を乗せた楼門、仏殿、方丈、客殿等が再建された。仏殿で阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒菩薩に参拝したあと、矢印に沿ってぐるりと回り込むと、崖に洞窟があり、布袋尊像が祀られていた。 森閑としていて身が引き締まる。
 県道22号線に戻る。歩道が狭く肩身を狭くしながら下る。途中、左手に教科書で習った臨済宗建長寺派の大本山建長寺の堂宇が現れる。大勢の高校生が参拝を終えて出てきた。若いうちに、山あいの環境に伽藍を配置して静謐な祈りの空間を作る巧みさを実感できるのはとてもいい。ここも2008年に参観しているので、一礼し通過する。

鶴岡八幡宮/弁財天
 12:15 浄智寺からおよそ30分下ると、左に鶴岡八幡宮の階段が見えてくる。2008年には鎌倉駅から参道を上って、参拝後、建長寺に向かったが、今回は逆コースになる。階段を上がると本殿の側面に出る。参道を上らず、鳥居もくぐらず、手水舎で清めず参拝するのは不作法かも知れないが、今回は七福神巡りだからご容赦してもらうことにして、念のため、本宮に参拝する。
 平日でもかなりの人出で賑わっていた。本宮内は撮影禁止の張り紙が貼ってあったが、気づきにくいためか、本格的なカメラをじっくり構えて撮影する人、スマホで気軽に撮影する人が絶えない。鮮やかな彩色、躍動的な彫刻で仕上げられた名建築だし、撮影ぐらいで建築の老朽化が進むわけではないから撮影可でも構わないと思う。

 八幡宮の歴史は1063年にさかのぼる。河内国の河内源氏2代・源頼義(988-1075)はかなり武勇に優れた人だったらしい。1030年代に相模守になったとき、鎌倉の地を譲り受ける。陸奥守のとき前九年の役が起こるが、戦の前に京都の石清水八幡宮・・2016京都を歩く参照・・に加護を祈念して勝利する。頼義は鎌倉・由比ヶ浜ほかに八幡宮を勧請した。
 河内源氏の後裔・源頼朝(1147-1199)は平家打倒の挙兵のとき鎌倉を本拠とし、八幡宮を現在地に移して、社殿を中心に幕府の体制を整えた。戦国時代に焼き討ちにあうが、再建され、江戸幕府の庇護を受けて造営が進んだ。11代将軍徳川家斉(1773-1841)は本宮を流権現造りで再建させている。

 流権現造りは「・・2008鎌倉を行く転載・・流造り+権現造り分解できる。流造りは、平入りの屋根を前面に長く伸ばした屋根形式で、神社仏閣の正面入口に用いられ、向拝の場とすることが多い。権現造りは、拝殿と本殿を石の間で連結し、屋根を一体的にかけた造り方である」。側面から見ると、右手前が流れ造りの拝殿、拝殿+右奥の本殿が権現造りになる。
 参拝を済ませてから、拝殿の彫刻を眺める。雀を追う鷹?、木鼻の牡丹?や獅子、蛙又の鳥、兎、馬、虎・・の彫刻は色も鮮やかで立体的である。題材は東西南北、鬼門などと関係しているかも知れない、が説明はどこにもない。2楼の桜門を通って本宮を出る。真下に参道が伸びていて、見晴らしがいい。すばらしい立地を見つけた頼朝は知略に長けていたことが分かる。右下に大銀杏の跡、正面下に朱色の鮮やかな舞殿が見えるが、七福神の弁財天が分からない。
 大石段を降り、参道に向かうと、左手に源氏池があり、小島に朱塗りの社があった。源頼朝が源氏復興の旗上げの際にお告げを授けたとの伝承があり、旗上弁財天と呼ばれている。
 弁財天像は国宝館に安置されていて、この社にはないらしい。弁財天のいない社にお参りし、参道に戻る。参道の反対側には平家池があり、源氏池には3つの小島、平家池には4つの小島があるそうだ。3は産に通じ発展、4は死に通じ滅亡を意味するとか。源ゆかりの八幡宮だからこんな言い伝えがあるのだろうが、源平合戦のみんなはすでに天に去っている。いまや仲良く共存共栄を目指すべきであろうから、3=産とか4=死の意味づけは止めた方がいいと思う。

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2006「国土形成計画策定に向けて」安心な国土、美しい国土を重点テーマとして提案

2017年03月21日 | studywork

 現在は、人口の急激な減少、各地で発生している巨大災害を見据えながら、将来の豊かな暮らしを構築する新たな国土形成計画が策定されている。以下は2005年に公布された国土形成計画に向けて、農村計画委員化からの提案である。いまにも通じる内容なので再掲する。重点テーマは安心な国土美しい国土である。
2006「国土形成計画策定に向けて」 農村計画委員会 /2006.7

 平成17(2005)年7月、国は総合的な国土の形成を図るための国土総合開発法の一部を改正する等の法律(国土形成計画法)を公布した。これは、昭和37年以来続けられてきた全国総合開発計画を見直し、開発中心から転換して成熟社会にふさわしい国土の質的な向上を図ろうとすることが目指され、平成17年9月から全国計画の検討が始められ、平成18(2006)年11月に国土審議会計画部会の中間とりまとめがなされた。
 国土交通省ではさまざまな分野の考えを採り入れたいと、日本建築学会で懇談会がもたれた。農村計画委員会も同席し、その後、農村計画委員会独自で国土交通省と意見交換を行ったうえで、農村計画委員会ならびに各小委員会で議論を重ね、平成18年7月に「国土形成計画策定に向けて/日本建築学会農村計画委員会からの提案」を日本建築学会を通じて国土交通省に提出した。
 ・・略・・ 国土形成計画への提案を紹介したい。

重点テーマ①「安心して住み継げる故郷(くに)づくり」
方針1 多元的な自立地域社会の構築
 町村合併による地域社会の広域化が進んでいる。道州制の議論もある。対して、高齢化、過疎化のもとで身近な徒歩生活圏が重要になっている。
・合併市町村の行政単位、あるいはより広域な行政単位とまちづくり・むらづくり構想
・旧村ほどの大きさの自治・行政単位と地域づくり構想
・身近なまとまりの地域コミュニティ単位と地域づくり構想 
 など、多元的、多層的な自立地域社会の構築と地域住民によるまちづくり・むらづくり構想を目指す。
方針2 地域コミュニティの再編と新たな地域自治組織の形成
 集落の人口減少、高齢化による自治機能や土地利用の維持・管理機能の低下が進んでいる。多元的な自立地域社会の構築のもとで、過疎地域を広域化し居住地を集約化するなどの新たな地域コミュニティの再編成と、伴って新たに地域自治を担う組織の形成を目指す。
・低密度居住地域の特性に応じた地域システムの構築
・集落再編計画の策定
・新たな地域自治組織の形成
・高齢化に対応した生活空間のバリアフリーデザイン
・農村コミュニティの活性化
方針3 複居住拠点をもつライフスタイルの社会的認知と支援
 農山漁村集落住民の都市居住志向は依然として高い。一方、都市居住者の潜在的な農山村居住志向は決して低くない。農山漁村での空き屋発生のみならず、都市近郊団地の空洞化の懸念もある。農山漁村・都市、それぞれの利点、魅力を享受できるライフスタイル、多様な価値観時代のライフスタイルを支援できる複居住拠点ライフスタイルを目指す。
・夏山冬里型のライフスタイルに応じた居住システムの構築
・農山漁村新規居住希望者への居住支援体制
・都市近郊地域での優良な田園住宅地の形成
・近郊団地の再生・活用計画
・複居住を担保する生活諸サービスの統合的ネットワークデザイン
・複居住者を含めた地域マスタ-プランづくり
方針4 新たな市町村互助ネットの構築
 多発する自然災害に対し安全・安心な国土形成は急務である。新潟県中越や福岡県玄界島などの中山間等、農山漁村集落の復興、再建が話題になっているが、農山漁村に限らず都市も含めた安定的、持続的発展を担保する自治体互助ネットの構築を目指す。
 この互助ネットは、地震、洪水、山崩れなど多様な災害のリスクの異なる地域の組み合わせにより、日常的な交流をベースに非常時に助け合うネットワークシステムのほかに、複居住を担保する互助ネット、地場産業育成支援互助ネットなどの多様なネットシステムにより、日常的に自立地域社会の形成を支援する。
 また、自治体相互にとどまらず、複数自治体が連携した互助ネット、広域互助ネットも想定される。
・自治体互助ネットの構築
・災害支援互助ネット
・産業支援互助ネット
方針5 地場産業空間としての農山漁村地域の活性化
 農山漁村は、食糧供給(いまや国内食糧自給率は40%を切ろうとしている)のみならず、生活物資、水源、空気(炭酸ガス固定を含め)を供給し、国土を保全してきた。農林漁業の活性化なくして、農山漁村、ひいては国土、国民を守れない。地場産業空間としての農山漁村の活性化を目指し、住み継ごうとする人々の生活を担保する。
・農林漁業・地場産業・環境型産業の育成支援
・農林漁業・地場産業・環境型産業の担い手・後継者、新規参入者の育成
・中山間地等直接支払制度などの継続・充実
・グリーンツーリズム、エコツーリズム等の環境型産業の育成

重点テーマ②「美しさを育む国土(くに)づくり」
方針1 農山漁村の景観資源の掘り起こしと保全・継承
 農山漁村景観は、その土地の自然を読み取り、人々の叡智を傾けて構築されてきた。その美しさは日本人の美に対する感性を育て、自然応答の知識・経験は日本の文化を形づくってきた。農山漁村の景観資源を掘り起こし、再評価し、国民の共有資産として保全・継承を目指す。
・生態学的、水門学的、美観的、歴史的、地域史的、民俗・生活史学的、建築的、生業史的、等、多様な観点にたった農山漁村景観資源の掘り起こし
・伝統的地域景観の保全・継承
・伝統技術・伝統文化の保全・継承
・自然と共生する知の学びと継承
方針2 生命循環環境としての農山漁村地域の保全
 農山漁村は、1次自然の一部に自然応答型の技術で手を加えた2次自然空間で生産・生活を営んできた。そのため、農山漁村には生命循環が保たれ、生物多様性が保持されてきたてきた。生命循環系を保全し、生物多様性を保証するのは人間の責務であり、同時に自然の豊かさと自然を育む責務を広く伝える必要がある。農山漁村とそれを囲んでいる生命循環環境の保全を目指す。
・1次自然空間の保全と国民への啓発
・2次自然空間としての循環型農山漁村の保全
・流域エリアごとの生態系保全と流域エリアに適した農林漁業の育成
・耕作放棄地・放置林、災害で破壊された自然環境、災害防止の土木工事等における環境型補修・保全
方針3 担い手の育成拡大と知の伝授
 農山漁村の景観は、人手をかけることで保全できるので、景観保全のための支援を諸施策に位置づけ、担い手の拡大を図る。自治体互助ネット、あるいは都市農村交流を通し、農山漁村の美しさ、生命循環環境としての農山漁村を啓発し、担い手育成を支援する。新たに育成された担い手は、経験豊富な担い手から自然応答の知と経験の蓄積を学び、その意義を次の担い手候補に伝える機会を用意する。新たな担い手による美しい景観形成への提案や産業振興へのリンクも期待される。
・担い手の育成・拡大の支援
・自然応答型技術の伝授
・グリーンツーリズム・エコツーリズムなどの都市農村交流による景観資源の補修・育成
・美しい景観と知のアーカイブ発信とアジア・国際連携
方針4 景観資源の育成と農山漁村の活性化
 農山漁村の美しい景観は、農林漁業の結果として形づくられてきた。農山漁村の美しさは農林漁業の発展、農山漁村の活性化によって保持することができる。それぞれの地域に固有の景観資源の美しさを育成し、それを活用した農山漁村の活性化を目指す。
・生命環境としての1次自然景観の保全とエコガイドの育成
・文化的景観としての2次自然景観の保全とエコガイドの育成
・伝統文化・景観資源と産業振興・交流のリンケージ
・景観資源を活用した環境型産業、エコビジネスモデルの構築

共通方針 施策展開のための行政システムの提案
・農山漁村集落のモニタリング(定点観測)体制の構築
・農林漁業統計(センサス等)における地域振興の観点からの調査項目設定
・行政施策効果の評価検証体制の充実・精緻化
・補助金の運用方法の見直し
・NPO、ボランティアに対する支援組織(中間セクター)設立への支援
・水源税、環境税等の動きと直接支払い等既存制度のリンケージ
・社会資本としてのむらづくり・むらおこし情報の整備

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