book558 国銅 上下 箒木蓬生 新潮社 2003
天平21年749年2月3日、行基大僧正が亡くなり、造仏はいったん中止になる。国人は行基の亡くなった菅原寺に行き、葬儀の列について荼毘の場まで行く。荼毘が終わったあと、国人は行基の遺灰をつかもうとして衛士に捕まる。衛士頭の前で詩集を読み上げ、榧葉山の行基の弟子・景信に遺灰を届けたいと言うと見逃してくれた。
2月下旬、6段目の鋳込みのころ、陸奥で黄金が発見される。
7段目の外型づくりのとき、年号が天平感宝に変わり、骨休めになったので若草山で腰痛に効く宿り木を探す。そこで捨て子を見つけ、菅原寺悲田院に届ける。(菅原寺には景信の同僚だった基清がいて、箒木氏は僧侶のあり方も説いているが割愛)。
国人は松林のなかに字を練習するための砂場をつくり、詩集を書き写し、自分でも詩を作った。
7月に7段目の鋳込みが終わる。次に耳から上の外型を作り、10月半ばに大仏の顔の外型、中子ができ、土で覆われた。最終の鋳込みのこしき炉は12基、こしき炉に火を入れ、たたら踏みが始まり、銅がすべて溶け、太鼓の合図で湯口が開き、歓声の中で鋳込みが終わる。
翌朝から盛り土を取り除き、12月始め、台座を残して大仏の全体が現れる。国人は螺髪の鋳造に回される。螺髪はおよそ1000、一つの重さは2貫(7.5kg)もある。台座の上に足場が組まれる。
骨休めの日の夕、国人は日狭女に会いに行き、日狭女を大仏の見えるところに案内する。日狭女は草の上で横になり、国人を受け入れる。
天平感宝2年(天平22年)750年早々、大仏殿の柱が届く。直径は5~6尺(1.5~1.8m)も巨木である。大仏殿の屋根の瓦焼が始まる。
池麻呂が国に帰るので、小ぶりの石臼を国人に贈ってくれた・・衛士に好かれる人足は少ない。国人の人柄である・・。
2月に嶋麻呂が来て、子どもの咳き込みに効く薬草を頼まれ、国人は若草山で茅萱の白穂を集め、嶋麻呂に渡す。
2貫の螺髪を運び上げるとき刀良が足を滑らせ、落ちて死ぬ。
嶋麻呂が来て、薬草で咳が止まった、お礼をしたいので館に会いに来るよう伝え、嶋麻呂の供をして都を歩き、藤原仲麻呂の屋敷前を通って、館に着く。国人の薬草で元気になった奥方と子どもに会い、礼を言われる。
6月、長門周防から来た仲間の3人が年季明けで国に帰ることになった。別の仲間の一人が逃亡する。
国人はたびたび日狭女に会いに行く話も挿入される。
天平勝宝3年751年の年明けに大仏殿の柱がすべて立ち、大仏の周囲東西11間、南北7間に50本近い柱が立つ。
春の終わり、都に来てから4年目になる長門周防の仲間3人が年季明けで国に帰る。
6月末、966の螺髪の取り付けがすべて終わる。
骨休めになり国人は日狭女に会いに行くがいない。不安な気持ちで、日狭女と大仏を見下ろ下場所に行くと新しい墓が作られていた。高さ5尺の丸太には日狭女と書かれている。そこに二見が来て、10日前に死んだ、死期に気づいていて自分で墓標の名前を書いた、と話す。
8月に年季明けで仲間3人が長門周防に帰る。国人たちは造瓦所へ行かされる。東塔の屋根用の瓦である。大仏殿の東と西に七重塔、二層の大仏殿で大仏は見えなくなったが、南大門、大仏殿、大仏殿の2倍の高さの七重塔の眺めは壮観である。
天平勝宝4年752年、国人と逆は鍍金組に行かされ、長門周防の猪手と道足は造瓦所に残された。鍍金は、金片と水銀を混ぜて熱し、溶けた金を刷毛で銅の表面に塗り、燈火で水銀を飛ばす。このとき毒気を吸うと命を落とすことになる。
嶋麻呂が国に帰ることになり、国人は餞別の一貫文と館の奥方からのお礼の写本をもらう。
3月中旬、頭部の鍍金が終わる。大仏開眼供養会が4月8日と予定され、雨のため9日に行われることになった。国人たちは足場を崩し、清掃し、造花の取り付ける。
大仏供養会の始まる前、国人たちは大仏殿の上部に上り、竹籠を吊して待機する。供養会が終わるまでジーとしていなければならない。はるか下で太鼓がなり僧侶の読経が始まり、着飾った貴人の中央に聖武天皇が座る。
菩提僧正が大仏殿に仮設された階段を梁まで上り、梁の上を歩いて竹籠に乗る。国人たちが大仏の目の高さまで竹籠をゆっくり降ろし、僧正は右目、続いて左目に黒目を描き入れる。竹籠をゆっくり引き上げ、僧正は梁を歩き、階段を下りる。
高僧が講話する・・一のなかにすでに十が含まれる、十のなかには一が含まれる・・。国人は意味の深さに気づく。講話が終わると、外で大仏に捧げられる舞が始まる。舞と楽が続くなか、僧侶、貴人たちが帰り始め、国人たちも解放され、急いで厠に走り放尿後、渇いた喉を潤す。
天平勝宝4年752年4月下旬に大仏殿に足場が組まれ、大仏の体の鍍金が始まる。4月末、5年に渡る課役の国人、猪手、道足が年季明けになる。造仏長官公麻呂が口添えしたらしい。国人は作っておいた薬草を背負子に入れ、薬草で元気になった奥方の館に向かう。腰に効く宿り木、手足に効くすい葛、血の道用の益母草、つわりのときのからすびしゃく、咳止めの茅萱、ひびあかぎれの薬を届ける。奥方から絹の反物をもらう・・国人は絹女に似合いそうと思う・・。
④年季明けの国人たちは都から若狭に抜け長門周防に向かうが、奈良登りに帰り着いたのは国人ただ一人
天平勝宝4年752年、能登出身の逆も年季明けになり、4人で若狭まで行き、逆と別れて国人たちは日本海を西に向かうことにする。国人の背負子には行基上人の遺灰、絹の反物、池麻呂からもらった石臼、嶋麻呂からもらった写本と1貫文などを入れてあり、かなり重い。
国人たちは佐保川を渡り、奈良坂を下り、木津に泊まる、舟で泉川を下り、与等津から山背川を上って勢多へ出て、琵琶湖を舟で進み今津へ向かう。今津から山越え3日で若狭に着き、逆は東の敦賀を経て能登へ、国人たち3人は舟で長門周防に向かう。竹野で風のため5日待ち、舟を乗り換えて若狭と長門の真ん中の出雲を過ぎ、浜田で雨のため足止めになる。
道足は食がなくなり、甘葛を食べたいというので猪手が探しに行くが、猪手は3人組に金を取られて殺されてしまう。猪手の埋葬を終えるが、取り調べで3日も浜田に留め置かれる。
ようやく船出し、益田に着く。道足の食はますます細くなり、国人が甘葛を探しに行くが、そのあいだに病の道足が襲われ、国人の背負子の一貫文を盗まれてしまう。2日後に萩行きの舟に乗るが、途中で道足が息を引き取る。死んだ道足を抱いたまま鶴江に着き、寺で経を上げてもらって、翌朝、埋葬する。一人になった国人は野波瀬までの荷船に乗り、野波瀬から奈良登りに向かって山道を歩く。
奈良登りまであと3日、景信に山ほど話がある、絹女に会いたい、19だから結婚していたらお祝いに絹の反物をあげたい、まだ結婚していなくても人足と吹屋頭の娘では身分が違いすぎるから結婚は難しいが、絹女の姿を見て、その声を聞くだけで嬉しいなどと、休みながら夢想する。
奈良登りで自分が掘った銅が、あちらこちらの仏像になる。兄・広国は奈良登りから出ろと言ったが、銅作りに一生を費やしても悔いはないと思うようになる。
途中、村で一泊、山の小屋で一泊、ようやく榧葉山が見えた。景信が彫っていた石仏も見える。完成したようだ。景信に話すことがたくさんある。
瀬瀬川を渡る。吹屋頭の家が見える。人足小屋が見える。5年前と変わらない風景だ。釜屋頭の妻・嶋女に国人はいま帰ったと告げる。2年前の6月に3人、去年の3月と8月に3人ずつ先に帰ったはずだと国人が話すが、釜屋頭は誰も戻っていないと答える。
吹屋頭の家に行く。頭領の家に行く。頭領は嘆いても仕方ない、1人でも戻ったのは嬉しいと泣く。吹屋頭は絹女が死んでから1年、絹女は国人といっしょになりたいと言っていたが病に勝てなかった、と泣く。国人も泣く。
景信は今年の1月、大風であおられて落下、岩の下で冷たくなっていたことを聞く。景信の墓で国人は涙する。景信の小屋に行き、景信が彫った石仏を見上げると右が空白になっていた。景信はここに文字を刻もうとしたらしい。国人の頭に百字が浮かぶ「・・十五人上都 塗炭苦年余 ・・唯一人帰郷・・」。景信、絹女、亡くなった仲間への供養、国人は景信が残した空白に文字を刻もうと決意し、物語は終わる。
冒頭にも述べたが、結末は「景信に会い、行基上人のこと、大仏造営のこと、薬草のこと、文字を覚え詩、歌を作ったことをは語り合い」、「国人は、吹屋頭、頭領、釜屋頭、嶋女に祝福されて絹女と結婚、絹女はお礼にもらった絹の衣を身につけ、体調が悪いときは国人の薬草で元気を回復し」、「人足たちの暮らしが改善され、掘られた銅で各地の仏像が鋳造される」といった幕締めを夢想した。
聖武天皇の詔で始まった盧舎那大仏と大仏殿は、いまは世界遺産として参拝者、観光客を集めているが、造営のために大勢の人足が都に集められ、銅採掘場では国人のように過酷な労働が課されていたことにはなかなか思いが至らない。「国銅」では、国人という健気で向上心があり人を思いやる人足を主人公に、大仏造営の難事業を描き出している。大作である。 (2023.11)
天平21年749年2月3日、行基大僧正が亡くなり、造仏はいったん中止になる。国人は行基の亡くなった菅原寺に行き、葬儀の列について荼毘の場まで行く。荼毘が終わったあと、国人は行基の遺灰をつかもうとして衛士に捕まる。衛士頭の前で詩集を読み上げ、榧葉山の行基の弟子・景信に遺灰を届けたいと言うと見逃してくれた。
2月下旬、6段目の鋳込みのころ、陸奥で黄金が発見される。
7段目の外型づくりのとき、年号が天平感宝に変わり、骨休めになったので若草山で腰痛に効く宿り木を探す。そこで捨て子を見つけ、菅原寺悲田院に届ける。(菅原寺には景信の同僚だった基清がいて、箒木氏は僧侶のあり方も説いているが割愛)。
国人は松林のなかに字を練習するための砂場をつくり、詩集を書き写し、自分でも詩を作った。
7月に7段目の鋳込みが終わる。次に耳から上の外型を作り、10月半ばに大仏の顔の外型、中子ができ、土で覆われた。最終の鋳込みのこしき炉は12基、こしき炉に火を入れ、たたら踏みが始まり、銅がすべて溶け、太鼓の合図で湯口が開き、歓声の中で鋳込みが終わる。
翌朝から盛り土を取り除き、12月始め、台座を残して大仏の全体が現れる。国人は螺髪の鋳造に回される。螺髪はおよそ1000、一つの重さは2貫(7.5kg)もある。台座の上に足場が組まれる。
骨休めの日の夕、国人は日狭女に会いに行き、日狭女を大仏の見えるところに案内する。日狭女は草の上で横になり、国人を受け入れる。
天平感宝2年(天平22年)750年早々、大仏殿の柱が届く。直径は5~6尺(1.5~1.8m)も巨木である。大仏殿の屋根の瓦焼が始まる。
池麻呂が国に帰るので、小ぶりの石臼を国人に贈ってくれた・・衛士に好かれる人足は少ない。国人の人柄である・・。
2月に嶋麻呂が来て、子どもの咳き込みに効く薬草を頼まれ、国人は若草山で茅萱の白穂を集め、嶋麻呂に渡す。
2貫の螺髪を運び上げるとき刀良が足を滑らせ、落ちて死ぬ。
嶋麻呂が来て、薬草で咳が止まった、お礼をしたいので館に会いに来るよう伝え、嶋麻呂の供をして都を歩き、藤原仲麻呂の屋敷前を通って、館に着く。国人の薬草で元気になった奥方と子どもに会い、礼を言われる。
6月、長門周防から来た仲間の3人が年季明けで国に帰ることになった。別の仲間の一人が逃亡する。
国人はたびたび日狭女に会いに行く話も挿入される。
天平勝宝3年751年の年明けに大仏殿の柱がすべて立ち、大仏の周囲東西11間、南北7間に50本近い柱が立つ。
春の終わり、都に来てから4年目になる長門周防の仲間3人が年季明けで国に帰る。
6月末、966の螺髪の取り付けがすべて終わる。
骨休めになり国人は日狭女に会いに行くがいない。不安な気持ちで、日狭女と大仏を見下ろ下場所に行くと新しい墓が作られていた。高さ5尺の丸太には日狭女と書かれている。そこに二見が来て、10日前に死んだ、死期に気づいていて自分で墓標の名前を書いた、と話す。
8月に年季明けで仲間3人が長門周防に帰る。国人たちは造瓦所へ行かされる。東塔の屋根用の瓦である。大仏殿の東と西に七重塔、二層の大仏殿で大仏は見えなくなったが、南大門、大仏殿、大仏殿の2倍の高さの七重塔の眺めは壮観である。
天平勝宝4年752年、国人と逆は鍍金組に行かされ、長門周防の猪手と道足は造瓦所に残された。鍍金は、金片と水銀を混ぜて熱し、溶けた金を刷毛で銅の表面に塗り、燈火で水銀を飛ばす。このとき毒気を吸うと命を落とすことになる。
嶋麻呂が国に帰ることになり、国人は餞別の一貫文と館の奥方からのお礼の写本をもらう。
3月中旬、頭部の鍍金が終わる。大仏開眼供養会が4月8日と予定され、雨のため9日に行われることになった。国人たちは足場を崩し、清掃し、造花の取り付ける。
大仏供養会の始まる前、国人たちは大仏殿の上部に上り、竹籠を吊して待機する。供養会が終わるまでジーとしていなければならない。はるか下で太鼓がなり僧侶の読経が始まり、着飾った貴人の中央に聖武天皇が座る。
菩提僧正が大仏殿に仮設された階段を梁まで上り、梁の上を歩いて竹籠に乗る。国人たちが大仏の目の高さまで竹籠をゆっくり降ろし、僧正は右目、続いて左目に黒目を描き入れる。竹籠をゆっくり引き上げ、僧正は梁を歩き、階段を下りる。
高僧が講話する・・一のなかにすでに十が含まれる、十のなかには一が含まれる・・。国人は意味の深さに気づく。講話が終わると、外で大仏に捧げられる舞が始まる。舞と楽が続くなか、僧侶、貴人たちが帰り始め、国人たちも解放され、急いで厠に走り放尿後、渇いた喉を潤す。
天平勝宝4年752年4月下旬に大仏殿に足場が組まれ、大仏の体の鍍金が始まる。4月末、5年に渡る課役の国人、猪手、道足が年季明けになる。造仏長官公麻呂が口添えしたらしい。国人は作っておいた薬草を背負子に入れ、薬草で元気になった奥方の館に向かう。腰に効く宿り木、手足に効くすい葛、血の道用の益母草、つわりのときのからすびしゃく、咳止めの茅萱、ひびあかぎれの薬を届ける。奥方から絹の反物をもらう・・国人は絹女に似合いそうと思う・・。
④年季明けの国人たちは都から若狭に抜け長門周防に向かうが、奈良登りに帰り着いたのは国人ただ一人
天平勝宝4年752年、能登出身の逆も年季明けになり、4人で若狭まで行き、逆と別れて国人たちは日本海を西に向かうことにする。国人の背負子には行基上人の遺灰、絹の反物、池麻呂からもらった石臼、嶋麻呂からもらった写本と1貫文などを入れてあり、かなり重い。
国人たちは佐保川を渡り、奈良坂を下り、木津に泊まる、舟で泉川を下り、与等津から山背川を上って勢多へ出て、琵琶湖を舟で進み今津へ向かう。今津から山越え3日で若狭に着き、逆は東の敦賀を経て能登へ、国人たち3人は舟で長門周防に向かう。竹野で風のため5日待ち、舟を乗り換えて若狭と長門の真ん中の出雲を過ぎ、浜田で雨のため足止めになる。
道足は食がなくなり、甘葛を食べたいというので猪手が探しに行くが、猪手は3人組に金を取られて殺されてしまう。猪手の埋葬を終えるが、取り調べで3日も浜田に留め置かれる。
ようやく船出し、益田に着く。道足の食はますます細くなり、国人が甘葛を探しに行くが、そのあいだに病の道足が襲われ、国人の背負子の一貫文を盗まれてしまう。2日後に萩行きの舟に乗るが、途中で道足が息を引き取る。死んだ道足を抱いたまま鶴江に着き、寺で経を上げてもらって、翌朝、埋葬する。一人になった国人は野波瀬までの荷船に乗り、野波瀬から奈良登りに向かって山道を歩く。
奈良登りまであと3日、景信に山ほど話がある、絹女に会いたい、19だから結婚していたらお祝いに絹の反物をあげたい、まだ結婚していなくても人足と吹屋頭の娘では身分が違いすぎるから結婚は難しいが、絹女の姿を見て、その声を聞くだけで嬉しいなどと、休みながら夢想する。
奈良登りで自分が掘った銅が、あちらこちらの仏像になる。兄・広国は奈良登りから出ろと言ったが、銅作りに一生を費やしても悔いはないと思うようになる。
途中、村で一泊、山の小屋で一泊、ようやく榧葉山が見えた。景信が彫っていた石仏も見える。完成したようだ。景信に話すことがたくさんある。
瀬瀬川を渡る。吹屋頭の家が見える。人足小屋が見える。5年前と変わらない風景だ。釜屋頭の妻・嶋女に国人はいま帰ったと告げる。2年前の6月に3人、去年の3月と8月に3人ずつ先に帰ったはずだと国人が話すが、釜屋頭は誰も戻っていないと答える。
吹屋頭の家に行く。頭領の家に行く。頭領は嘆いても仕方ない、1人でも戻ったのは嬉しいと泣く。吹屋頭は絹女が死んでから1年、絹女は国人といっしょになりたいと言っていたが病に勝てなかった、と泣く。国人も泣く。
景信は今年の1月、大風であおられて落下、岩の下で冷たくなっていたことを聞く。景信の墓で国人は涙する。景信の小屋に行き、景信が彫った石仏を見上げると右が空白になっていた。景信はここに文字を刻もうとしたらしい。国人の頭に百字が浮かぶ「・・十五人上都 塗炭苦年余 ・・唯一人帰郷・・」。景信、絹女、亡くなった仲間への供養、国人は景信が残した空白に文字を刻もうと決意し、物語は終わる。
冒頭にも述べたが、結末は「景信に会い、行基上人のこと、大仏造営のこと、薬草のこと、文字を覚え詩、歌を作ったことをは語り合い」、「国人は、吹屋頭、頭領、釜屋頭、嶋女に祝福されて絹女と結婚、絹女はお礼にもらった絹の衣を身につけ、体調が悪いときは国人の薬草で元気を回復し」、「人足たちの暮らしが改善され、掘られた銅で各地の仏像が鋳造される」といった幕締めを夢想した。
聖武天皇の詔で始まった盧舎那大仏と大仏殿は、いまは世界遺産として参拝者、観光客を集めているが、造営のために大勢の人足が都に集められ、銅採掘場では国人のように過酷な労働が課されていたことにはなかなか思いが至らない。「国銅」では、国人という健気で向上心があり人を思いやる人足を主人公に、大仏造営の難事業を描き出している。大作である。 (2023.11)