yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

佐伯著「ゲルニカに死す」は無差別爆撃の悲惨を描いたピカソの「ゲルニカ」にまつわる奇想天外な展開

2016年12月25日 | 斜読

ディスクトップパソコンが不調だったが、運良く起動しても作業途中でぷっつんシャットダウンが頻発、ついに決別することにした。動いているときにデータはすべて外付けハードディスクに移しておいたので支障は無いが、ノートパソコンへの引っ越しと設定で手間取った。ただいまノートパソコンでブログアップ。

book430 ゲルニカに死す 佐伯泰英 文藝春秋 1996 /2016.12読 
 ゲルニカ」といえば、パブロ・ピカソ(1881-1973)による縦349cm×横777cmのゲルニカ空爆の悲惨を描いた絵を連想する。
 1937年5月からパリ万国博覧会が予定されていて、ピカソはスペイン共和国政府の依頼でスペイン館の壁画を描くためパリにいた。そのころスペインではフランコ率いる反乱軍が台頭していた。1937年4月、フランコを支援するドイツ空軍とイタリア軍の爆撃機がスペイン・バスク州ゲルニカに無差別爆撃を繰り返し、大勢が犠牲になり、町は壊滅的な被害を受けた。
 ゲルニカの無差別爆撃の知らせを聞いたピカソは、ゲルニカ爆撃をテーマにして、巨大なキャンパスにモノクロームで牛の頭、子どもを抱えて泣き叫ぶ母親、いななく馬、天を仰ぎ救いを求める男、苦しみ叫ぶ人々をわずか1ヶ月で描きあげた。
 スペインはフランコが独裁を進めていたので、「ゲルニカ」はパリ万博閉幕後アメリカで展示会が開かれ、その後、ニューヨーク近代美術館に保管された。
 フランコ没後の1981年、「ゲルニカ」のスペイン返還が決定され、バスク州などが受け入れを希望したが、マドリッドのプラド美術館に運び込まれた。1992年、マドリッドのソフィア王妃芸術センター開館し「ゲルニカ」はソフィア王妃芸術センターに移された。これは史実である。

 ・・1992年のスペインツアーではプラド美術館見学しか予定されておらず「ゲルニカ」を見ることができなかったが、2015年のスペインツアーではソフィア王妃芸術センターも訪ね、壮大な「ゲルニカ」をじっくり鑑賞した・・。
 
 この本のタイトルのゲルニカはまさにピカソの「ゲルニカ」を指している。先に目次を記す。
第1章 空襲、第2章 帰郷、第3章 失踪、第4章 古邑、第5章 火傷、第6章 連鎖、第7章 過去、第8章 孤児、第9章 空白、第10章 正体、第11章 潜像、最終章 検証、
 第1章・空襲とは1937年4月の無差別爆撃を意味する。爆撃の1週間ほど前、画家を目指す日本人菊池信介が画材道具を持ってゲルニカ駅に降り立った。もちろんここからはフィクションである。
 信介は見習い修道女のミレイアと出会い、ミレイアを描く。それが表紙絵である。1週間後、ドイツ空軍とイタリア軍の爆撃機による波状攻撃が始まる。ミレイアと一緒にいた信介は攻撃を逃れるために最短のモンテフェルテ伯爵邸の防空壕に逃げ込む。
 第1章はここで終わるが、その後の展開で、信介は防空壕にいた白い三角帽子の男たちにより草刈り鎌で喉を切られて殺され、ミレイアはひどい暴行を受ける。
 白い三角帽子の男たちはなぜ信介を殺し、ミレイアに暴行を加えたのか。あとで、史実にフィクションを加味しながら、ゲルニカ攻撃が明らかにされる。

 第2章・帰郷は話が現代に飛ぶ。倒産したテレビ企画事務所の土岐健次が、大学時代の恩師で退職してスペインに渡った美術評論家の宮岡利三の訪問を受ける。
 宮岡はスペイン文化大臣エンリケ・ラスカノと懇意で、宮岡によればエンリケは「ゲルニカ」を広島、長崎に貸し出してもいいと考えているそうだ。
 実現すれば世界的な耳目を集めることになる。土岐はもとの親会社の生井に相談したところ乗り気になり、具体的な調整のため生井の部下で土岐の後輩である金森がスペインに出かけた。
 ところが金森はラスカノ大臣と会ったあと、ゲルニカに向かったらしく、ゲルニカの墓地で喉を切られて殺されているのが発見された。

 なぜ金森は殺されたのか?、謎を残して話は1937年4月のパリに場面が移り、ピカソが登場する。ピカソがゲルニカの空襲を知ったところで第2章が終わる。
 第3章・失踪は、金森の遺体送還に立ち会った土岐が金森がラスカノ大臣に会うときの通訳を担当した音楽研究生の椿しのぶと出会うところから始まる。
 二人で宮岡の家を訪ねるが行方知れずだった。ラスカノ大臣に話を聞くが「ゲルニカ」貸し出しの件は知らないという。またも狐につままれてしまうが、話はピカソに移る。画題のイメージがわき出したところで第3章が終わる。

 第4章以降で、金森の死の真相を探ろうと土岐としのぶはゲルニカに向かい、事件を担当したゲスレヤ刑事に話を聞いたり、アラサマグニ修道院長と親交を深めたりする。しのぶはアラサマグニがミレイアではないかと直感する。
 土岐としのぶの周りで殺人が起こり、さらに一見ゲルニカと縁の無さそうな遠く離れたところでもで、次々と殺人事件が起きる。やがて宮岡が現れ、次第に真相が明らかになっていく。あとは読んでのお楽しみ。
 話が前後するが、傷心のミレイアをパリの修道院に送ったときに付き添ったホセは、その足でピカソを訪ねていた。ホセは、信介のスケッチブックと、白い三角帽子のグループがゲルニカの爆撃のさなかに殺戮を働いていた話をピカソに大金で売りつける。この本では、ピカソの「ゲルニカ」はホセの話に基づいて描かれた設定になっている。
 奇想天外な展開もあるが、ゲルニカにおける悲惨な無差別爆撃と数々の悲劇が起きたことを思い起こさせてくれた。読みながら何度もインターネットで「ゲルニカ」を参照し、戦争は悲惨しか残さないと改めて確信した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1996年少数民族トン族を訪ねる、集落の防御の要となる木造の風雨橋は気迫に満ちている

2016年12月23日 | 旅行

1996 中国の少数民族・トン族の風雨橋 /1996.6
                             
 日本は島国のうえ東は広大な太平洋に面していて、立地条件からみればかつては海外との交流は針ほどの少なさしかなかった。そのことが、中国大陸からの文化を断続的に採り入れては、それをこれ以上には工夫しようがないほどに知恵を集めて昇華する独自の技術を育んできた。
 もし、次から次と絶え間なく豊かな文化が流れ込んでいたら、日本建築の随所に燦然と輝く繊細な表現技術は生まれなかったかもしれない。

 ところで中国は、北はシベリア大陸、南は東南アジア諸国からインド大陸に接し、西は小アジアを経てヨーロッパ大陸やアラビア半島につらなった立地で、しかも早くから遊牧民族による文化の交換があったから、国家の体勢を整えるやいなや強大な中央集権制を布き、流入してくる異文化を吸収しては中国文明を揺るぎのないものに発展させてきた。
 当然、中国からあふれ出す文化も桁違いで、中国の縁辺部に住む民族のなかには中国文明に飲み込まれた民族も少なくないに違いない。


 現在、中国には55の少数民族がいるといわれているが、かつては100も200も民族がいて、そのうちの大半が中国文明にとけ込んでしまい、独自の文化を守り抜いたのが50余といってもよいのではないか。
 実際、現在の少数民族の分布をみるとほとんどが中国の縁辺部か山間僻地である。中国の巨大な文明に対峙して民族独自の文化、民族のアイデンティティを維持するには、日本の海に相当する一定の距離が必要に違いない。


 トン族は、中国東南部、湖南省・貴州省・広西壮族自治区が接する三江の山間部に住んでいて、川沿いに集落を形づくり、いずれの集落も風雨橋と呼ばれる橋を備えている。
 橋をもつ集落がトン族、似たような集落でも橋がなければヤオ族やミャオ族、チュアン族などの少数民族か漢民族になる。

 現在、三江自治県には135の橋が確認されているとのことだったが、山間に点在し、しかも舗装のない隘路のため、2日で5つの橋、民家2棟、集落の集会施設の象徴ともなる鼓楼2棟(この建物も特異!)を訪ねるのがやっとだった。

 写真(ホームページ参照)は、135のうちで最も典型的といわれる程陽橋である。全長約78m、幅4m弱、5つの橋亭があり、うち中央が八角形、両端が入母屋、中間が方形の屋根をのせた実に見応えのある橋である(上写真には中央八角屋根と中間の方形が写っている、下写真は内部)。
 橋亭ごとに地場の青石を積み上げた柱脚があり、ここを基準に丸太を天秤式に跳ね出して構造体としている。
 床は厚さ4cmほどの板で木造の手すりがつき、切妻の屋根がかかった単純な仕組みだが、無駄がなく、村人の気迫がせまってくるように感じる。


 なぜ橋が作られたのだろうか。字の通り雨、風を防ぐ機能もあろう。実際、雨が多く、この調査のときもずいぶんと雨が続いた。手持ちの湿度計は70-80%からまったく下がらず、雨に濡れた上着や洗濯した下着が乾かなくて往生した。
 しかし雨、風のためだけだろうか。恐らく早くから部族間の戦いがし烈で、強い部族ほど実りの豊かな住みやすい場所をとろうとした。
 そして川を自然の要塞とし、防御のかなめに橋を築いた。橋には見張り所として橋亭がおかれ、敵の襲来とともに鼓楼の太鼓がうち鳴らされた。
 橋を守り抜けば集落は安泰である。もし、戦う前に集落の力を誇示できれば、戦わずして集落を守ることが可能ではないか。
 村人は技を集めて壮大な橋を象徴的に作り、無益な戦いを避けようとした、この推測はどうだろうか。


 もしそうだとしたら、橋は村人の技と力の表出であるから、集落の強さは風雨橋によって測ることができる。
 やがて、他の少数民族や漢民族に対するアイデンティティとしての意味をもつようになってきた、と考えられないか。
 風雨橋は洪水や火災に遭えば作り替えられてきた。橋を失うことは集落のアイデンティティを失うことであり、それは民族の存在の歴史を自ら消すことになる、と考えられたのではないか。
 そのせいか、風雨橋には気迫がある。その気迫は、子ども達に引き継がれ、次の時代にも風雨橋が象徴的な存在として位置づけられていくのではないだろうか。

 翻って日本は、あれほどまでに昇華させた民の技をいとも簡単に捨てすぎたように思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿刀田高著「やさしいダンテ 神曲」は分かりやすい、ダンテは地獄で気を失うも煉獄を抜け天国に旅する

2016年12月22日 | 斜読

book429 やさしいダンテ 神曲 阿刀田高 角川書店 2008 /2016.11読  (斜読・日本の作家一覧)
 ダンテ・アリギエーリ(1265-1321)の「神曲」は教科書で学んだていどの知識しかなかった。何度か図書館で「神曲」を手にしたが手に負えそうもなさそうに感じ、松本清張著「詩城の旅びと」などの引用やロダン作「地獄の門(国立西洋美術館)」を見て、地獄の様相をおぼろにイメージしたままにしておいた。阿刀田高氏の「・・を知っていますか」を読んだとき、氏が「やさしい」と銘打った「ダンテ・神曲」を書いていることを知りいつかは読もうと思っていた。たまたまダン・ブラウン原作を映画化した「インフェルノ」ではダンテ・神曲が謎解きのスタートだったので、急きょ阿刀田氏のこの本を読むことにした。
 阿刀田氏がいうように確かに優しくまとめてある。第1話にはダンテがフィレンツェを追放された背景・・追放の背景は地獄を訪ねる最中に再三登場する・・、永遠の恋人であるベアトリーチェ、ダンテを地獄~煉獄~天国に案内する古代ローマの詩人ウェルギリウスについて紹介しているので、教科書ていどの知識でもダンテと「神曲」に入門することができる。
 ただし、この本には表紙・裏表紙の絵を除いて写真、図がなく、すべて文字である。読み始めてからでもいいから、サンドロ・ボッティチェッリ(1445-1510)の「地獄の見取り図」をインターネットで見ておくと、地獄編の様相がイメージしやすい。第2話ではオーギュスト・ロダン(1840-1917)作「地獄の門」を取り上げているから、ついでに「地獄の門」も上野・西洋美術館かインターネットで見ておくと阿刀田氏の論述が親しみやすくなる。

 ダンテが政治闘争に敗れフィレンツェから永久追放を宣告されたのが1900年代初め、30代半ばで、その後各地を転々とし、1307年ごろから「神曲」を書き始めた。1318年、53才のとき、ラヴェンナの領主がダンテを引き受けてくれたので執筆に全力を傾けることができ、1321年、56才のとき「神曲」を完成させた。ところが、その直後の外交使節の旅の途中で病死してしまう。追放の傷心に加え放浪の旅で心身ともに疲弊していたのかも知れない。

 神曲は地獄編、煉獄編、天国編に分かれていて、ダンテによればそれぞれが層をなしている。地獄は9層の構成で、「第2話 地獄の門を抜けて」で三途の川に相当するアケロン川を渡り、地獄の第1層に踏み込む。地獄の9層は漏斗状で、螺旋を描きながらより厳しい責め苦が待ち受ける下層に向かって降りていく構造になっている。第2話から第6話が地獄の旅で、ダンテは壮絶な地獄のありさまに何度も気を失う。

 ウェルギリウスに力づけられ、なんとか地獄を抜け、南半球の孤島に着く。この島に煉獄山がそびえている。煉獄は二つの丘と七つの層で構成されていて、第7話では厳しい山道を登り、二つの丘を越えて、煉獄の門に入るところまでが描写されている。煉獄は地獄と天国のあいだにあり、罪が浄化されれば天国に入ることができるそうだ。第8話では第1層から第6層に入るまでが描かれていて、第9話で第6層を抜け、第7層に来ると、川の向こうの光のなかにベアトリーチェが現れる。ベアトリーチェは・・ここに幸福のあることを知らなかったのか・・私が去ると邪道に迷い込み・・厳しく懺悔せよ・・と諭す。懺悔したダンテはマチルダに導かれ、レテ川で清め、エウネ川の水を飲み、煉獄を越える。

 第10話~最終話が天国である。天国は12に光の輪が2層になった構造らしい。地獄~煉獄でも神の教えが語られるが、とりわけ天国では聖書に基づいた神の教えが説かれていく。光の輪のなかにあって、ダンテは次第に真実が神の愛であることに気づいていく。p287・・ああ永遠の光よ、あなたはあなたの中にのみあって、あなただけがあなたを知り、知って知られて、あなた自身を愛してほほえむ・・を実感する。そしてダンテの旅が終わる。

 分かりやすく要約してくれた阿刀田氏の本をさらに印象だけでまとめたから原書の「神曲」には及びもつかないが、著名な著作や芸術、美術で「神曲」が引用されたり、テーマにされることがおぼろに理解できた。「神曲」は無理だという方にこの本はおすすめである。
目次を転載する。
第1話 崇高な片思い
第2話 地獄の門を抜けて
第3話 ギリシャ神話を交えて
第4話 亡者がうじゃうじゃ
第5話 予言のからくり
第6話 三人の極悪人
第7話 煉獄の丘を越えて
第8話 愛と自由な意志
第9話 ベアトリーチェの怒り
第10話 魂は輪になって踊る
第11話 神学の見た宇宙
最終話 薔薇の円形劇場へ 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1990年上海郊外青浦県の新築住宅を訪ねる、伝統を引き継ぎ+新しい時代に向かう工夫

2016年12月21日 | 旅行

3年ほど前、パソコンがピーピー音を出したまま動かなくなったことがあり、デスクトップ内のすべてのデータをあきらめ、修理に出した。先週からまたもピーピー音を出して動かない、音も出さずに動かない、動き出したが突然と画面が消え動かなくなった。修理に電話したところ、間もなく交換部品の期間が終わるので、次の修理はできなくなるとのこと。高い修理代を払ってもいずれ交換ならば、何とかせねばと、分解し、掃除し、ボタン電池を交換し・・・。朝の起動時に、ピーピー動かず、画面断絶などを繰り返しながら、そのたびに強制終了させて立ち上げると、何回目かに何とか動きだす。あらかたのデータは外付けハードディスクに移し、ノートパソコンを併用しながら、おそるおそるデスクトップを使っている。そんなことでブログが飛び飛びになった。いよいよ買い換えか?、ノートでこなすか?、思案中。

1990 「上海郊外青浦県環城郷の住まい」 /2004.8

 上海、1990年8月、朝5時半起床。同済大学のゲストハウス・専家楼の食堂はまだ開いていない。さわやかな空気をおもいっきり吸い込み、同済大学建築系C先生といっしょに青浦県へ向かう。
 大学からおよそ車で1時間も走ると、農村の風景が広がりだす。目を凝らすとそこここに水牛が見える。さもありなん、ここは長江流域の水田地帯であり、中国きっての穀倉である。

 青浦賓館に荷物をおろし、現地を案内してくれる青浦県建設局のSさんに会う。
 まずは、腹ごしらえということで、近くの食堂に入る。日本でいえばワンタンに相当するホンドンシュウマイで、朝からなかなか手ごたえがあった。
 食べていると、隣のおじさんが何か話しかけて来る。気が付くと、みんなちらちら様子をうかがっている。日本からの旅行者が来ないところであり、もの珍しそうに様子をうかがっている。

 朝食後、(日本の村に相当する)の副長さんの案内であらかじめC先生にお願いしておいたYさん宅を訪ねる。この副長さんは女性で、体力もありそうだが、なかなかの実力があり信望も厚いそうだ。中国では、実力がものをいい、総じて女性の活躍が目立つ。

 午後、いよいよ間取りと住み方の調査開始。Yさんの家はレンガ造2階建ての新築住居である(写真、ホームページ参照、以下同じ)。午前中の調査でだいたいの平面構成と住み方がつかめているとはいえ、尺・間で柱が立ち、畳が基準になる日本と違い、レンガ組積造のため寸法どりに手間がかかる。
 しかし、日本の尺・間ももとを正せば中国伝来であり、尺・間に相当する寸法概念が無いわけではない。が、日本の開放的な軸組み構造と違って、中国では外壁も内壁もレンガを積み上げ、閉じた箱をつくる。
 防寒や防災・防火、泥棒よけなど、中国ならではの条件が柱の見えない閉鎖的な箱をつくりだした。そのため、一通りの寸法をとらないと間取りが分からない。・・略・・
 平面図が何とか出来上がったところで、住み方のヒヤリングに入る。家族構成と部屋の呼び方、主な使われ方を聞いていく。・・略・・

 広さは住居部分のみでおよそ200平方mと大きい。以前の建物の材料を少し使ったというが、これでなんと25000元、日本円に換算するとわずか80万円だそうだ(当時)。
 思わずうなってしまう。家族6人で、中学3年の子どもと71才の老父を除く4人が働いており、年収は15000元。年収と比べても安い。
 ・・略・・
間取りを見ていこう。建物は通りの北側に位置し、やや東に向いているがおおむね南向きで、入口は1階(=1楼)・南の中ほどの客堂ke tangになる。
 客堂の東側と西側には房間fang jianが並ぶ。客堂の奥は天井tian jingと呼ばれる中庭で、その奥に物置に使われる小屋がある。
 客堂の左手奥は灶間zao jianである。灶間には2階がのらない。
 西側房間の奥にある階段(楼梯lou ti)を上ると、西側から房間会客室hui ke shi・房間の3室が並ぶ。

 房間は一般に部屋のことで、中国の住居では個室に相当する。1階東側・房間には簡素な天蓋つきのベットが置かれ、老父が使う。
 2階東側・房間(写真)はやや手の込んだ天蓋つきのベットがあり、世帯主夫婦が使っている。
 西側1階・2階の房間は天蓋なしのベットがあり、子どもたちが使うそうだ。

 中国は土足が基本だからベットを使うのが普通である。だが、お年寄り、世帯主などの年長者が天蓋つきで、子どもたちが天蓋なしを使うのは時代の差であろう。ということは、いずれ天蓋なしが当たり前になっていきそうだ。
 また中国には東為上という考え方があるそうだ。これは読んで字の通り、東が上位という発想で、お年寄り、世帯主の房間が東側に位置するのは東為上のためかも知れない。
 ・・略・・ 1階客堂はかつては祖先を祀り、客を招いて行事を行う部屋として使われた。いまでもその性格を残している。
 対して、2階会客室は、接客の意味もあるが、家族が集まって話しをしたり、テレビを見る部屋として使われている。1階が応接間、2階が居間に近いようだ。
 古いつくりの住まいと比べると、家族の時間を大切にしようとする意向が間取りからうかがえる。

 ・・略・・
 1階はほとんど伝統を継承した間取りだが、会客室、衛生間、浴槽など、確実に新しい時代を取り入れている。
 住まいは、Yさんたちの先見性で、伝統を引き継ぎながら新しい時代に向かっているようだ。案内の副長さんが自信をもってすすめた理由に納得しながら、約3時間に及んだ調査を終了、表に出るといつの間にか子どもたちが集まっていた。
 你好ニィハオと声をかけるとみんなの顔がほころぶ。再見ツァイジェン、まさに再び会えることを。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1991年 北京で歴史的な街並みである胡同の歴史景観とコミュニティに配慮した再開発を見学

2016年12月19日 | 旅行

1991  中国北京市内 菊儿胡同 /建築とまちづくり誌 1993.7
                             
 6回の予定で書き始めたこのシリーズもいつの間にか18回となった。連載の最後に取り上げたのは、北京のもっとも庶民的な住宅である胡同である。
 胡同とは、路地や横町の意味で、蒙古語の馬が踏みつけた小道に由来すると言われる。恐らく元の時代にこのような仕組みの街が作られたためであろうが、街の人に尋ねても言葉の由来に詳しくない。

 北京の旧市街は、紫禁城を中心とした碁盤目状の大通りを骨格としている。うち、南北の大通りを東西に結ぶ細道が胡同で、ここに塀を連ねて四合院形式の庶民住宅が隙間無く並ぶ。
 いずれも煉瓦組積の平屋で、多くは中庭側に増築が繰り返され、相当の高密になっている。胡同はもともと狭いうえに、物が置かれたり、小屋が作られたり、ときには物売りが店を広げるのですれ違うのがやっとの胡同も少なくない。

 そこで再開発が期待されてくる。もし高密のまま居住環境を改善しようとすれば、最初に浮かぶ手法は高層化であろう。日本の都心がそれで、いつの間にか公開空地と高層ビルによって住民のいない街に変わり果ててしまった苦い体験が私たちにはある。
 しかし北京市は、旧市街を囲む環状道路の内側の高層化を抑え、歴史都市の景観保全を優先する方針を採用した。
 そして、街のコミュニティも伝統的な町並み景観も、歴史都市の文脈のもとで模索されることとなった。
 紹介する菊儿胡同は、下町のコミュニティと伝統的な町並み景観を生かした成功例の一つである。1991年11月、北京で開かれた中日農村建設学術研究会後の見学会で訪ねた。

 このあたりに建っていた四合院形式の住宅が古く、かなり痛んできたので、地区全体を再開発した。新しい住居群は、四合院形式を準用して中庭をとり、その四周に住戸を配列する方式としたうえで、高さを2・3階建に抑え、瓦屋根をのせて、旧来の街並み景観に馴染ませている(写真、中庭から見た住居群、写真はホームページ参照、写真はホームページ参照)。
 特に道路側は2階建とし(前頁写真の左手、ホームページ参照)、通り側の家並みの調子を整えている。
 面積は2LKタイプの場合で約60㎡ほどである。以前の集合住宅が同タイプで45㎡だったそうだから、かなり改善されている。

 図に示した住居は3LKタイプで、夫婦と子供2人の4人暮らしである。中庭に対して北西隅の位置で、中庭側に入り口、続いて8帖強の客庁を中心におよそ8帖の夫婦用房間(下写真、ホームページ参照)、約6帖の子供用房間2室とキッチンが並ぶ。
 明るい色調の仕上げに、照明器具やベッドカバーもあか抜けている。市の意欲作のため要人、外国人の見学も多いそうで、私たちの質問にもおおらかに応えてくれる。
 国際都市の面目躍如を感じた。が、間取り図をみても客庁が家族の団らん、食事、接客の場となり、さらに各部屋の動線空間となっていて、奥のキッチンは機能的に連続するとしても、トイレも客庁の面して、面積不足による無理がうかがえる。
 面積の壁を破ることが期待される。これは日本の公営住宅の歴史でも同じことが起きているので、失敗の轍を踏まないために参考にしてほしかった。

 ただ、旧来からの居住者の家賃は、新しい居住者のわずか1/10に優遇する措置をとっている。これなら旧来のコミュニティも発展的に残されよう。埼玉県上尾市の共同建て替え住宅を彷彿させる仕組みである。
 また、中庭側に入口を配置したのも、コミュニティの醸成には有効である。いずれにしても首都北京の中核ともいえる場所で歴史景観を生かした2~3階の集合住宅への挑戦は賞賛に値しよう。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする