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1981年埼玉県宮代の農村調査で、血縁を軸とした五人組が私的なくねぞいで結びつく空間的仕組みを考察

2016年12月01日 | studywork

1981 「農業集落における集団と空間構成」 日本建築学会九州大会 /1981.9
 1981年度に建築学会で報告した内容の再掲、36年前のことになる。図はホームページ参照。

1 はじめに 
 1980年度に埼玉県川越市の2農業集落を対象として、単一な集団としてまとまっている集落の内部には有機的な関係性を有するいくつかの中間的な集団(班組織・氏子集団・近隣関係)が存在し、それぞれが領域性を有していること、家が構成単位とならず結束の強い家連合が単位となることがあることを実証的に考察した。
 本報は引き続き、江戸時代以前よりの水田を主とした農業集落である埼玉県宮代町旧須賀村内東粂原を対象として下記の地域調査を行ない、中間的な集団の存在とその領域性の考察を進めるとともに、家々を結び家々をまとめる空間的な仕組みをとらえようとするものである。
 地域調査は1)住民意識・営農意識に関する設問、2)地域における社会的活動に関する設問、3)近隣交流・相談相手・地名呼称に関する設問、4)集団・領域に関する設問を地図記入を含むアンケートで、5)物的環境・形態的特性に関する設問を観察・記録調査で行なった。アンケートは昭和55年7月に全戸を対象に行ない、対象総戸数127戸、回収数118戸、回収率92.9%である。本報は主として4)および5)の報告である。

2集落概況 

 東粂原は地理的区分としては12の小字からなる大字であるが、住民の行政単位や農林業センサスでは東粂原第1・同第2の2つに区分されている。しかし、住民の組織や活動は1つにまとまって機能しており、区分は統計以上に意味をなしていない。現在の世帯数118の内、農家55(図-1●印)非農家で旧住民や血縁にある家20(▲印)、新住民43(×印)である。
 居住地は集落のなかにまとまってあり(図-2)、その一部に新住民も集中しており、新住民流入と農耕地減少は直接的に結びついていない。しかし大型農耕機や自動車の普及とあいまって、道路の新設・拡幅・舗装などの整備はここ10年で集落内くまなく行なわれており、作目は米・出荷は農協・営農単位は集落・経営規模は現状維持でまとまっているが、個別経営や規模縮小の芽が出始めるなど、都市化への傾向を伺うことができる(図-4・5・6・7参照)。

3中間的な集団と領域性 

 自治組織の基本となる班組織は住民のまとまりを単位とした6班の構成で、農事組合(農家のみ)・納税組合・衛生組合などの組織も班構成に重ねて、役員選出や活動が行なわれている。これらの組織は班組織に包含されていたものが機能分化により独立した経緯をもつものであり、組織の重層性としてとらえられよう。
 班は五人組2または4組を母体として構成されている。五人組は農家層旧住民の間で現在も出産・葬儀・建築の際に中心的に活動している単位で、歴史的かつ地理的近隣集団である。集落内には同姓の家が多く(森山18、斉藤11、岡安・野口8など)、しかも五人組の中に集中して一部は連続した分布となっており、血縁関係を含む組→班→集落の段階性を見ることができる。
 村の氏神に相当する鷲宮神社には氏子として全戸の参加が見られ、青年団を主体として祭礼・行事が盛大に行なわれている。氏子総代は4組ごとに選出されるがこの単位それぞれにも神社が祀られており(現在は鷲宮神社に合社又は屋敷神となっている)、この集団の自立性と氏子の2重性・神社の段階性をみることができる。
 檀家信徒は3つの寺院に分かれており、その分布は錯綜している。しかし墓地の回答と対応し、かつ同じ血縁関係の分布を示している。任意加入的である檀徒は集団として果す社会的活動は少ないが、血縁によるつながりを強め、他の集団性を補強しているといえる。
 近隣領域縁の回答をみると(図-3)、一部で班の大きさに重なる線を、ほかに組または班に重なる線をみることができる。近隣の呼称も“五人組”および班名を答える率が高くなっている。知識・情報の入手源からも近隣の重要性がみられるが、単位性を持たないため活動単位では組・班の回答が高くなっている。困った時の相談相手も血縁のほかに組・班のなかから選んでおり、ここでは近隣関係が組または班の集団性の中に包絡されていると考えられる。

4形態的特性と空間構成 

 農家層・旧住民に特徴的にいえることは、敷地は南北に長い矩計で南側を耕地などにあてることが多く、北側には数戸にまたがる屋敷林を構え、近年半数以上の新築・増改築をした家が四ツ間取りに準拠しており、棟を東西方向とする切妻・寄棟の瓦葺きで、道路の位置にもかかわらず玄関は南側平入りである。
 道路と南側耕地は仕切りを設けず耕地と屋敷の間に生垣h=1~1.8m位などの仕切りを設けている。東西に並ぶ家と家のあいだは、五人組や特に血縁関係の場合は仕切りを設けない通り抜けられる開口部をもった生垣h=1~3m位などとし、または南側耕地と屋敷のあいだに数戸をつなぐ細い道や北側屋敷林のなかをぬう道を設け、内的・私的なアプローチで家々を結びつけている。
 なお東粂原には雷電講の組織があり、構成員が少なくなりつつあるが、伝統的な活動を行なっている。その一つである村内安全の辻礼は図-2▲印の4ヶ所に立てられる。これはムラ境を示すと考えられる。

5おわりに
 
 以上のように集落内の組織・活動・伝承あるいは素材と構法などにおける同一性によって家々の集合性・集団性をみることができるが、とりわけ血縁関係の五人組などのつながりに対応した家々の配置とアプローチの作り方から家々の集合性・集団性をみることができる。
 このような空間的仕組みは、逆にまたは家々をつなぎ小集団あるいはムラのまとまりを強めているといえよう。引き続き、家々の社会的な関係性に対応した空間的仕組みについて明らかとしたい。

昭和55年度日本建築学会大会「地域計画に関する基礎的考察-5」「農村社会学原理」鈴木栄太郎・未来社 「民俗学辞典」柳田国男・東京堂

 

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