2015年ツアー7日目 大使の間 マヨルカ焼き タペストリー ヒラルダの塔 /2016.7記
2015年10月26日、セビリアのアルカサル王城を見学している。乙女のパティオから大使の間に入った。
ここは王城の中核を占めていて、国家的行事や祭典が行われたらしい。
人形のパティオも乙女のパティオもアラバスター=雪花石膏によるアラベスク=幾何学紋様が目を引いたが、大使の間は一転して、重厚な雰囲気に変わる。とりわけ天井の壮麗さはすごみさえ感じさせる。
分かりやすくいえば二重になったドーム天井で、一重目はスギを幾何学模様で組んだ木組みの透かしで金箔で仕上げられている。二重目は赤みを帯びたドーム天井で、その赤みをスギの木組みの金箔が反射して、夜の天空を思わせる。見上げていると、大使の間に佇んでいるはずなのに、広大な原野を覆う夜の天空に吸い込まれていきそうな気分になる。
王の尊厳を表そうとしたのであろうが、それをつくり出したムーア人=モーロ人の技量のレベルに驚かされる。
2階に上がる。カルロス1世=カール5世の命で始められ、フェリペ2世時代に完成した2階はムデハル様式を引き継ぎながらもゴシック様式が採用されたから、交叉リブヴォールト天井+明るい色調で仕上げられている。
腰壁には濃い色調のマヨルカ焼きmallorca(スペイン語)=マヨリカmaiolica(イタリア語)=マジョリカmajolica(英語)で仕上げられている。
スペイン・カタルーニャの沖合にマヨルカと呼ばれる島がある。スペインで焼かれたムーア式=モーロ式の陶器が、マヨルカを中継してイタリアに送られた。ムーア人=モーロ人の焼き物師がイタリアに渡ったとの説もある。
その特徴は錫秞で、錫秞は真っ白な表面になるため絵付けが鮮やかになり好まれたそうだ。そのため、錫秞の濃い色調の陶器がマヨルカ焼き=マヨリカ焼き=マジョルカ焼きとして広まっていった。
スペインがメキシコを征服し、錫鉱を手にしたあとは、メキシコでもマヨルカ焼きが生産されたが、そのころのメキシコ産マヨルカ焼きはまだ未熟だっただろうから、ここのマヨルカ焼きは本家本元のマヨルカ焼きのようだ。
アルカサルを出たら、土砂降りだった・・セビリアの土砂降りはきわめて珍しいそうだ。土砂降りのなか、入場の列に並び、ヒラルダの塔に登った。
11世紀ごろまでセビリアはイスラム勢力・アッバード朝の支配下にあったが、11~12世紀には北アフリカのイスラム勢力であるベルベル人のムラービト朝が取って代わり、現モロッコのマラケッシュとコルドバを首都とした。
続いて12~13世紀にはムラービト朝を倒した同じくベルベル人のムワッヒド朝の支配となる。ムワッヒド朝はマラケッシュとセビリアを首都とした。1100年代後半、マラケッシュにクトゥビーヤ・モスク+ミナレットが建てられた。
クトゥービアの塔は、1997年モロッコの旅で見ている。12.8mの方形の平面で高さ69mの容姿をうかがうことができた。
1172年、セビリアにもモスクの建設が始まり、1184年にはミナレットが着工された。ミナレットの完成は1198年で、平面は13.6mの方形、当初の高さは82mで、クトゥービアの塔よりも一回り大きく、当時、ヨーロッパ一の高さを誇ったそうだ。
1248年、フェルナンド3世がセビリアを奪回する。当時はモスクもミナレットもそのまま残された。
1356年の大地震で、ミナレットの頂部が崩れる。
1568年、地震で崩れたミナレットの上に、ルネサンス様式で同じ大きさの方形階、その上に二回りほど小さい方形階、さらに円形階を重ねた鐘楼が設けられ、その上にブロンズの女神像が安置された。女神像は風見を兼ねていて、風見=スペイン語のヒラルダであることからヒラルダの塔と呼ばれるようになった。
下層はイスラム様式、上層はルネサンス様式だが、違和感はない。
600年にわたるイスラム世界から国土を回復したカトリック教徒はイスラム様式を認めつつも、それを凌駕する意気込みをヒラルダの塔で表そうとした、そんな気がする。