yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2000.8 中国西北シルクロード19 ウルムチをあとにシルクロードの起点・長安=西安へ

2021年02月01日 | 旅行

世界の旅・中国を行く>   2000.8 中国西北少数民族を訪ねる=シルクロードを行く 19  ウルムチからシルクロードの起点である西安=長安へ

 7日目、17:30ごろ、ウルムチ中心街に入った。今日のホテル新疆假日賓館は新華北路に面しているが、2kmほど手前の新華南路に位置する市場バザールに寄り道した。Y字の通路に、日用品、衣類、食材、民芸品などの小さな店がすき間なく並んでいる。ウルムチでは最も大きいバザールらしい。同じような商品を並べた店が続くと、目移りしてしてしまう。あまり安いと品質が気になってくる。雰囲気だけ味わって、ホテルに向かった。

 ウルムチの中心は高層ビルが建ち並ぶ大都会である(写真)。中国政府の重点政策で、ウルムチの都市整備が進められているのかも知れない。ウルムチの都市整備は中国西北の安定にも寄与するのであろう。
 新疆假日賓館の英語名はHoliday Inn Xinjiangで、新たに建てられた四つ星の高級ホテルである(写真中央)。ロビーは広々として明るい。歴史を感じさせる風格のあるロビーもいいが、明るく広々としたロビーは安心感を感じる。
 8階のスタンダード・ツインルームにチェックインした(図)。標準的なつくりだが、新しく、設備も快適で、居心地がいい。窓から高層ビルの建ち並ぶ市街が見渡せる。上海には比べようもないが、大都会を感じさせる。かつて唐の詩人が詠んだ西域のイメージはない。これも中国西北の安定を目指す中国政府の狙いなのであろう。

 夕食前にロビーでコーヒー5元≒650円を飲んだ。しっかりした味わいだったが中国の物価に比べ少し高い。
 ロビーの民芸品店をのぞく。ウルムチでは名産とされる硬玉=翡翠が30元≒3900円だった。バザールに比べ高いが信頼できそうなので、ウルムチの記念に購入した。
 19:30ごろ、市街のレストランで、シシカバブーなどのイスラム料理を食べた。ウルムチにはイスラム料理店が多いらしい。1995年に訪ねたトルコでもシシカバブーを食べている。シシが串、カバブーがロースト肉を意味し、イスラム料理の定番のようだ。日本の焼き鳥が二回りほど大きくなたった感じで、食べ応えはある。
 イスラム教では酒はご法度だが、主に中国人相手の料理店なのでビールを頼むこともできた。中国西北少数民族シルクロードの旅は終わりになる。同行してくれたM君に感謝し、何度もビールで乾杯した。
 ほろ酔いで・・酩酊?・・ホテルに戻る。

 シルクロードの旅8日目、5:30ごろ起きる。夜半から雨になったようで、街全体が小雨に濡れている。窓を開けると冷たい風が吹き込んできた。ウルムチは冬が早いのかも知れない。
 スーツケースをまとめ、朝食を取り、8:00にチェックアウトする。
 8:30ごろ、西安便にチェックインし、10:10ごろ、雨のなかを離陸する。右手に雪?氷河?を乗せた山並みが見える(写真)。天山山脈だろうか。
 これまで飛行機から雪を見ても寒そうぐらいにしか思わなかったが、乾ききったシルクロードを旅したいま、夏でも溶けない雪、氷河を水源としたオアシスが東西の交易を盛んにし、豊かな文化を育んだことが実感できる。
 野帳をめくりながら、回族、チベット族、莫高窟、ウイグル族、カザフ族を思い出しているうち、着陸態勢に入った。窓から格子状に区画された街が見える。西安の郊外だろうか。西域に比べ、緑が街と共存している。交易や軍事にかなっていたことが西安=長安が長く都に選ばれた大きな理由だろうが、住みやすくなければ繁栄は長続きしない。緑は水の豊かさの証であり、水と緑は住みやすさの原点であろう。
 
 12:50ごろ西安咸陽空港に着陸する。西安=かつての長安はシルクロードの起点である。玄奘三蔵は長安を出て河西回廊~天山北路を旅し、天竺から天山南路~河西回廊を経て貴重な経典を長安に持ち帰った。今回は、中国西北少数民族シルクロードの旅だから、かつての都の雰囲気を感じようと帰りに西安1泊を組んでおいた。
 空港から市街に向かう車窓には豊かな緑、視界を埋め尽くす畑地が続く。ゴビタンの西域は異文化の刺激に満ちていたが、西安の緑を見ていると気分が落ち着いてくる。
 14:00過ぎに、市街手前のレストランに入ろうとしたら終了していた。・・初めて中国を訪れたのは1986年で、そのときは食券がないと街中の食堂では食事ができなかった。上海・同済大学C教授が私たちの食券をあらかじめ手配してくれていたが、食券があっても食材がなくなると食堂は閉まってしまう。食堂を何軒も探し歩いた体験を思い出した・・。
 14:00までだったのか?、別の事情か?、ほかのレストラン探しは止めて、今日の宿である西安城内の日航皇城賓館に向かう。

 西安Xianの西に、北から南に向かって黄河Huangheの支流である渭水Weishuiが流れている。紀元前11世紀、代に渭水中流域に都城が築かれた。以降、漢、北周、隋、そしてまで少しずつ場所を変えながらも、・・唐末に洛陽に都が移るまで・・中流域が都城になり、漢代に長安Changanと名付けられた。
 隋、唐のころの都城は東西9.7kmぐらい、南北8.6kmぐらい(単純計算で城壁周囲は36.6km)といわれ、南北、東西の格子状に道路で街割される条坊都市だった。平城京(710年~、東西4.3km、南北4.7km)、平安京(794年~、東西4.7km、南北5.2km)は長安の条坊都市を手本にしたとされるが、長安は平城京、平安京に比べ4~5倍の大きさであり、長安では坊の四周に城壁を築いていたから、様相はかなり異なるようだ。
 最盛期には100万人が暮らし、食糧問題の解決が難しくなり、それも洛陽遷都の理由とされる。

 唐末に大きすぎる都城は防衛に不都合として、長安城は大幅に縮小された。
 1368年にを興した洪武帝=朱元璋(1328-1398)は長安に西安府をおいたことから以後、西安と呼ばれた。都城は1375年ごろから城壁周囲20km、城壁高さ10mに増築され、1379年ごろに完成した。東西南北に門が構えられ、東は長楽門、西は安定門、南は永寧門、北は安遠門と名付けられた。
 明代中期、後期にも改修が加えられ、いまに残る西安城の規模になったとされる。資料によって数値が異なるが、城壁長さは東2.68km、西2.62km、北4.13km、南4.19km、周囲13.63kmが地図の大きさに一致する。城壁は煉瓦積みで、高さは12m、底部幅は15~18m、頂部幅は12~14mと圧倒する大きさで、かつては四隅に角楼を設け、98の望楼付き見張台があったそうだから、西域民族への脅威がうかがえる。

 北門=安遠門から西安城内に入った。北大街には歴史を感じさせる街並みが続き、現代的な建物が散見される。
 洪武17年・1384年に建てられた鐘楼zhonglouを通り過ぎる(写真)。当初は鼓楼とともに西大街と広済街の交点に建てられたが、1582年、鐘楼だけが現在の西大街・東大街、北大街・南大街の交点に移された。
 基壇は煉瓦積みで、一辺35.5m、高さ8.6m、鐘楼は地上から36mの高さを誇る。時報を知らせるとともに、戦時、非常時には司令部として使われるらしい。
 鐘楼から東大街を700~800m東に行くと日航皇城賓館である。チェックインし、カフェで遅めのランチ、ブレッド&コーヒーを頼んだ。  (2021.2)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする