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つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1986年近所づきあいの調査から集落の分節単位は10戸ていど、80~<500mを考察

2017年03月15日 | studywork

1986年ごろ、集落計画の手がかりを得ようと試行錯誤していた。その一つが近所づきあい=近隣交流から集落空間の分節単位を見つけようとする調査である。図はホームページ参照。
1986 「近隣交流よりみた空間的分節」 農村計画学会大会
1はじめに 
 国土の80%を占める農山漁村地域における集落環境整備が重要な課題となっているが、反面、集落の空間、とりわけ居住地の空間計画を進める場合の数量的な指標となるデータが、他の分野(例えば建築計画)に比べ少ないことに気付く。既報「分節単位としての組班の大きさ」では、集落の基本的な社会組織である組班を取りあげ、領域認識の一つであるトナリ領域の検討から、近隣的な空間分節単位として5~12戸、80~200mを導いた。
 本報ではこれに続き、日常的な隣近所とのつきあい(以下近隣交流)を取りあげ、近隣的な生活空間の大きさの量的な判断の手掛りを得ることを目的としている。
 地域における近隣交流は、社会的・地縁血縁的・階層的・生産的・趣味あるいは子どもの媒介など多様な要因の複合的な反映として現象するが、本報では、空間の量的な把握の意図から一様に扱い考察を進める。
 対象とした集落は、既報と同じ島根・千葉・埼玉の9地域で、アンケート・ヒヤリング調査の結果をデータとしている。
2交流戸数 
 一住戸当りの近隣交流戸数は、最小1戸から最大33戸に回答が分布する。集落の戸数規模が大きければ、古谷上(33戸)、稲用(25戸)のように、多くの近隣交流が可能となるが、必ずしも戸数規模に比例して交流戸数は多くなっていない。
 集落別の平均交流戸数と集落戸数との相関を見ると、集落により多少の差があるものの、およそ5~9戸と、集落戸数に関わらず比較的近い数値を示す。
 さらに総じた傾向を把握するため、集落別に5割の回答および8割の回答が含まれる交流戸数値(50・80パーセンタイル、以下50パ、80パ)と集落戸数との相関を見ると、集落戸数にかかわらずおおむね一定し、50パで5戸以内、80パで10戸以内になる。
 以上のことから日常的な交流が、集落戸数規模にかかわらず、おおむね10戸が目安になること、すなわち直接的なコミュニケーションによる基本的なまとまりは10戸ていどになるといえる。
3交流距離 
 交流相手までの距離を見ると、最小はいずれの集落も隣接住戸の15m前後であるが、最大は魚津160mから古谷上1375mのように、集落の居住域の大きさに応じて、距離が大きくなる傾向を示す。
 一住戸当りの居住地の面積と平均交流距離の相関を見ると、居住地の面積に応じて平均距離が55m~256mと増加し、おおむね比例関係を示す。
 さらに詳しく傾向を把握するため交流戸数同様、集落別の50バ・80パの交流距離値と一戸当り居住地面積との相関を見ると、50パ・80パいずれも居住地面積に応じて比例的に距離が増大するが、その傾きは50パで50→200m、80パで80→465mと80パの方が大きいことがわかる。これは一戸当りの居住地面積が大きくなるほど、等比数列的に交流距離が伸びることを表している。
 以上のことから、日常的な交流が集落居住域の大きさや形状、住戸の並びの粗密に強く影響を受けていること、ここでは小さく密居の集落の80m~大きく散居の集落の465mを、直接的なコミュニケーションの距離指標の目安として指摘できる。
4組班・トナリとの相関 
 回答された交流相手の分布が、回答者とどのような関係にあるかをみるため、交流相手を回答者と同じ組班内、回答者の示すトナリ領域内、そのいずれでもないその他に分けて集計し(以下選択率)表に示す。
 組班は、歴史的な経緯をもつ集落のフォーマルな単位であり、活発な交流が期持されたが、集落別の交流戸数平均は2.1~3.8戸で組班構成員の半数以下、選択率も50%に満たない集落が多数を占める。これに比ベトナリは、日常的な身近なまとまりの認識だけに、戸数平均で3.1~7.2戸、選択率で40~87%に達し、とりわけ小さな集落で、インフォーマルな単位としての活発な交流をうかがわせる。
 一方、その他との交流は戸数平均で0.4~4.2戸、選択率で8~56%と、集落によっては組班内・トナリ内をしのぐほどで、総じて無視できない活発な交流をみせる。この交流は、集落の大きさと必ずしも比倒しないが、大きい集落で1300mを越える。
 以上から、集落形状との対応は言いにくいが、フォーマルな組班に比してインフォーマルなトナリにおける交流が高い傾向を示すこと、地域的なコミュニケーションに、組班・トナリ以外の約1300mにも及ぶ広域的チャンネルのあることがわかる。
5おわりに 
 立地や形状、住戸の並びと粗密など、集落の固有の空間構成への勘案が必要であるが、直接的なコミュニケーションによる日常的な生活空間の計画を進める場合、10戸ていどの単位、80~460mの範域が有効な指標であると考えられる。また地域的なコミュニケーションに、非地縁的な1300mを越す近隣交流圏のチャンネルが存在することを指摘し得る。

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1989年舘岩村を事例に伝統的な中門造は三世代同居の間取りであることを考察

2017年03月14日 | studywork

1989「伝統的住居における三世代の住み方」福島県舘岩村前沢・水引集落における事例研究  日本建築学会関東支部研究発表会

1 はじめに
 福島県舘岩村は、中門造りと呼ばれる伝統的住居=茅屋根曲屋が多く残る、自然豊かな農村である。この豊かな自然環境を背景として茅屋根曲屋がよく残されていることを一つの理由に、昭和62年度アメニティコンクールにて最優秀賞を受賞、これを契機に伝統的住居の保全的改善を目指した快適な村づくりが進められている。
 しかし、村内に高校・大学をもたず就職先も少ないことから、進学・就職のための転出が見られ、家族数の減少・高齢化の進行となっている。
 このことから3つの課題が抽出される。一つは、かつての伝統的住居における住み方はどのようであったか、二つは、家族数の減少に応じた住み方はどのようであるか、三つは住み方の変化に応じた新しい住要求を伝統的住居の作り方にどのように統合するかである。

 本稿は、主として前2課題に応えようとするもので、伝統的住居の基本的な間取り、家族サイクルと増改築サイクル、家族構成別の住み方の検討を通し、伝統的住居における家族構成別、世代別の住み方を明らかとする。対象は舘岩村のなかでも多く伝統的な茅屋根曲屋を残す前沢・水引集落で、本稿は昭和63年8・10月に実施した間取り採図及び聞き取り調査のうち、住み方に関する資料(有効数前沢19例、水引29例)を考察対象としている。
2 間取りの基本構成
 まず、部屋名称及び部屋の並び方より特徴的な間取りの構成を見る。
<部屋名称>前沢であげられた部屋名称は28種、うち最も出現数の高い部屋は、ヘヤ(25)、ザシキ(24)、次いでチュウモン(17)、ダイドコロ(13)、ドマ(14)、オメエ(12)、スイジバ(8)である。・・略・・
  以上より、ヘヤ・ザシキ・チュウモン・オメエ(前沢)またはウワエン(水引)・ダイドコロ(前沢)またはシタエン(水引)・スイジバ(前沢)またはダイドコロ(水引)の6つの部屋が床上空間の間取りを構成する基本的な部屋としてあげられる。
 また土間空間は床上化されている場合もあるが、曲屋の場合は土間にウマヤ・ベンジョ・フロバ・出入口が、直屋の場合はベンジョ・フロバ・出入口が備えられる。

<部屋の並び>床上空間を構成する6部屋の並び方を類型的に整理すると以下の傾向を得る。
 まず、土間空間より最奥に位置する部屋はいずれもヘヤであり、ヘヤの坪庭側がザシキ、ヘヤの隣にチュウモン、チュウモンの坪庭側にオメエまたはウワエン、チュウモン・オメエまたはウワエンの隣にダイドコロまたはシタエン、その隣にスイジバまたはダイドコロが位置する並び方=I群(前沢8例、水引6例)が抽出される。
 次に、ヘヤ・ザシキ・チュウモン・ウワエンの並び方はI群と同様であるが、ウワエンの隣にシタエン、チュウモンの隣にダイドコロが位置する並び方=Ⅱ群(水引6例)が得られる。
 ・・略・・
 次に、ダイドコロまたはシタエンとスイジバまたはダイドコロの、2部屋の以前の間取りを見ると1つの部屋が分離したことがうかがえる。つまり、水場がウワエンの向い側の壁に位置している場合はⅢ群、チュウモン側に位置している場合はIV群の並び方になる。
 以上より、ヘヤ・ザシキ・チュウモン・ウワエンまたはオメエの基本的な並びに、シタエンまたはダイドコロとスイジバまたはダイドコロの2通りの並び方が組み合わさり、床上空間の間取りが構成されていることを得る(図3参照)。

3 世代別家族の住み方
 調査時点の家族構成は、就職・就学などの理由により家族の約4割が転出しているため、在住する家族数は平均3人と非常に少ない。
 それらの家族を60才以上を老世代=R、30才以上60才未満を中世代=T、0才以上30才未満を若世代=Wの世代
別に分け家族構成を見ると、一世代家族はR(前沢6例、水引7例)及びT(前沢1例、水引3例)、二世代家族はR+世帯主夫婦T(前沢2例、水引2例)、世帯主夫婦R+T(前沢0例、水引5例)、世帯主夫婦T+W(前沢5例、水引5例)、三世代家族は世帯主夫婦R+T+W(前沢2例、水引3例)及びR+世帯主夫婦T+W(前沢1例、水引4例)となる。
 これらの世代別の日常の住み方を捉える。まず、一世代家族の住み方を見ると・・略・・
 二世代家族の住み方・・略・・
 次に三世代家族の住み方のうち、まず世帯主夫婦がRの場合の住み方を見る。世帯主夫婦の就寝はヘヤ、Tの就寝は屋根裏を改築した居室(以後2階と記す)、Wの就寝はザシキで行なわれる傾向が高く見られる。また世帯主夫婦がTの場合、世帯主夫婦の就寝は上記同様ヘヤ、Rの就寝はチュウモン、Wの就寝は2階またはザシキで行なわれる傾向が高い。また世代構成を問わず、ともに食事・団らんはダイドコロまたはシタエン、くつろぎはダイドコロまたはシタエンあるいは各世代の寝室、炊事はスイジバまたはダイドコロで行われている。
 以上より、世代の構成を問わず世帯主夫婦の寝室はヘヤ、非世帯主Rの寝室はチュウモン、Tの寝室は2階、Wの寝室はザシキと特定の部屋がそれぞれ位置づけられていること、食事・団らん・くつろぎ・炊事の行なわれるダイドコロまたはシタエン・スイジバまたはダイドコロは、家族の中心的な生活の空間であること、さらにザシキ・オメエまたはウワエン・ダイドコロまたはシタエンは、非日常の生活の場として位置づけられていることが明らかとなった(図7参照)。

4 おわりに
 伝統的住居の間取りは前沢・水引で呼称の相違がみられたが、ヘヤ・ザシキ・チュウモン・オメエまたはウワエン・ダイドコロまたはシタエン・スイジバまたはダイドコロの6部屋によって床上空間か構成されており、家族構成にかかわらず間取りの型に応じたへヤ=世帯主の寝室・ダイドコロまたはシタエン=食事・団らんなど、三世代の住み方を基本とする住み方がみられる。
 つまり、一世代あるいは二世代家族の住み方は三世代家族の住み方の特殊解であり、伝統的住居が三世代同居のための作り方であるといえる。

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「暗殺者グレイマン」は12カ国の暗殺チームを次々と倒し、幽閉された双子の姉妹を救う活劇物語

2017年03月13日 | 斜読

book435 暗殺者グレイマン マーク・グリーニー 早川書房 2012 /2017.2  (斜読・海外の作家一覧)
 著者グリーニー(1967-)はアメリカの小説家で、2009年出版のデビュー作「暗殺者グレイマン」がベストセラーになった。続くグレイマンシリーズもたいへんな人気だそうだ。
 原題The Gray Manは人目につかない男を意味するが、日本ではタイトルに暗殺者を冠しているように、主人公ジェントリーはもとCIA特殊活動部に属していて、いまは表向きロンドンで民間警備会社を経営するフィッツロイから暗殺の仕事を引き受けている。

 書き出しの舞台がイラク西部の荒れ地で、ジェントリーは・・あとで分かるが、フィッツロイの依頼でナイジェリア大統領の弟であるエネルギー大臣の・・暗殺を実行し脱出しようとしていたが、アルカイダと戦っているアメリカ陸軍の大型ヘリコプターが墜落する場面に遭遇してしまう。
 アメリカ兵を救出すれば脱出が難しくなるが、同胞がアルカイダの拷問を受け斬首されてしまうのに我慢がならず、高性能のライフルを連射して生き残ったアメリカ兵を助け出す。
 書き出しから切羽詰まった展開で、息をつかせない。ダイナミックな展開が人気の一つであろう。もっともこの時点ではイラク戦争が舞台かと思ってしまったが・・。

 著者は書き出しのなかで、さりげなく主人公ジェントリーの腕のすごさと、自分が窮地におちいる可能性があっても同胞を救出しようとする人間味を紹介している。人間味のあるジェントリーの設定も人気の一つになる。
 ナイジェリアには石油と天然ガスが豊富で、多国籍企業であるローラングループが液化天然ガスを輸送するパイプラインの技術を保有していた。ローラングループはナイジェリア大統領と契約する直前で弟が暗殺されたため、ローラングループに、暗殺者であるジェントリーを始末し証拠に首を送ってきたら契約すると脅してきた。
 この契約の担当であるロイドは、フィッツロイの警備会社に乗り込んできて、ジェントリーを引き渡すよう申し入れる。ジェントリーを暗殺者に育てたフィッツロイはジェントリーを信頼していて、ロイドの無謀な要求を断る。
 契約破綻を避けたいロイドはなんとロンドンで不動産業を営むフィッツロイの息子フィリップ、嫁、双子の娘クレアとケイトを誘拐し、ノルマンディの堅固な城館に監禁してしまう。
 家族かジェントリーか、苦渋の選択をしたフィッツロイは、イラク西部からヘリコプターでジェントリーを救済するはずの部下にジェントリー抹殺を指示する。怪しげな挙動を察知したジェントリーは救済チームを倒しヘリコプターから脱出するが、足を痛めてしまう。

 作戦の失敗を聞いたロイドは、ローラングループの保安危機管理担当のリーゲルにジェントリー抹殺を任せる。善悪、明暗の分かりやすい対比が物語を明快にしていて、これもベストセラーの秘訣のようだ。
 リーゲルはドイツ連邦国防軍出身で、保安危機管理には非合法手段による問題解決、秘密情報収集、企業スパイ、ときには殺しも含まれていた。
 ジェントリー抹殺を任されたリーゲルは、ボツワナ、インドネシア、リビア、ベネズエラ、南アフリカ、サウジアラビア、アルバニア、スリランカ、カザフスタン、ボリビア、リベリア、韓国のそれぞれトップレベルの秘密工作員12チームに大金を用意してジェントリー抹殺を依頼する。

 フィッツロイが裏切り、ロイド+リーゲルが密かに抹殺を企てていることを知らないジェントリーは、トルコに逃げ延び、グルジアを通過し、プラハに向かう。
 リーゲルは各地に監視員を配置していて、ジェントリーを発見する。プラハに最も近かったアルバニアチームがジェントリーに近づく。
 カフェで怪しげな挙動に気づいたジェントリーは先手を打ってアルバニアチームを倒したあと、フィッツロイに連絡を入れる。フィッツロイは自分もロイドに監禁されて脅されていることはいわず、家族がノルマンディーに監禁されていて、48時間以内にジェントリーが現れないと家族が殺されると告げる。

 ジェントリーは、48時間以内に双子の姉妹を助け出そうと決意し、偽造パスポートを作るためブタペストの詐欺師に会いに行く。ところが詐欺師が裏切り、ジェントリーがいることをフィッツロイに教える。
 これを聞いたロイドはリーゲルに伝え、リーゲルはインドネシアチームを急行させるが、間一髪でジェントリーは難を逃れる。
 またも傷を負いながら、ジェントリーはフィッツロイも知っているスイスの隠れ家に向かう。フィッツロイはリーゲルに隠れ家を教え、リーゲルの指示でリビアチームが隠れ家を襲うが、ジェントリーは何とかリビアチームを倒し、フィッツロイが裏切っていることを確信する。

 新たな暗殺チームが襲うたびに傷を負いながら敵を打ち負かし、満身創痍でノルマンディーの隠れ家にたどり着く。
 何重もの迎撃態勢を敷いた城館から双子姉妹をどのように助け出すか?。深手を負っているジェントリーに策はあるか?。ということで、最後の最後まで超人的なジェントリーの活躍ぶりが展開する。

 金が絡んだ裏社会はこんなにもすさまじいとうことが微細に描かれているが、勧善懲悪の主張ではなさそうだ。傷を負いながらも次々と敵を倒し、最後に囚われていた双子を救い出す活劇が、アメリカ人好みなのかも知れない。

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生産緑地の解除がミニ開発を誘導することが少なくない→市街化区域内農地の計画的な宅地化誘導を期待

2017年03月12日 | studywork

2004 上尾のまちづくり「生産緑地が消えていく」 /2004 図はホームページ参照。
都市計画法が変わって
 昭和43年1968年に都市計画法が改訂された。この法改正の目的の一つは、都市の無秩序な拡大(アーバンスプロール)を防ぐことで、都市計画区域を市街化区域と市街化調整区域に区分(線引きと呼ばれる)し、市街化区域では市街化を促進し、市街化調整区域では市街化を抑制するため住宅建設等を制限したことである。
 市街化区域では、住居系や商業系、工業系などの用途地域が定められ、用途地域に応じた容積率や建ぺい率、高さ制限が規定されて都市整備が進められることになった。
 ところが、この法改正以前から農業等を行っていた土地の周辺では用途地域に応じた市街化の促進が進むことになったばかりではなく、農地に固定資産税や都市計画税といった宅地並みの課税がかかることになった。その農地や大きな屋敷を遺産相続すると宅地並みで課税されるため、土地を売却しないと相続税が支払えないという事態も起きることになってしまった。
 農地は農家の生計を支える生産空間であると同時に、周辺住民にとって、新鮮な食材を提供してくれるうえ、過密な都市のはざまに点在する清涼な緑地空間としても機能する貴重な緑でもある。このままでは、農家も消滅し、都市の貴重な緑も失われてしまう。

生産緑地制度が生まれた
 昭和49年1974年、「市街化区域内にある農地等の農業生産活動に裏付けられた緑地機能に着目して、公害又は災害の防止、農林漁業と調和した都市環境の保全等に役立つ農地を計画的に保全し、良好な都市環境の形成を図るため」生産緑地制度が設けられた。
 生産緑地法の目的には、第1条・・・農林漁業との調整を図りつつ、良好な都市環境の形成に資すること、と位置づけられている。具体的には、
1.公害又は災害の防止、農林漁業と調和した都市環境の保全等、良好な生活環境の確保に相当の効用があり、かつ、公共施設等の敷地の用に供する土地として適しているものであること
2.500㎡以上の規模の区域であること
3.用排水その他の状況を勘案して農林漁業の継続が可能な条件を備えていると認められるものであること
の条件を満たした農地で、土地の所有者が生産緑地の指定を希望し、都市計画で定められると生産緑地として認定され、課税等の緩和が適用される。
 そのために、生産緑地地区ではいくつかの行為が制限されることになる。第8条では、「生産緑地地区内においては、次に掲げる行為は、市町村長の許可を受けなければ、してはならない」とされ、
1.建築物その他の工作物の新築、改築又は増築
2.宅地の造成、土石の採取その他の土地の形質の変更  ・・略・・
は、生活環境の悪化をもたらすおそれのないものに限り、市長の許可を受け、建築等を行うことができる。これも生産緑地制度の趣旨からは当然であろう。

生産緑地の解除
 生産緑地法では、生産緑地に指定されてから30年を経過した場合や、農業の主たる従事者が死亡等で農業の継続が難しくなったときは、市長に対し、時価で生産緑地の買取りを申し出ることができる(生産緑地法第10条)、ことになっている。しかし、どの市も財政状態はかなりきびしく生産緑地を買い取る例は極めて少ない。私の経験した都市計画審議会案件でも、道路の拡幅整備、あるいは公共施設用地として買い取る例がときおりあるが、ほとんどは買い取りがなされないまま、生産緑地が廃止されてしまう(生産緑地法第14条)。
 生産緑地の廃止とは、農地であった土地が通常の宅地として扱われることを意味し、所有者の死亡の場合は遺産相続税問題が被さってくる。結果として、生産緑地であった土地は開発業者に売却され、住宅地などに開発されることになる。

上尾市都市計画審議会での発言
 ・・国道、市道の買い上げは止むを得ないというのもありますが、その他の生産緑地の解除後に着目すると、かなり過密な住宅が広がっています(配付資料、赤斜線が生産緑地解除申請地)。すでに生産緑地を解除した周辺地区では宅地開発が進んでいます。今回の生産緑地の解除で、相続税等を支払うため、結果として住宅開発が進むと考えられます。
 住宅地の発生の仕方を現地で見てきました。生産緑地解除はそれぞれの所有者の個別の状況で発生しますので、通常は、バラバラに、しかも500㎡以上という決まりですが、今回の案件をみても0.16ha、0.27ha、0.12・・などとそれぞれの土地は必ずしも広くはありません。その土地を効率的に住宅地に開発をすると、いわゆる路地状道路に住宅を並べるということになり、結果的に道路形状が狭隘で複雑な形のままのミニ開発地が集積した住宅地ができあがってしまいます。
 これを規制をする法的根拠はありませんが、上尾市都市計画マスタープランの54ページには「市街化区域内農地の計画的な宅地化誘導」という項目があり、「市街化区域内の一団の農地が宅地化される場合には、地区計画などにより、計画的な宅地化を誘導して良好な住環境の形成を図ります」とうたわれているのです。
 生産緑地は生産性と同時に緑地性があると認められ、法的な特典があるわけですが、そういう良好な環境をなるべく維持をすることで、住む方も周辺の方も逆に付加価値を高めた住宅地に住めるという環境ができるはずなのです。それが個別に生産緑地が解除され、個別にミニ開発が行われると、好ましい住環境形成はとても難しくなってしまう。生産緑地解除とともに地区計画をかけるなど、緑地の豊かな住宅地計画が実現すれば、上尾市の付加価値を高めるのではないでしょうか。生産緑地解除に伴う新たな住環境形成についての議論を深めていただくよう期待します・・。

生産緑地の今後は?
 埼玉県上尾市の生産緑地の動向をみると、1992年から2003年までに、167.14haから151.90haに減少している。12年間で15.24haの減、年平均1.27haが生産緑地を解除している。後継者の不足を勘案すると生産緑地の現象には拍車がかかることはあっても、復活は難しそうである。
 最近1年間で解除された生産緑地のその後を聞いてみると、相続によるものは14条買取り申し出があったが買い手がなく、結局売却され宅地として開発された(10件)か、公共用地設置によるもの(=都市計画変更により、一部または全部を解除)が9件であり、少なくとも緑地空間はすべてなくなったことになる。
 今後の生産緑地は、相続発生により生産緑地の解除は進むと考えられるが、市の財政が厳しい状況では買い取ることは非常に困難であり、他の農業経営者(又は従事者)が買い取る事例もみられない。
 みんなで知恵を出し合わないと、生産緑地はいずれ消滅である!!

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1997年米沢市芳泉町・石垣町を事例に上杉鷹山がいまに伝える環境共生術を考察

2017年03月10日 | studywork

1997「歴史的町並みの環境共生術」農村計画学会大会 /1997.4 フルページ・図はホームページ参照。
                             
1 はじめに 
  地球環境問題解決のための実践的な対策が次々と提案され、具体化されている。身近に実施されている行動計画を類別すると、①自然環境を保全、あるいは復元して、環境のもつ資源力と浄化力を高めようとする手法、②自然エネルギーの有効利用や環境への負荷低減を目指した技術開発、そして③環境の成り立ちを解読し、自然との共存を図ろうとする手法に大別される。そのいずれもライフスタイルにかかわっていて、時間軸の上でとらえるならば、①は原始、古代的な自然環境優位のライフスタイル、②はより優れた科学技術による克服を目指す近代、現代的なライフスタイル、そして③は自然環境との調和を原則とする中世、近世的なライフスタイルに類似する。よって、多くの人々は①や③のライフスタイルを、地球に優しいと理解し、懐かしさや感性的な共感を覚えつつも、不便であり、古くさく、遅れた生活ととらえがちである。しかし、②をどれほど発展させ、環境への負荷を可能な限り小さくしようとも、現代人の生活自体に環境への負荷が内在されているのであり、地球環境の破綻を先送りすることはできても問題の解決にはなり得ない。つまり、②に対応する環境技術の開発とともに、①に対応する自然環境の保全・復元と、③に対応する自然環境との共存の不可欠性を認識し、三者がバランスされたライフスタイルの啓発を図る必要がある。
 本稿は、今に歴史的な町並みが伝えられている米沢市旧上杉藩芳泉町・石垣町を事例に、③に相当する、環境の成り立ちを踏まえ、自然との共存を目指したまちづくり手法を解明するとともに、環境との共存が快適な町並み景観を形成していることに言及する。

2 米沢市旧上杉藩芳泉町・石垣町  ・・略・・
3 地勢に適った町割術   
・・略・・

4 水循環に則った水利術
 最上川は南原の傾斜に従い、米沢盆地に向かう。芳泉町、石垣町では、最上川の上手から水路を分岐して町中に導き、城下への水路とした。最上川の分岐点には水神を祀り、広場を設け、祭礼を行ってきた。これは、祭礼を通して豊かな水の恵みを感謝するとともに、水を清らかに保つための意識啓発の意味を持つ。城下を過ぎた水路はやがて最上川に落とされる。最上川から水を分岐し、最上川に返す、一種の水循環の発想である。
 町に導かれた水は、町の南端で道路の東側、西側に分水され、短冊形に並んだ町割を抜けて町の北端で合水されてから城下へ向かう。町の南端、北端の分水、合水ヶ所には水神が祀られ、子どもを主役とした祭礼が行われる。子ども達は祭礼を通して、入ってくる水の豊かさと安全、出ていく水への安全と再来を願いながら、水の大切さを理解していく。この、入る水と出る水の神格化は、水循環の発想に通じる。
 各屋敷で飲食に使う水は井戸水であった。井戸から汲み上げられた水はいったんかめに溜められ、流しで使われたあとは庭の池に落とされていた。水道が普及してもしばらくのあいだは、流しの排水をやはり池に落としていた。池では鯉が飼われ、水はやがて地下浸透する。ここにも、水をきれいに使う仕掛けと、水循環の仕組みがうかがえる。
 町割を抜ける水路は、池に利用されたり、水場として利用されることもあるが、城下の上・中級武士に配給される水であり、水神の祭礼もあって清浄が保たれていたといわれる。近年、鉱毒が入り込んだことと、応じて普及した水道水のため、水神祭は形骸化されつつある。しかし、水路や池はいまでも潤いをもたらしている。
 蛇口をひねり、下水に流す現代生活は便利さに代わって水飢饉と大規模な上下水工事を招いている。先人の巧みな水利と水神による水環境の保全手法は現代にもっと活用されてよい。

5 環境保全型生活術
 困窮にあえいだ上杉藩は倹約令とともに、実にさまざまな試みを行った。その一つがうこぎ垣である。うこぎは成長が早く、新芽が食用でき、しかも小枝と葉が密生して防御にもかなうことから、芳泉町、石垣町などに用いられた。まず、南原を埋め尽くしていた玉石を集めて土台をつくり、その上にうこぎを植栽したのである。食べる塀とでも言えようか。さらに、柿、栗、杏などの食用になる樹木や、杉、檜、栂などの用材に適した樹木、南天やヤツデのような薬用効果のある樹木が植えられた。芳泉町の道路沿いにはおよそ2mに1本の割で樹木が並び、その種類は120種にも及んでいる。かなり広範囲に樹木を収集し、適性と効用を調べた結果と考えられる。結果として町並みは、春夏秋冬のいずれの時期もどこかで花が咲き実をつける、季節感にあふれた構成になっている。
 南原の玉石は石垣にとどまらず、屋敷や農地境の土留め、建物の基礎、水路、塚など広範囲に利用された。開拓のためやむを得なかったとはいえ、町並みや住まいが強固に形作られることになり、そのうえ、景観的な秩序感さえ生み出している。
 各屋敷は間口が6~8間として町割されていたが、奥行きは25間を基準にその奥の開拓は自由であった。家族が多く食材に困る屋敷は、労働力を活かして畑地の開拓に精を出したため、屋敷奥行きが50間に達するところもある。奥行き25間にとどまる屋敷も、主屋は10間ほどのため、その奥に畑地をとることができる。調査時点でも、ネギ、トマト、トウモロコシ、ナス、スイカ、食用菊などの多様な野菜が作られていて、食卓をにぎわしている光景が想像できる。畑地の奥には麦も作られ、水利のいいところは水田となった。むろん食用であるが、麦藁は茅に織り込まれて屋根葺き材として利用された。
 素材を余さず利用する生活術、言い換えれば生活を支えるさまざまな素材それぞれのライフスタイルと、私たち人間生活のライフスタイルとの調和を図った生活術は、いま問われている現代のライフスタイルのあり方に一つの指針を与える。

6 おわりに

  自然との共存は、私たちの祖先が長いあいだに構築した優れた生活術である。それは数千年をかけて作り続けられた術であり、その土地の地勢や気候を読みとるが故にその土地の風土に適っていて、生活文化の基層をなす。結果として、住環境は個性的であり、時代を超越して住む人に馴染みやすく、景観性や地域性、文化性と少しもたがうことはない。この自然と共存する生活術と、環境技術の開発、自然の保全をバランスした住環境整備を期待したい。芳泉町、石垣町は技術的先進事例ではないが、ゆったりとした時間があり、屈託のない生活が展開する。春の終わり、しおれ始めた花の隣に夏の花がほころびかける光景、客をもてなそうと手を伸ばした食用菊にとまるトンボの風情。絵になり、歌になる空間がそこにある。

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