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2020.1シチリアの旅 2 パレルモへ+シチリア略史 

2021年02月24日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 2 ローマからパレルモへ+シチリア略史

 シチリアの旅2日目、朝5:00=日本時間13:00ごろ、ホリディ・イン・ローマで目が覚める。外はまだ暗い。温湿度計を窓の外に出したら5℃、58%だった。ローマは北緯42度に近い。日本では函館より北になる。地中海気候は教科書通り温暖なようだ。
 体がイタリア時間になれていないためか、夜中に何度か目が覚めた。室内は24℃、33%だったから、乾燥のせいかもしれない。

 スーツケースをまとめ、7:00に朝食を取る。ビュッフェスタイルで、食材が多い。野菜、ハム、ソーセージ、チーズ、フライドエッグ、クロワッサン、ヨーグルト、果物などを皿にのせる。
 日本では毎朝、煮大豆、大根おろし、野菜、納豆、フライドエッグ半分、肉か魚、ご飯、味噌汁、ヨーグルトが定番だから、趣が変わった。食事もだいじな異文化体験である。仕上げにエスプレッソを飲み、ミルクで苦みを抑え、朝食を終える。

 7:45出発予定ので、10分ほど前にバスに格納されたスーツケースを確認する。昨晩、スーツケース行方不明を体験したばかりなので、一安心する。
 ホリディ・イン・ローマは機能性を重視した設計で、外観も簡潔にデザインされている(写真)。
 空港に近い立地なので、ビジネスやフィウミチーノ空港で乗り継ぐ場合は便利であり、機能性重視の方が好まれるようだ。

 ホテルからローマ・フィウミチーノ空港まで15分もかからない。笠の大きい松や糸杉の風景を見ているうちに空港に着いた。
 空港入口に巨大なレオナルド・ダ・ヴィンチ像が置かれている(写真)。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)は、フィレンツェ郊外のダ・ヴィンチ村で生まれたルネサンス期を代表する芸術家である。ダ・ヴィンチは万能の才能に恵まれ、ハングライダーやヘリコプターのような飛行器具も提案している。

 フィウミチーノ空港は、イタリアを代表する天才芸術家+科学者にちなみレオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港と別称されている。
 空港ロビーにはダ・ヴィンチが提案した飛行器具の実物大模型が展示され、ダ・ヴィンチの図解入り手稿が巨大なパネルで展示されていた。
 ダ・ヴィンチの展示に目をきょろきょろさせながら、アリタリア航空カウンターでパレルモ行きにチェックインする。
 10:00ごろ、満席のパレルモ行きAZ1785が離陸する。雲一つなく見通しがいい。機体が傾いたとき、沿岸に設けられた養殖の生け簀?が見えた(写真)。地中海沿岸は漁業も盛んである。シチリアでは海鮮が楽しめそうだ。
 アリタリア航空では軽食がサービスされた。朝食をしっかり食べてきたのでコーヒーだけにし、地中海を眺めているうち、着陸態勢に入った。ローマ-パレルモの近さを実感する。
 11:00過ぎ、快晴のパレルモ・プンタ・ライ空港に着陸する。

 シチリアSiciliaを予習する。
 イタリア半島はよくブーツに例えられる。ブーツのつま先の少し先、幅わずか3kmのメッシーナ海峡を挟んだ地中海に浮かぶ島がシチリア島である。
 シチリア島のさらに南西に、幅145kmのシチリア海峡を挟んでアフリカ・チュニジア共和国が対面する。
 イタリア半島+シチリア島が地中海を東と西に二分しているんである。地中海を往来する船はメッシーナ海峡かシチリア海峡を通らなければ行き来ができない。
 見方を変えれば、シチリア島がイタリア半島とアフリカをつないでいる。ヨーロッパとアフリカを行き来するにはシチリア島を通らなければならない。
 この位置関係が激動的なシチリアの歴史を作りだした。

ギリシアの植民・カルタゴの支配  
 元々シチリア島には、西部にエリミ人、中部にシカニ人、東部にシケル人が住んでいた。紀元前8世紀からギリシア人の植民が開始され、植民都市が建設された。ギリシャの学者として有名なエンペドクレスやアルキメデスはシチリア島の出身である。ギリシャ人はそのころシチリアをシケリアと呼んでいた。
 紀元前480年以降、カルタゴ(現チュニジア共和国の海岸沿いのフェニキア人国家)とのあいだで戦争が繰り返される。シチリアにはカルタゴの植民都市もあった。
 紀元前311年、カルタゴはシラクーサとメッシーナが支配する島の東部を除いたシチリア島を支配下においた。 

ローマ属州
 紀元前256年、カルタゴがシラークサに侵攻、メッシーナはローマに救援を求め、第一次ポエニ戦争が起きる。ローマはシチリア島全域を占領、紀元前242年の第二次ポエニ戦争でカルタゴは撤退し、シチリアはローマのシキリア属州となる(この戦いの最中にアルキメデスが戦没する)。ローマ帝国の属州時代、シチリア島の農作物はローマの重要な食料供給源になった。
ヴァンダル王国・東ゴート王国
 440年、ゲルマニアから北アフリカに移住したヴァンダル王国がシチリア島を併合する。続いてゲルマン人の一派である東ゴート人がイタリア半島、シチリアを支配下に置き東ゴート王国を興す。
東ローマ帝国
 552年、東ローマ帝国が東ゴート王国を破り、シチリア島は東ローマ帝国領となる。・・7世紀、北アフリカに進出したイスラム勢力とローマ帝国アフリカ総督府との衝突が続く。

シチリア首長国

 827年、北アフリカ・カイラワーン(ケルアンとも呼ばれる)から侵入してきたアラブ人にシチリア島は征服され、シチリア首長国(831~1072)が成立する。
シチリア王国
 11世紀、イタリア半島南部を席巻したノルマン人がシチリア島を征服、1130年、シチリア伯ルッジェーロ2世がシチリア王位に就き、シチリア島とイタリア半島南部を統治するノルマン・シチリア王国が成立する。当時、イスラム教のアラブ人、ギリシア正教のギリシア人、カトリックのラテン系の人びとが共存していた。
 1194年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世がシチリア王位を奪った。1197年よりハインリヒ6世の子フェデリーコ1世=のちのフリードリヒ2世がシチリア王となり、1215年よりフリードリヒ2世が神聖ローマ皇帝位を兼ねた。 
 1266年、神聖ローマ帝国と教皇の紛争により、フランスの王族であるアンジュー伯シャルル1世がシチリア王国を征服、シチリア王カルロ1世として即位した。 

シチリア王国の分裂
 1282年、フランス・アンジュー家の圧政にシチリア住民が反乱を起こし(シチリアの晩祷)、アラゴン王ペドロ3世が介入してシチリア島を支配下に置く。シチリア王国はカルロ1世の大陸側ナポリ王国とシチリア島側の王国に分裂する。シチリア島はアラゴン王家が支配し、スペイン王国の成立後はスペイン・ハプスブルク家によって支配される。
スペイン継承戦争
 1700年にスペイン・ハプスブルク家が断絶するとフランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家とのあいだでスペイン継承戦争が始まる。トリノ出身のサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世がシチリアの王位を得る。 
四カ国同盟戦争
 四カ国同盟戦争(1718~1720)が終わり、ヴィットーリオ・アメデーオ2世はオーストリア・ハプスブルク家のカール6世と、シチリアとサルデーニャを交換する。以後シチリア島はオーストリア・ハプスブルク家の支配下に入る。 
ポーランド継承戦争
 ポーランド継承戦争が勃発すると、1734年、スペインがナポリ・シチリアを奪回し、スペイン・ブルボン家出身のパルマ公カルロがナポリとシチリアの王位に就いた。以後、シチリア王国、ナポリ王国はスペイン・ブルボン家の分家であるブルボン=シチリア家によって統治される。 

ナポレオン戦争と両シチリア王国
 ナポレオン戦争中、ナポリはフランス軍によって占領されるが、シチリア王フェルディナンド3世はパレルモに逃れ、シチリア島を確保する。ナポレオン戦争後の1816年、シチリア王国とナポリ王国は統合されて両シチリア王国となり、シチリア王フェルディナンド3世が両シチリア王フェルディナンド1世となる。 

イタリア統一運動・シチリアはイタリア王国に統合
 19世紀のころ、イタリアは両シリア王国を始め、教皇国家、トスカーナ大公国、サルデーニャ王国、パルマ王国、モデナ王国、ロンバルド=ヴェネト王国、ルッカ公国などの小国に分裂していた。イタリアの統一と封建制度打破を目指した革命運動が起き、1860年、ジュゼッペ・ガリバルディ率いる千人隊はシチリア島を占領し、ついで両シチリア王国の首都ナポリを奪取した。ガリバルディは占領地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上し、1861年に成立するイタリア王国にシチリア島は統合された。

マフィア、移民、ゴッドファーザー
 イタリア統一後、イタリア北部の都市化が進むが、シチリア島は産業の発達から取り残された。ファッシ・シチリアーニと呼ばれる労働者の運動が激化する。政府の弾圧でシチリア島から多くの移民が流出した。
 シチリアでは、19世紀にマフィアとして知られる犯罪組織が暗躍していた。マフィアがアメリカ移民に紛れ、19世紀後半、アメリカの大都市で勢力を拡大していった・・ゴッドファーザーの世界である。 
世界大戦後イタリアの自治州
 シチリアは、イタリア本土とともにはファシスト政権に制圧されていたが、1943年の連合国によるシチリア島上陸作戦によって解放される。 
 1946年、シチリアはイタリア共和国の自治州となる。
 シチリア島は地中海の東と西を結び、ヨーロッパとアフリカをつなぐ交通、交易の要衝であり、列強国がシチリア島を支配しようとしたことが、歴史を概観しただけでも理解できる。

 シチリア島が三角形であることから、ギリシャ植民時代、三脚巴=トリナクリアtrinacria(三角の意味)がシチリアの象徴とされた(シチリア州旗参照、中央の三脚巴)。
 三脚巴の中央のメデューサの頭は、蛇ではなく稲穂が伸びている。シチリア島が肥沃であり、メデューサを大地の恵みの神として崇めていたとの説もある。
 州旗の赤と黄色は、1282年のフランス・アンジュー家の圧政に対する反乱(シチリアの晩祷)で、最初に立ち上がったパレルモPalermoとコルレオーネCorleoneの勇気を称え、パレルモの赤とコルレオーネの黄色を地にしたとの説もある。
 州旗からもシチリアの歴史をうかがうことができる。 (2021.2)

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