1992 中国成都市郊外黄龍渓の住まい /建築とまちづくり誌 1993.5
1992年11月。羅城は山間のため日没が早い。5時前なのに裸電球に明かりがともる。楽山市まで戻り、八仙洞賓館に宿をとった。
羅城では、時間が止まったように生活の勢いは感じられなかったが、栄華を極めた町なのであろう、空間の全てが一部の隙なく造形されていて、張りつめた緊張感に背筋がぴーんとのび、ぞくっとするほどの感動をおぼえた。
例えば白井晟一の作品のような、十分に空間が計画され丹念な造形がなされた建築からも緊張感と感動をおぼえる。
しかし、羅城のような、人が集まり、物資が集積し、文化が高じるところでは、人が技をしのぎあって空間を余すところなく仕立て上げてしまう凄さがある。生活の勢いが小さくなり、時代から取り残されれば残されるほど、その凄さは生々しく迫り、心が乱される。
案内の王さんが町の成り立ちや暮らしぶりについていろいろ聞いてまわってくれたが、返事はかんばしくなく、町の様子はほとんど分からずじまいだったようだ。
住み方調査も、生活の勢いが弱いのでためらわれ、断念することにした。
王さん、それでは案内にならないとばかり、明日訪ねる黄龍渓は町並みをそっくり保存整備しているところで、家の構えや住み方も羅城によく似ています、と元気づけてくれた。
翌日の朝8:30、成都に向かって楽山を発つ。午前中に楽山郊外の農家を調査、昼食を蘇東坡で知られる三蘇祠庭園でとり、午後3時すぎ、黄龍渓に到着した。
車から降りた先に古鎮黄龍渓の石碑がたち、道が細くなる。
鎮は城と村の中間くらいの規模の町並みを意味し、古鎮はさしずめ歴史都市と考えればよい。
道は幅3m少ししかない石畳で、その両側は30cmほど高くなった幅3m弱の石敷きの通路にアーケード状の庇がかかり、その奥に木造架構、漆喰壁、瓦葺き2階建ての民家が隙間なく連続する(写真、ホームページ参照)。
多くは1階に店を構え、店先にところ狭しと品物を並べ、できたての料理で人を呼び込む。確かに羅城に似るが、街区が格子状の構成をとり、視線も人通りも隣の街区に抜けていくため、町並みは開放的で緊張感は弱い。
しかし、活気が満ち、歩いていて楽しく、次の店、次の通りへと足が進み、いつの間にかまた同じ店をのぞいてしまうほどだ。
町の一方は、岷江の支流、錦江が流れる。河岸の荷卸し場はひときわ人だかりが多く、舟運の町の活気を見せる。
やはり町は、人の息づかいが欲しい。生活があってこそ町は映えると思う。
店を構えていないRさんにお願いして、中を見せて頂いた。入り口側の間口は約2.7m、途中で3.6mに広がり、奥でまた2.7mになる。奥行きは実に20m近い!。
あいだは5部屋に分かれ、手前から娘の房間、母の房間、房間、厨房、厠所間と続く。
通り側の娘の部屋は、かつては店だったようで、ほかの家の店部分と比べほぼ同じ広さである。この部屋と次の母の部屋(次頁写真、ホームページ参照)の上はいまは使われていないが2階があり、切妻の屋根がかかる。かつては10人家族だったそうで、その頃は2階も房間=個室として使われていたようだ。
その奥の部屋は片流れで上は吹き抜けになっている。この部屋には簡素な天蓋付きのベッドが置かれているが、反対の壁側には井戸ポンプが設けられている。
たぶん以前は中庭で井戸があり、炊事が行われていたと思う。家族が多いので屋根をかけ室内化し、房間=個室としたが、子どもが独立したので空き部屋になっている。
その奥にはかまどがあり厨房として使われている。水は手前の部屋のポンプでくみ上げ、水瓶にためてあり、かまどまで運んで使う。
ここはもともと部屋だったと思う。一番奥の部屋は屋根がかかっているが、たぶん昔は奥庭で鶏や豚を飼い、一隅をトイレにしていたのではないか。いまは物置を兼ねた厠所間=トイレである。
羅城やここ黄龍渓のほかの民家ものぞいた雰囲気はよく似ているので、図(ホームページ参照)に示す間取りは標準的平面と思える。
かつての10人家族は、いまは母・娘の2人だが、町の活気に似て笑いは頼もしかった。