この本に著述されているのはオランダ語の通訳官です。
江戸時代に人々が最初に聞いた外国語はポルトガル語でポルトガル人は「南蛮人」と呼ばれていたのでポルトガル語は「南蛮語」と呼ばれていました。
南蛮語の通訳官について後日伝えられていないのは、来日した南蛮人はみずから難解な日本語の習得に努め、布教と貿易に従事したので、通訳として特記されるような人物がいなかったことと、ポルトガル人の活動期間が長い鎖国期間の中で比較的短かったからだと思われます。
その後、キリスト教が禁教となりポルトガル人の来日が禁じられ、代わって長崎に来日しオランダ商館での業務が許されたオランダ商人には
日本語の習得が許されませんでした。
そのため江戸幕府が日本人の阿蘭陀通詞(オランダ語の通訳官)の用意をしなくてはなりませんでした。
この本は4部から構成され、
第一部は阿蘭陀通詞団の人々がいかに異国の言葉を習得し、目前に迫る業務に立ち向かったかが記されています。
第二部は長崎の出島のオランダ商館での業務、通詞団の組織などが記されています。
第三部は徳川幕府がオランダのカピタン(船長)に課した江戸参府に立ち会う通詞の江戸勤務(江戸、浦賀、下田、三崎)の業務に触れています。
第四部は代表的通詞23人について綴られています。
第一部と第四部が特に興味深かったです。
代表的通詞の項では
八代将軍徳川吉宗のペルシャ馬輸入の御用に携わった今村源右衛門、
医術を学び、外科医として門下生の指導にあたった楢林鎮山、
米国使節ペリーとの条約交渉で主任通訳官を務めた森山栄之助、
法律を学び裁判所長、大審院長まで務めた本木昌三などが特に印象に残っています。
胸を打たれたエピソードはシーボルトの通訳を務めた馬場為八郎の話です。
国禁の日本地図を国外に持ち出そうとした、いわゆる「シーボルト事件」では通訳の馬場も捕えられ永牢の刑を受けます。
出羽亀田藩にお預けとなった馬場は警護の佐藤左門にオランダ語を教え、鍼医の和田杉雪には蘭方医学を教授します。
結局、馬場はその地で亡くなってしまうのですが、和田杉雪は遺骸を掘り起し、荼毘にしたのち、遺骨を妻とともに馬場の故郷長崎まで届けたのです。
著者があとがきで書いてある通訳に関する言葉は名言だと思います。
「通訳が有能であればあるほど、その存在が意識されなくなる」
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