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2018.3 名古屋城東南の石落としの千鳥破風が目を引く隅櫓、鉄板を打った表二之門は重文

2018年03月27日 | 旅行

2018.3 名古屋城・岐阜城・犬山城&明治村を歩く② 名古屋城 東南隅櫓 表二之門
 話を東門入口に戻す。東門あたりには、緑地化されている堀割に沿った石垣と石垣で囲まれた四角い広場=枡形の形が残っている。
 楼門や櫓などの建造物は残っていないが、二之丸東鉄門が残ったそうで、いまは本丸御殿の先の本丸東二之門跡に移築されている。1614年ごろに完成した本瓦葺きの高麗門形式で、柱、扉には鉄板を打ち付けた堅牢なつくりであり、国の重要文化財の指定を受けている。

 薬医門は本柱+扉+控え柱の上に屋根を架けるが、高麗門は本柱+扉の上に屋根を架け、左右の控え柱にはそれぞれ小屋根を架ける形式で、薬医門より簡略化され、規模も小さくなる。その分、守りが堅くなるようだ。二之丸東鉄門は移築されているので、天守見学前後に見ることができる。

 東門を抜けると、左手の生け垣の向こうに梅林があるが、これは帰りに寄った。その先に、清正公石曳きの像が置かれている。巨石の上で清正が扇子を振っているのだが、相当な巨石である。名古屋城の西側を堀川が流れているから、筏に巨石を積んで運んできたのだろうか?。どこの石だろうか?。説明坂は触れていない。
 右手に東南隅櫓が創建時の姿を見せている(写真)。名古屋城には東南=辰巳、西南=未申、西北=戍亥、東北=丑寅の4つの櫓がつくられたが、東北櫓は焼失した。現存3つの櫓はいずれも国の重要文化財であるが、西北隅櫓あたりは木造天守の木材加工所となってい城内からは見ることはできない・・西南隅櫓は帰りに見たので後述する・・。
 東南隅櫓は、内部3階、屋根2層で、堀側に石落としを設けた千鳥破風屋根が突き出ている。

 左手にきしめん亭があった。昼時なのでここできしめん+味噌カツ+稲荷のセットを頼んだ。小さな店で満席だったので、外のテラス席で食べた。簡単に腹ごしらえができたが、できれば「尾張名古屋は城でもつ」にふさわしい雰囲気をお願いしたい。

 きしめん亭の向かいが本丸の入口になる表二之門である。橋からのぞくと、内堀の水は抜いてあったがかなり深い。
 門の左右の袖は背丈を超えるほどに石垣を積み、その上にさらに背丈ほどの漆喰塗り土塀を巡らせ、丸い鉄砲用の狭間を設けている。
 1600年に西軍を破って天下統一をなしたがまだ不安が残るさなかの名古屋城築造だから、守りに徹したようだ。1612年の天守完成で東国の守りが万全となり、安心して1614年・夏の陣、1615年・冬の陣を仕掛けた、とも思えるほどの防備である。


 表二之門は二の丸東鉄門と同じつくりの高麗門形式で、本瓦葺き、柱、扉は鉄板が打ち付けられていて、門の先は枡形になっている。国の重要文化財であるが、耐震補強されていて門らしさがうかがえない。
 webを探し、耐震補強以前の写真を見つけた。門が小さいのは守備のためであろう。天下が太平になると、権勢を誇示するように規模が大きくなり、装飾が付加されていくが、御三家にもかかわらず尾張徳川家は名古屋城を旧情のまま保持したようだ。

   表二之門を入ると枡形になり、奥に本丸に入る表一之門があったが空襲で焼失していまはない。
 その奥の本丸御殿も天守も焼失したが、コンクリート造の天守が1959年に再建された。
 本丸御殿は2008年から復元工事が進められ、2013年に第1期分、2016年に第2期分、そして2018年6月に全体が公開される予定である。
 見学した3月時点では第2期分までしか公開されていないが、一方、木造天守の復元工事に伴い現コンクリートの天守は5月から閉館になる。
 名古屋城見学を計画している方は、今年5月6日までにコンクリートの天守を見学し、6月8日以降に本丸御殿を見学し、2022年以降に復元された木造天守を見学すると、すべてを見ることができる。
 そんなに何度も名古屋まで足をのばせない方は、コンクリート天守は解体されずいずれ資料館?として公開されるらしいから、2022年以降にまとめて見学する方法もある。続く

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