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2018.5金沢を歩く4 金沢城/菱櫓・五十間長屋・橋爪櫓・三十間長屋・玉泉院丸庭園

2018年12月29日 | 旅行

石川を歩く>  2018.5 金沢を歩く4 金沢城/菱櫓~五十間長屋~橋爪櫓~三十間長屋~玉泉院丸庭園

 金沢城・橋爪門を抜けると広々過ぎる二の丸広場に出る。案内所で入館券310円を買おうとしたら、ここも65才以上は無料だった。前田家は気前がいい。無料で見学させていただいた。
 二の丸の東側に、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が復元されている。(写真web転載、左端が菱櫓、中ほどが五十軒長屋、右手前が案内所)。

 五十間長屋は南北に長い櫓で、一般には多門櫓=多聞櫓と呼ばれる長屋形式の櫓である。50間はおよそ90m、受付でもらったパンフレットの平面図をにらむと確かに90mほどありそうだから、50間で計画され、五十間長屋と名付けられたようだ。
 三の丸側の東壁が内堀に面した城壁のつくりで、平時には武器保管庫、倉庫として使われ、戦時には三の丸に侵攻してきた敵を攻撃する役割である(写真、三の丸からの眺め、左は橋爪門一の門二の門、橋爪門続櫓)。
 五十軒長屋入館口は二の丸にある。内部は柱、梁、小屋組の太い部材を現した豪快な木組みで、床、壁は板張りである。三の丸側の東壁には出窓が設けてあり、床は石落とし、窓は格子の隙間から鉄砲を撃つ狭間が設けてある。
 北の菱櫓から南の橋爪門続櫓まで110mを越える長大な建物には、外壁の一部がなまこ壁なので、なまこ壁の断面模型を展示したり、菱櫓の床の一部をガラス張りにして床の構造を見せたり、内堀と石垣の発掘の様子を展示したり、学芸員の努力がうかがえる。しかし、私たちのほかには親子一組のほか数人だけだった。活用のためのさらなる工夫を期待したい。

 菱櫓は三層で、上階まで上ると下に三の丸、左に河北門、右奥に石川門、さらに奥に市街が見える(写真)。戦時には、菱櫓から敵の動きをとらえ戦闘の指揮をとることができた。もちろん、石落とし、鉄砲狭間を備えた出窓も備えてある。
 橋爪櫓続櫓も三層で、上階に上ると一の門、二の門で挟まれた枡形が見える。平時には出入りする武士を監視し、緊急事態や敵が一の門を破って侵入してきたときには二の門を閉じ、橋爪櫓、橋爪門続櫓から狙い撃ちする。
 城の復元では城の重要な機能である戦時にはどのように敵を防御し、敵をせん滅するか、対して平時にはどのように活用するか、また遠望したときの城の美しさの秘訣は何か、などの展示や解説があると見学が盛り上がるのではないだろうか。
 
 五十間長屋を出て、二の丸西側の極楽橋を渡り三十間長屋を見る。極楽橋は、金沢御堂時代の参詣者が日本海に沈む夕日に極楽往生を願ったことから名づけられたようだ。橋の下は空堀になっているから、もともとこのあたりに崖があり極楽橋が架かっていて、前田利家がそのまま橋を築城に利用したのかも知れない。
 三十間長屋は極楽橋を渡り、石段を上った高台に建っている(次頁写真、南・東側の眺め)。創建は前田利家が大修理を行った時期の1624~1644年だが、焼失し、1858年に再建され、重要文化財に指定されている。五十間長屋と同じく、長屋形式の多聞櫓で倉庫に利用された。石垣を積んで土台を高くしているのは湿気を防ぐためと考えられるから、当初は食料庫だったのではないだろうか。一方、西側には出窓があり、格子窓もある(写真、西側の眺め)。石落とし、鉄砲狭間の仕掛けだから、戦時には西側の守りとされたようだ。
 創建時は30間≒54mだったが、再建後は26.5間≒48mと短くなった。南側は入母屋屋根だが、北側は切妻屋根である。北側の崖が軟弱地盤のため再建時に長さを短くし、屋根も切妻に変えたのだろうか。説明坂には理由について触れていない。時間が遅いため閉館していた。

 三十間長屋の西は崖になっていて、樹林の中を急坂が下っている。ガイドマップでは玉泉院丸庭園に行けそうなので、足場の悪い急坂を下りる。くの字に曲がると石垣が現れた。どうやら金沢城西縁は崖+石垣で固め、三十間長屋が西側の城壁代わりだったようだ。
 金沢城石垣巡りというパンフレットがあり、石垣の見どころが詳しく解説されている。主な石積みは自然石積み、粗加工石積み、切石積みの3種があり、金沢城ではその3種を使い分けて石垣が築かれているそうだ。急坂の石垣は自然石積みである。
 階段を下り松坂あたりから玉泉院丸庭園に入園する。
 加賀藩初代=前田家2代・利長(1562-1614)は、1581年に織田信長4女永姫(1574-1623)と結婚する。二人には子どもができなかったため利長の弟・利常(1594-1658)を順養子にする。利長死後、利常が加賀藩2代=前田家3代当主になり、永姫は剃髪し玉泉院と号した。
 いまの玉泉院丸庭園あたりはそれまで西の丸と呼ばれ、重臣の屋敷が並んでいたが、重臣の屋敷をほかに移して玉泉院の屋敷が建てられ、玉泉院丸と呼ばれた。おそらくそのころにも造園されていただろうし、利常は兄嫁とはいえ義母であり20才も年上だから足繁く玉泉院を訪ね、庭も楽しんだに違いない。
 玉泉院没後の1634年から利常は玉泉院丸の作庭に乗り出す。辰巳用水を引き込み、池には大中小の一の島、二の島、三の島を築き、土橋、木橋、石橋を架け、回遊式庭園とした(写真)。
 兼六園は曲水など饗応に利用されるが、玉泉院丸庭園は静かにくつろぐ庭としてその後の藩主も手を加え続けたらしい。

 東側の金沢城石垣上端までおよそ22mある。上写真中央上部の石垣が色紙短冊積石垣と呼ばれる積み方で、実に風流である。字の通り色紙のようなさまざまな色合いの石を短冊のように組み合わせて積み、頂部にV字型の石樋を組み込んでここから辰巳用水の水を落とす。いまは復元されただけで水は流れていなかったが、おそらく水は色合いの異なった石積みの表面を流れるとき、色とりどりに光を反射し、目を楽しませたようだ。
 その水は段落ちの滝と呼ばれる自然石を積んだ4段の水路に流れ落ち(写真web転載)、色紙短冊石積みの水とは違った野趣味な流れに変わる。武家でありながら、美的感覚も洗練されていたようだ。
 回遊路の西側の高台に休憩所・玉泉庵があり、庭園を一望できる。ここも16:30で終了していたので庭を眺め、玉泉院丸口からお堀通りに出た。  (2018.12)

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