伊予の旅 <十一>
松山での観光先は迷ったのですが、石手寺にしました。
四国霊場第五十一番札所です。
道後温泉駅前からバスを利用。
5分で着いてしまう近さで、バス停からも至近。

境内に入ると仏具やお土産を売るお店の並ぶ参道があり、そこを通り抜けると山門がどんと迎えてくれます。
国宝だそうです。
門を潜ると右手に弘法大師を祀ったお茶堂、その前には三重塔。
お線香がたくさん焚かれ、参詣するたくさんの方々で賑わっていました。
<三重塔>

<お茶堂>

さて、なんで訪問先にここを選んだのか。
それは物見遊山な興味本位な理由からでした。
石手寺は山門や三重塔以外にも重文に指定された建物が複数ある由緒あるお寺なのですが、実は全国屈指の珍スポットらしいのです。
それがどんななのか自分の目で確かめて来ました。
被写体は仏像が主となってしまうので私は撮る事ができず、以下写真は少ないです。
ご容赦を。
まずは本堂のすぐ裏手の山にあるマントラ洞窟。
いざ行かん。
<マントラ洞窟入口>

中は狭く長いまっすぐ伸びる横穴で、最低限の灯りが灯るのみのほとんど真っ暗と言っていい闇の中を歩きます。
通路の幅は一定ではなく、壁はデコボコで湿っていそう。
足元には水溜りがあったり。
通路中央には石仏が間隔を置いて並び、行きと帰りの道を分けています。
なんか写りそうで写真なんて撮れません。
所々に仏教の教えが書かれた板が置かれ、お寺の施設であるのですが、電気の消えた らしからぬ電飾装置が吊るされていたり、お地蔵様へのお供え物が散らばっていたり、雑然とし少し荒れた雰囲気も。
混沌としたあの世の世界と見えなくもない。
そんななのでちょっと怖いです。
そんなトンネルが数十m続き、反対側の出口に到着。
外に出ると車も通る一般道で、ホッと一息。
さて次は、道路の反対側に昔のテーマパークの入口みたいなゲートがあります。
だいぶ年を経て色あせてます。
その向こうに五百羅漢堂があるという。
ゲートをくぐり、インドを思わす半分崩れた仏像が置いてある庭を進むと、金色のドームが現れました。
<こんなの>

なんだこれは。
入口前の広場の周りを赤い柱の回廊が巡らされ、その右手には修行僧なのか骨と皮だけになって坐禅する人の大きな像があります。
血管が浮いてる。
そんなに古くはない。
お茶堂辺りの参詣客よりは圧倒的に少ないものの、マントラ洞窟はそれなりに人が歩いていたのに、ここには誰もやってきません。
道路はすぐそこなのに車は通らず、辺りにひと気もなく、そぼ降る雨の曇天の下という事もあり、屋外なのに結構怖いです。
意を決して建物の中に入ってみました。
古いおふだの紙が床に散らばっていて、塵の積もっていそうな机があり、その後ろに階段があります。
あー、どうなんだろ。
ドキドキ。
上ってみると建物の形どおり円形の室内で、うわあ木彫りの像ばかりウン百体。
コロッセオではありませんが円形劇場風に中央から階段状に高くなる床に一面、仏像が不等間隔に置かれ埋め尽くされていました。
いわゆる普通の日本風仏像もあったのかもしれませんが、この仏像、印象に残った像は私がイメージする五百羅漢とはかけ離れていて、東南アジアかポリネシアか南アメリカのジャングルに忽然と現れるトーテムポール様な神像ばかりでした。
それはもう多種多様な意匠です。
天井に設けられた明り取りの窓からの明かりしかないので薄暗く、階段出口は部屋の中央で、つまりすべての仏像がこちらを向いています。
このみんなに見つめられる感覚はとても苦手。
居ても立ってもいられません。
本当に五百体あるのかとか、像はどんな彫り様なのかとか、じっくり観察なんてできませんでした。

当然、写真なんて撮れるわけもなく、手を合わせた後、なんとか明り取りの天窓を撮影し、辞去しました。
<こんなの>

あー怖かった。

みんな知らないのか、知っていて訪れないのか、結局ここでは他の参詣客とは誰とも合わず。
マントラ洞窟へと戻りました。
トンネルをさっきと逆に歩きます。
出口手前に左手に分岐する道があります。
そちらに入ってみました。
ここが最後の恐怖スポット。
水溜りがほとんどを占める足場の悪い通路を進むと、おどろおどろしい(そう見えました)壁画が描かれ、片隅には紙のおふだが山と積まれた空間に出ました。
マントラ洞窟よりさらに暗く、雑然として、壁には仏像が並び、最奥には鉄柵が嵌められ、その向こうにはどこから集めてきたんだという小さな仏像が中空に大量に掛けられていました。
怖いよう。
後で調べてみると、弘法大師修行場とありました。
その当時こうだったとは思えないですけど。
ああ、しかしなんでこんな造りなんだろう。
出口から外に出ると、金剛界だか胎蔵界だかを旅してきて現世に戻ったような錯覚が。
珍スポットなのかもしれませんが、実は計算され仕組まれた仏の世界を体感経験する造りになっているのかも、と思ってしまいました。
松山での観光先は迷ったのですが、石手寺にしました。
四国霊場第五十一番札所です。
道後温泉駅前からバスを利用。
5分で着いてしまう近さで、バス停からも至近。


境内に入ると仏具やお土産を売るお店の並ぶ参道があり、そこを通り抜けると山門がどんと迎えてくれます。
国宝だそうです。
門を潜ると右手に弘法大師を祀ったお茶堂、その前には三重塔。
お線香がたくさん焚かれ、参詣するたくさんの方々で賑わっていました。
<三重塔>

<お茶堂>

さて、なんで訪問先にここを選んだのか。

それは物見遊山な興味本位な理由からでした。
石手寺は山門や三重塔以外にも重文に指定された建物が複数ある由緒あるお寺なのですが、実は全国屈指の珍スポットらしいのです。
それがどんななのか自分の目で確かめて来ました。
被写体は仏像が主となってしまうので私は撮る事ができず、以下写真は少ないです。
ご容赦を。

まずは本堂のすぐ裏手の山にあるマントラ洞窟。
いざ行かん。

<マントラ洞窟入口>

中は狭く長いまっすぐ伸びる横穴で、最低限の灯りが灯るのみのほとんど真っ暗と言っていい闇の中を歩きます。
通路の幅は一定ではなく、壁はデコボコで湿っていそう。
足元には水溜りがあったり。
通路中央には石仏が間隔を置いて並び、行きと帰りの道を分けています。
なんか写りそうで写真なんて撮れません。

所々に仏教の教えが書かれた板が置かれ、お寺の施設であるのですが、電気の消えた らしからぬ電飾装置が吊るされていたり、お地蔵様へのお供え物が散らばっていたり、雑然とし少し荒れた雰囲気も。
混沌としたあの世の世界と見えなくもない。
そんななのでちょっと怖いです。

そんなトンネルが数十m続き、反対側の出口に到着。
外に出ると車も通る一般道で、ホッと一息。
さて次は、道路の反対側に昔のテーマパークの入口みたいなゲートがあります。
だいぶ年を経て色あせてます。
その向こうに五百羅漢堂があるという。
ゲートをくぐり、インドを思わす半分崩れた仏像が置いてある庭を進むと、金色のドームが現れました。
<こんなの>

なんだこれは。
入口前の広場の周りを赤い柱の回廊が巡らされ、その右手には修行僧なのか骨と皮だけになって坐禅する人の大きな像があります。
血管が浮いてる。

そんなに古くはない。
お茶堂辺りの参詣客よりは圧倒的に少ないものの、マントラ洞窟はそれなりに人が歩いていたのに、ここには誰もやってきません。

道路はすぐそこなのに車は通らず、辺りにひと気もなく、そぼ降る雨の曇天の下という事もあり、屋外なのに結構怖いです。
意を決して建物の中に入ってみました。
古いおふだの紙が床に散らばっていて、塵の積もっていそうな机があり、その後ろに階段があります。
あー、どうなんだろ。
ドキドキ。
上ってみると建物の形どおり円形の室内で、うわあ木彫りの像ばかりウン百体。
コロッセオではありませんが円形劇場風に中央から階段状に高くなる床に一面、仏像が不等間隔に置かれ埋め尽くされていました。

いわゆる普通の日本風仏像もあったのかもしれませんが、この仏像、印象に残った像は私がイメージする五百羅漢とはかけ離れていて、東南アジアかポリネシアか南アメリカのジャングルに忽然と現れるトーテムポール様な神像ばかりでした。
それはもう多種多様な意匠です。
天井に設けられた明り取りの窓からの明かりしかないので薄暗く、階段出口は部屋の中央で、つまりすべての仏像がこちらを向いています。
このみんなに見つめられる感覚はとても苦手。

居ても立ってもいられません。
本当に五百体あるのかとか、像はどんな彫り様なのかとか、じっくり観察なんてできませんでした。


当然、写真なんて撮れるわけもなく、手を合わせた後、なんとか明り取りの天窓を撮影し、辞去しました。
<こんなの>

あー怖かった。


みんな知らないのか、知っていて訪れないのか、結局ここでは他の参詣客とは誰とも合わず。
マントラ洞窟へと戻りました。
トンネルをさっきと逆に歩きます。
出口手前に左手に分岐する道があります。
そちらに入ってみました。
ここが最後の恐怖スポット。
水溜りがほとんどを占める足場の悪い通路を進むと、おどろおどろしい(そう見えました)壁画が描かれ、片隅には紙のおふだが山と積まれた空間に出ました。
マントラ洞窟よりさらに暗く、雑然として、壁には仏像が並び、最奥には鉄柵が嵌められ、その向こうにはどこから集めてきたんだという小さな仏像が中空に大量に掛けられていました。
怖いよう。

後で調べてみると、弘法大師修行場とありました。
その当時こうだったとは思えないですけど。
ああ、しかしなんでこんな造りなんだろう。

出口から外に出ると、金剛界だか胎蔵界だかを旅してきて現世に戻ったような錯覚が。
珍スポットなのかもしれませんが、実は計算され仕組まれた仏の世界を体感経験する造りになっているのかも、と思ってしまいました。
