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イタリア紀行2004-22 フィレンツェの歴史街区はメディチ家なしで語れない

2015年04月01日 | 旅行

今日は、上野東京ラインに乗り、東京駅に出て、皇居東御苑へ、続いて千鳥ヶ淵まで歩き、満開の桜を楽しんだ。いずれ紹介したい。

イタリア紀行2004-22 「イタリア4日 ポルタロッサ通り シニョーリア広場 ヴェッキオ宮殿 ネプトゥーヌスの泉」 ホームページにリンクOneDrivehttps://onedrive.live.com/embed?cid=75434A3C7766D39B&resid=75434a3c7766d39b%211019&authkey=AJqDwKg7D9nURIY&em=2
 アルノ川はしばしば氾濫したそうで、1557年、サンタ・トリニタ橋が流されてしまう。フィレンツェを統治していたメディチ家のコジモ1世はバルトロメオ・アンマナーティに橋のデザインを依頼し、1570年に完成する。
 コジモ1世はバルトロメオ・アンマナーティがお気に入りだったようで、ローマ教皇ピウス4世から寄贈された記念柱をサンタ・トリニタ広場に立て、柱の上に飾るブロンズ像をバルトロメオ・アンマナーティに依頼した。それが正義の女神テミス=ユースティアである。
 話が飛ぶが、ヴェッキオ宮殿の脇にネプトゥーヌスの泉がある。この泉はコジモ1世がジュネーブ?から引いてきたフィレンツェで初めての公共水道である。この泉を飾る彫像もバルトロメオ・アンマナーティのデザインである。ネプトゥーヌスはギリシャ神話のポセイドンのことで、海の神である。バルトロメオ・アンマナーティはネプトゥーヌスの顔をコジモ1世に似せたそうだが、遠目には力強さが感じられない。これを見た口の悪いミケランジェロは大理石を無駄にしたと酷評したらしい。
 ヴェッキオ宮殿が建ってるところがシニョーリア広場である。シニョーリアとは統率者のことで、統率者の居城がシニョーリア宮殿、シニョーリア宮殿が建っている広場がシニョーリア広場と呼ばれた。
 コジモ1世がトスカーナ公となったころこのシニョーリア宮殿を居城とし、ジョルジョ・ヴァザーリに大改装をさせた。その後、コジモ1世はアルノ川を渡った先のピッティ宮殿を買い取り、ここに移り住んだ。それまでのシニョーリア宮殿は、古い宮殿=ヴェッキオ宮殿と呼ばれるようになった。
ヴェッキオ宮殿は手狭だったので、ジョルジョ・ヴァザーリの設計で、隣接して政務事務所を建てた。事務所=ウフィツィなので、ウフィツィ宮殿と呼ばれた。
ウフィツィ宮殿からピッティ宮殿に行くにはヴェッキオ橋を渡らなくてはならない。そのころのヴェッキオ橋は肉屋や商店が建て込んでいたので、コジモ1世はヴァザーリにウフィツィからピッティまでのおよそ1kmの空中回廊をつくらせた。
どこを見てもフィレンツェはメディチ家が重なる。

イタリア紀行にリンクplala

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